(3)
僕が久しぶりの我が家の風呂を満喫して戻ってきた時には、居間には母さんとみどりしかいなかった。園田さんはまだ神社から戻っていない様子だったし、おばさんは疲れたから少し休ませてくれと言って、客間で横になっているらしい。父さんは蕎麦打ちの材料を買い出しに行った。期せずして、三人だけになれた。母さんはすぐに本題を切り出した。
「こうちゃん」
「なに? 母さん?」
「みどりちゃんをうちで預かろうと思うんだけど、それでいいよね?」
「もちろん。僕からそう頼もうと思ってたから」
「そう……」
「みどりちゃんもそれでいい?」
「松木さんの方で許してもらえるのであれば、ぜひ。家事でも、お店でもなんでもお手伝いしますので」
「分かったわ」
母さんはそう言うと、僕らをかわるがわる見比べた。
「あんたたち、もしかして、もしかするの?」
どう答えていいものやら。僕が考え込んでいると、みどりがストレートに答えた。
「お母さん、わたしね。こうちゃんが好きなんです。母が死んだ後、心からわたしに優しくしてくれたのは、こうちゃんだったから。小屋で死にかけてたわたしを救い出してくれたのも、こうちゃんだったから」
「そっから先は僕が言うよ」
僕は正座して母さんに向き直った。
「二日かかったのはね、長い時を隔てて分からなくなっていたお互いの想いを確認するのに、時間がかかったから。それは理解してほしい」
母さんは静かに言った。
「確認できた?」
「できた、と思う。でもまだ始まったばかりだし、みどり自身のハンデも大きい。僕はみどりが好きだけど、結果を焦りたくない」
「そう……」
母さんはまた僕らを見比べると、にっこり笑った。
「待望の娘ができるわ。嬉しい」
え!? その後の母さんの説明は、仰天ものだった。
「みどりちゃん。私は未央乃さんをよく知っているの。未央乃さんは高市さんに惚れ込んで、苦労することは承知で山の中に飛び込んで行ったのよ」
みどりがのけぞって驚いた。
「ええええっ!? てっきりお父さんがお母さんをだまくらかして、山の中に連れ込んだとばかり……」
「みどりじゃあるまいし」
僕が混ぜっ返すと、強烈な肘鉄が脇腹を直撃した。
「ぐえっ!」
こ、これは出見仕込みかっ!
母さんが、こそっと笑った。
「ふふ。不器用な高市さんに、そんな真似が出来るわけないでしょ。未央乃さんに辛い思いをさせたくないと考えて、逆にことさら邪険にしたんだけど、結局未央乃さんのアタックに押し切られたのよ」
「はー。ちっとも知りませんでした」
「未央乃さんは、赤ちゃんだったあなたを抱いてうちの店に来た時に、嬉しそうにその話をしてたのよ」
「そうだったんですか……」
「その時にね」
母さんは、僕の方を見て悪戯っぽく笑った。
「私にもちょうど幸助が生まれたばかりだったから、交換しようかって、冗談言ってたの」
なんじゃそりゃ!
「私は娘が欲しかったんですもの。父さんには悪いけど。そして、木下では本当は男の子を望んでた」
どして? みどりも首を傾げてる。
「跡継ぎとかそういうことではなく、未央乃さんへの負担を少しでも軽くしたい、そのためには力仕事を早く任せられる男の子の方がいいってね。だから、みどりちゃんが生まれた時の、弥太郎さんや高市さんの落胆はひどかったの。でも未央乃さんは、そんなことちっとも気にしてなかった。やっと高市さんとの子供ができた、それだけでものすごく嬉しそうだったわ」
母さんは、今度は寂しそうな顔をした。
「ただね。もう未央乃さんは、自分の体のことを分かってたみたいなの。あと何年、高市さんやみどりちゃんと一緒に暮らせるかわからないって。だからわたしに何かあったら、みどりをお願いって。その時に、もう頼まれていたのよ」
僕もみどりも、それは初耳だった。そうか。母さんがみどりを気にしていた、もう一つの訳が分かった。
「みどりちゃん。お父さんは、みどりちゃんには厳しかったでしょ?」
「はい……」
「でも……。お父さんを恨まないでね」
「……」
「それが未央乃さんの、最期の言葉だった。高市さんの厳しさは愛情の裏返し。決して理不尽なことは言わない。だから、それを分かってあげてって。それが、みどりちゃんに伝えてくれと未央乃さんから頼まれた、最期の言葉だったの」
慌てて聞き返す。
「母さん、高市さんは、未央乃さんの臨終に立ち会わなかったの?」
「こうちゃん。高市さんはね、未央乃さんを失うことにどうしても耐えられなかったの。死を直視できなかったの。不器用だけど、それくらい深い、とても深い愛情だったのよ」
