(3)

 後には、僕とみどりが取り残された。


「疲れたでしょ?」


 声を掛ける。


「ううん」


 みどりが答える。


「なんかね、二十年分の楽しさをね、さっき全部味わったような気がする。昨日まで、山の中で泣き暮らしてたのが信じらんない」

「ははは。前にね、母さんに言われたことがあるんだ。悲しいことは黙ってても来る、でも楽しいことは追いかけないと掴まらないってね。小屋で話してた寂しさを追い払う方法って、案外こういうことなんじゃないかなって思う」

「そうね」


 みどりは笑いながら言った。


「あはは。やっぱり体験が大事だね。がんばらなきゃ」

「はめをはずし過ぎない程度にね」


 僕は、額の落書きが取れない顔をみどりに向けた。みどりがまた腹を抱えて笑いだした。ちぇっ。


「見ものだよなあ……」


 僕は、ぺったりくっついて眠っている園田さんとリョウを指さした。


「なにが?」

「うーん。本当なら、あの状態のまま布団に放り込んで、朝目が覚めた時の二人の反応を見たいんだけどなあ」

「もう! 悪趣味なんだからー」

「でも、みどりの今朝の反応だって、なかなかのものだったよ?」


 みどりは急に思い出して恥ずかしくなったのか、あうあう言いながら、真っ赤になって膨れた。


「もうっ! 知らないっ!」


 その様子を見ながら、僕はこれからのことを頭に思い浮かべた。僕だってみどりのことは言えない。寂しさのあまり足踏みしかできなかった一年半は、やっぱり無駄としか言いようがない。それを繰り返しちゃだめだ。


「あ、そうだ」


 僕はあることを思い出し、台所から猪口を二つ持ってきた。それに一升瓶の底に少し残っていた酒を注いで、座卓の上に並べた。


「穂垂。出見。僕らは僕らの道を歩き出す。これから僕は、みどりと人生を作っていくつもりだ。それが僕とみどりの為すこと。今日はね、その始まりの日だった。だから一杯やってくれ」


 そして、あの二人の童子の姿を思い浮かべて目を瞑り、手を合わせた。隣にみどりが来て、同じように手を合わせた。酒の中に電灯が映っている。見つめていると、その水面にふいっと水輪が走った。ごちそうさん。そう言われたような気がして、みどりと二人で静かに笑った。


           −=*=−


 夜遅かったけれど、僕もみどりも風呂に入った。小屋で風呂に入れなかったことは、本当に堪えた。ゆっくり湯に浸かって、体をリラックスさせることがどれだけ心地良いか。風呂上がりの夜風が、どれだけ気持ちいいか。風呂のありがたさが、あの経験で初めて分かる。湯上りに浴衣に着かえたみどりは、僕の出した麦茶を飲みながら団扇で髪を乾かしている。僕はふと疑問に思ったことを聞いてみた。


「みどり。夏は沢で沐浴できるけど、寒い時はどうしてたの?」

「えっとね、道具部屋に木桶を置いて、そこに水を入れて焼け石を放り込むの。それで、水を温めて手ぬぐいを浸して体を拭くの」

「えっ? 拭くだけ?」

「それしかしょうがないもの。小屋では水は貴重だったから、飲み水優先。風呂は贅沢だったの」

「そうかあ」


 みどりは、遠い昔を懐かしむように呟いた。


「お父さんたちと暮らしてた時には、早くこんなとこから出たいと、いつも思ってた。でも今思うと、すごく不便なところだったからこそ、わたしたちは生きるってことに全力で立ち向かってたのかもしれない」


 ちょっとの沈黙があって、みどりは続けた。


「どこでも、どんな状況でも生きていけるという精神力と生活力。お父さんは、わたしにすごく大きな財産を遺してくれたのかもしれないね」

「うん」

「体調さえ戻れば、きっとわたしはごきぶりなみにタフよ。だから安心して」


 みどりは右腕をまくり上げて、力こぶを作った。最初に見た時の、小枝のような細腕という印象はすでになくなっていた。


「そうか。じゃあ、さっそく一仕事頼もうかな」

「なあに?」

「あそこの酔っ払い二人を布団に放り込もう」


 僕は客間を見に行った。布団は二組敷いてあったけど、これはダブルみどりの分で、僕の部屋にリョウと僕、という予定なのだろう。だけど、僕はまだ自分の部屋でみどりと話をするつもりだった。居間に戻ってみどりに聞いてみる。


「なあ、客間がみどりと園田さんの設定みたいなんだけど、僕はまだみどりと話したいことがある。客間にリョウと園田さんを寝せて、僕らは僕の部屋ってことじゃだめかな?」


 みどりは僕の提案に驚いたようだ。


「ふざけて言ってるわけじゃないのよね」

「もちろん。ちょっと園田さんに気がひけるけど、リョウも園田さんも着のままだから、大丈夫だろ。なんなら、バリケードでも作っておいてやるさ」


 みどりはちょっと考え込んでいた。そしてたしなめるように言った。


「こうちゃん。やっぱりそれはだめだよ。園田さんをお客さんとして預かっている以上は、充分に心配りしないと」

「そうか。そうだよな」


 僕は、舞い上がって分別を失っていた自分を恥じた。


「分かった。とりあえず園田さんを客間に連れて行こう」


 僕はみどりに手伝ってもらって、ぐだぐだの園田さんを脇から持ち上げると、背負って客間に運んだ。みどりに上着を脱がせてもらい、布団に横たえて上に毛布をかけると、園田さんが寝言を言った。


「こうちゃん。好きだったのに……」


 寝顔が歪んで、目尻に涙が滲んでいる。僕とみどりはやるせなく、その寝言を聞いた。


「園田さん、ごめんね。こうちゃんをとってごめんね。だけどもう、わたしはこうちゃんがいないと生きられないの。その代わり、わたしは全てを懸けてこうちゃんを支えるから。だから。こうちゃんをください」


 みどりはそう言うと、園田さんに深々と頭を下げた。


           −=*=−



 居間に戻って、今度はリョウを僕の部屋に引きずっていこうとしたら、みどりに止められた。


「ねえ、少しこうちゃんの部屋で話していい?」

「うん。いいけど」

「もう少し髪を乾かしてからいくから、先に部屋に行っててくれる?」

「分かった」


 僕は自分の部屋に入ると、灯りをつけずに窓を開けた。黒い山塊に塗りつぶされた空間の上端に、わずかに星が見えた。ひやりとした空気には木香が混じり、遠くでフクロウの鳴き声が幽かにたなびいている。


 三日間……。そう、たった三日間の出来事だったんだ。掃いて捨てるほどある平凡な日々の中に、なぜか詰め込まれた濃密な三日間。いろいろな運命が、始まり、変わり、係り合い、幕を下ろした。そして、僕らの未来をも大きく変えようとしている。


 僕は、ここに来る時に列車の中で抱えていた疑問を、闇の中で問い返す。


 僕は、どこにいるんだろう?

 僕は、どこへ行くんだろう?


 そそれは僕だけでなく、みどりも、園田さんも、そして誰もがみんな不安として抱き、迷うこと。その問いに答えを求めようとすることは、無駄なのかもしれない。でもそれが、僕らが生きている、生きていくということなんだ。


 さらっと襖が開く音がして、みどりが部屋に入ってきた。窓際の僕の横に立つ。石鹸の匂いがほんのり漂ってくる。


「あれ? いつの間に?」

「眠れなくて。側にいていい?」

「いいけど」


 浴衣姿の水鳥が、窓際に僕と並んで立った。かすかに石鹸の匂いが漂ってくる。


「静かだね。窓を開けているのに、ほとんど音も光も入ってこない」

「そうだな。まるで暗闇の中に二人だけ取り残されてるみたいだ」


 みどりは僕を正面に向けると、ふわっと抱きついた。


「こうちゃん。わたしね……」

「うん?」

「これから二度と、寂しいって言わないことにする」

「そっか」

「一生分の寂しいは、もう言ったから」

「……」

「だからね」

「うん」

「ずっとわたしを見ていてね。わたしが、寂しいって言いたくならないように。そして……」


 みどりは抱きつく腕に力を込めた。


「もし。もしも、わたしが折れそうになったら。挫けそうになったら。わたしに温もりをちょうだい。わたしは、いつでもそれで立ち直れる。暖かいこうちゃんを感じることで、どんなに辛いことがあっても、わたしは生きていける」


 そして僕を見上げて言った。


「こうちゃん、好きよ。世界中の誰よりも」


 むさぼるように唇を合わせた。それは。長い時に隔てられ、僕らの間に埋もれていた全ての感情が噴き出した瞬間だった。僕の中にわずかに残っていたとまどいや躊躇は、この瞬間に全て消え去って、代わりに僕の中に絶対に倒れない柱を立てた。愛情という名の柱を。


 唇を離してからも、僕らはずっと抱き合っていた。お互いの温もりを確かめるように。


 夜風が冷たくなってきた……。名残惜しそうにみどりが離れる。僕は窓を閉める。


「リョウを引きずってくるよ」


 僕は部屋を出ようとして、振り返って言った。


「一生言い続ける言葉だけど、口に出すのはこれが初めてだね。みどり。愛してる」


 みどりは、これ以上ない笑顔で僕の告白を受け入れてくれた。


           −=*=−


 みどりは、お休みと手を振って客間に戻った。僕の部屋ではリョウがいびきをかいて寝ている。さっきまで愛の妖精が粉を振りまいていた部屋は、一転して酔っ払いの収容所になってしまっていた。まあ……仕方ないよな。


 リョウの寝顔を見ながら、僕はリョウの変わらない友情に深く感謝する。壊れたら作り直せばいい。転んだら立ち上がればいい。後ろを向くな。前を向いて歩け! 自分の姿を見せることで、真実に気付かせる。リョウは、押しつけがましいことは何一つ言わない。園田さんもそうだ。そんな難しいことを平然とやってのける。僕にもそれができるだろうか?


 僕は、リョウや園田さんにたくさんのものをもらってきた。それに報いるには、僕が、僕自身が変わらなきゃならない。がんばろう。僕には、支えなければならない人ができたのだから。愛情という言葉だけではなく、それを支え続ける努力が必要な、大切な伴侶ができたのだから。だから、がんばろう。


 僕は、寝ているリョウの鼻をつまんだ。


「んががっ!!」


 情けない声を上げて、リョウが寝返りを打った。僕は静かに言った。


「ありがとな。園田さんとうまくやれよ。おまえのガッツならきっと落とせるから」


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