母さんは深い溜息をついた。
「これも縁ねえ。冗談で取り換えようと言っていた子供たちが、カップルになるのかあ」
僕たちも、顔を見合せてふーっと息をついた。母さんはいたずらっぽい顔つきに戻ると、僕を牽制した。
「……ということでね。みどりちゃんは私の娘。ふふ。こうちゃんの好きにはさせないわよ」
えええっ!? そんなあ、藪蛇だあ……。
−=*=−
みどりの当座の落ち着き先が決まったことで、僕の心配は一つ減った。
「あ、母さん」
「なに? こうちゃん?」
「おばさんは、しばらくうちに居るの?」
「そう。こっちで家を探すって言ってたけど、すぐにというわけにもいかないでしょ? 荷物もまだほとんど戸板にあるから。うちは構わないから、ゆっくりしていってって言ってあるの」
「そうだよな。そうすると、今日は結構賑やかだよね」
「園田さんもお呼びしたら?」
「うん、戻ってきたら声を掛けてみるよ。それと……。リョウも呼んじゃっていいかな?」
「え、本田から呼びつけるの?」
「あいつならほいほい来るよ。僕は明日帰るつもりだから、今日じゃないと機会がないもの」
母さんが、びっくりしたように僕を凝視する。
「えーっ!? こうちゃん、明日帰るの?」
「うん。そのつもり」
「みどりちゃんは……いいの?」
みどりも、僕が明日帰るとは思っていなかったようだ。でも、帰る目的が何かあるなと察してくれたらしい。
「こうちゃんがそう言うなら、次のこうちゃんの帰省まで、わたしは待ちます。わたしもこちらにお世話になるにあたって、いろいろ慣れないといけないことがあるし、体調を早く戻さないといけないので」
「そうなの」
母さんはしばらく僕の顔を見つめていたけれど、何かを見通したように言った。
「こうちゃん、何か決心したのね」
「そう。決心自体はもっと前からしてたんだけど、なかなか踏み出せなかったんだ。僕は……」
「こうちゃん、菊ちゃんのとこを出るつもりなんでしょ?」
さすがだ。一発で当てられた。
「うん。菊枝叔母さんのところは、居心地が良すぎるんだ。僕の怠け癖がますますひどくなる。僕の周りを全部好意で固めるのは、僕にとってプラスにならない。少しは苦労しないと。買ってでもね」
「ふーん。でも仕送りの額は変わらないわよ?」
「大丈夫。バイトを探してやりくりするよ。大学じゃ僕みたいに恵まれてるのは、そんなにいないよ。みんなと同じにやるだけさ。特別なわけじゃない」
「そうなの?」
「そうだよ。それに……僕はみどりの小屋で極限のひもじさを味わったから、あれを思えばなんでも我慢できる」
「辛い経験をしたのね」
「最悪だったよ。なあ、みどり」
みどりは苦笑していた。母さんも、僕が言った『いろいろ』の一部は分かってくれたらしい。さて。僕は立ち上がると、店の電話を借りてリョウに連絡した。退屈な法事から解放されてほっとしていたリョウは、二つ返事で食いついた。
「どうせ今日、明日は何も予定ないんだろ? うちに泊ってけよ」
「そうするかな。おじさんの蕎麦は久しぶりだよ。うまいもんなあ」
「もちろん。向こうに行ってから夢にまで見たもん。ああ、そうだ。メンツが多いから、なんか酒を見つくろってよ」
「え? おまえんとこ、おじさんは飲めないし、おまえも強くないだろ?」
「作次おじさんも来るし、他にも飲めそうな人がいるからさ」
「分かったー。六時くらいでいいの?」
「おお、待ってるー」
電話を切ると、みどりが話しかけてきた。
「ねえ、今のって佐川君?」
「そうだよ」
「ケンカ別れしたんじゃないの?」
「あいつは、そんなことをいつまでも根に持つようなタマじゃないよ。絶交するくらいなら、教育大になんて行かないって」
「あ、そうか」
「なんだかんだ言って、僕のことは気に留めてくれてたんだよ。おとついの朝こっちに着いた時に、駅で偶然に出くわしたんだけど、やっぱりいつも通りだった」
「ふーん」
「あいつは、本当にいいやつなんだ。もし、みどりが僕を含めて誰にも心を開かないなんて事態になってたら、リョウをけしかけるつもりでいたんだよ」
みどりは、ちょっと嫌そうな顔をした。なんかうるさそー、とか思ったに違いない。リョウはいいやつなんだけど、超おしゃべりな上に、デリカシーに欠けるところがあるからなあ。さあ、賑やかになるぞー!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます