第六章 説得

(1)

 昼ご飯は賑やかだった。うどんの他にニジマスの揚げたのがたくさんあって、それが五臓六腑にしみた。なにせ一昨日、昨日とまともなものを食べてなかったから。食べるということのありがたさを、心底実感させられた二日間だったかもしれない。

 みどりの方を見ると、やっと食欲に火が付いてきたのか、結構なハイペースでうどんをすすっている。でも体調はまだ万全じゃないようで、揚げ物には一切手をつけていない。そう。まだ昨日の今日なんだ。ぎりぎりのタイミングで出見が抜けて、生命の危機から脱したとは言っても、長い間に体にしみついた不調が完全に解消するまでには、しばらく時間がかかるだろう。


 先に食べ終わって卓を離れた僕が部屋の隅からじっとみどりを見ていると、園田さんが寄ってきて横から声をかけた。


「ねえ、松木くん」

「なに?」

「木下さん……て?」

「ああ、そうだね。園田さんにはまだ説明してなかったね。ごめん。木下は、僕の幼馴染みなんだ。でも、木下の家は本当の山の中だから、いつも一緒に遊んでたってわけじゃない。木下のお父さんが買い出しに来た時に、うちの近くで遊ぶくらいだったかな」

「ふーん」

「高校までずっと同じ学校に通っていたけど、中学以降はクラスも違ってたし、その頃からほとんど行き来はなかったんだ」

「うん」

「木下は、お父さんとおじいさんが相次いで亡くなった二年の秋に高校を中退した。僕は当時ほとんどあいつと接触がなかったから、いつの間にって感じだった。昨日木下から聞いて初めて分かったんだけど、その時ひどく体調を崩してて、山の中から通うのが体力的に無理だったらしい。それから二年以上、山奥の小屋でずっと独り暮らしだったんだ。母さんも作次おじさんも居場所が分からないくらい、ひっそりと。おばさんの介助がなかったら、今頃間違いなく白骨死体になってたよ」

「そんなにすごいところなの?」

「行きつくだけならなんとかなるよ。でも木下の家には、電気、ガス、水道、電話、テレビ、何もないからね。郵便も新聞も届かない」

「!」

「誰も来ない。何も届かない。何の情報もない。生活のことは、何があっても全部自分でするしかない。想像できる? 原始人の生活だよ?」

「ううー」


 園田さんが両手のこぶしを頭にあてて、ぐりぐり回してる。どうしても想像できないんだろう。


「木下は、おばさんのサポートがなくなったら生きていけない。あいつには他に身寄りがないからね。だから母さんに頼まれて、木下に小屋を出るよう説得しに行ったってわけ」

「そうだったのかあ。でも……」

「なに?」

「なんでそれに二日もかかったの?」


 やっぱりね。これはみどりと僕以外の人たちには共通した疑問だろう。本当は説明したい。穂垂と出見のこと。呼ばれたこと。語り合ったこと。分かち合ったこと。別れたこと。そして。みどりの孤独。僕の孤独。穂垂と出見の孤独。でも……。僕がどんなに上手に説明しても、僕の説明を理解してもらえるとは到底思えない。しようとすればするほど、精神科行きを勧められるのが落ちだ。


 僕はしばらく黙っていた。そしてこう答えた。


「初日は説得に時間がかかって日が落ちてしまったから、帰れなかったんだ。灯りがあっても、長い山道を夜歩くのは危険だからね。二日目は木下が体調を崩して動けなかったからだよ。さっきも言ったけど、木下はずっと伏しがちだったから。安静にさせていたんだ」

「うーん。わたしには元気そうに見えるんだけどな……」


 おいしそうにうどんを食べているみどりの様子をちらちら見ながら、園田さんは首を傾げた。さすが園田さん、鋭い。だけど園田さんには、あののしかかるような孤独の深刻さと死の恐怖は分かるまい。


 園田さんは目をぱちぱちさせながら、僕に言った。


「松木くん、あとで少し時間を取ってくれる?」

「?? いいけど?」

「ちょっと二人きりで話がしたいの」


 なんだろ? 園田さんが側を離れたら、今度は母さんが寄ってきて小声で言った。


「こら、こうちゃん。両天秤はだめよ」

「なにそれ?」

「うちの息子はもてないのが自慢だったのに。すっかりプレイボーイになっちゃってさ」

「なにバカなこと言ってるの、母さん。この二日間大変だったんだよ。もういろいろあって、ぐったり疲れた」

「いろいろって?」

「そりゃあ、いろいろ、さ」


 母さんは、いろいろ、いろいろとぶつぶつ言いながら、ぼんぼん妄想を膨らましているらしい。止めてくれー!


 とどめはみどりだった。うどんを思う存分食べて満足したのか、僕の顔を見るなり、ぽかっと笑顔になって大声で言った。


「こうちゃん。わたし、あそこを出たら他に行くとこないんだからよろしくね。とりあえず、こうちゃんの部屋に寄せてくれる?」


 ぴきーん……。部屋にいた全員の動きが止まった。全ての音が凍りついた……。


           −=*=−


 ひゅるりー。二日間、こんなにしんどい、ひもじい思いをして、なんとか任務を達成して帰ってきたのに、この冷たい視線に曝されるのは納得がいかない。面倒だけど、個別に撃破するしかない。

 まず、母さんだ。これはもっとも重要。今後、みどりの世話をしばらく託さなければならないから。正攻法よりも搦め手がいいだろう。そうだ。そもそも今回の話の発端は母さんだったから、そこから仕掛けよう。こっそり居間を出て、台所で洗い物をしている母さんに小声で話しかける。


「母さん、ちょっといい?」


 目を真横に細めて、埴輪みたいな顔をした母さんが、くるりとこっちを向いた。やばい! こ、これは相当キている。だけど、ここをかいくぐらなければならない。


「元は母さんのお願い、だったよね」


 引け目があるのか、少し顔が曇る。よし、突破口が開いた。


「木下一家の偏屈と強情さは、母さんもよーーーーく知ってるよね」


 手が止まって下を向く。さらに母さんの陣地は後退。


「その筋金入りに強情なみどりの説得が、僕にとってどれだけ大変だったか、よーく分かるよね?」


 黙っている。畳みかけよう。


「わ! か! る! よ! ねっ!!!」


 母さんは、普段は絶対に声を荒げない僕が目を釣り上げ、額に青筋を立てていたのを見て、かなりびびったらしい。


「わ、分かった。余計な勘繰りは止める」

「分かってくれればいいよ。とりあえず、みどりに小屋を畳ませることには成功したんだ。しばらくケアを頼むよ。それが、母さんの心配したことでしょ?」


 それとこれとは違うと言いたかったんだろうけど、母さんに逃げ道はなかった。


「分かったわ。任せて」


 母さんは、一度やると口に出したことは絶対に裏切らない。これで、まず一安心だ。


           −=*=−


 次は園田さんだ。呼び出した、ということは何か重要な話だろう。腹を括らなければならない。こちらは正面突破だ。僕は園田さんに声を掛けると、外に出た。


「園田さん、裏山に上がらない? 的矢神社っていう小さな神社があるんだ。僕の子供の頃の遊び場さ」

「へえ、おもしろそう」


 乗ってきた。よしよし。

 二人で外に出て、裏山を登る。石段をたどると、ほんの数分で小さな神社に出る。僕は狭い境内の端の、崖っぷちに立っている檜の古木に近づいて、幹に手を添えた。


「穂垂。来たよ」


 下から吹き上げる乾いた風が頬を擦り上げ、そのまま舞い上がって梢を揺する。見上げた夏空はとても眩しかった。昨日闇の中で見た穂垂の姿とは対照的だ。

 参道近くのベンチに並んで腰を掛けて、園田さんが何か切り出すのを待った。園田さんは僕を見ずに、小声で言った。


「松木くんさあ、わたしのことどう思ってる?」


 僕は即座に答えた。


「尊敬してるよ」

「尊敬?」

「そう。園田さんは僕にないものをいっぱい持ってる。行動力。迷いのなさ。自分自身を信じる強さ。それは、どれも僕に欠けているものだから」

「そんなことないと思う!」


 園田さんは気色ばんで言った。


「松木くんはそれをひけらかさないだけよ!」


 僕は園田さんの擁護が嬉しかった。けれど……。


「園田さん。前に僕が、逃げた、という話をしたのを覚えてる?」

「初めて会った時に食堂でしてた、あれ?」

「そう」


 檜の梢を見上げる。


「自分の力では解決できない宿命を負ってしまった時に、逃げる以外に何ができるんだろう。僕はここにいる時も、向こうに行ってからも、ずっとそれが頭から離れなかったんだ」


 僕はゆっくり立ち上がった。


「僕はね。これまでそんな切ない思いをずっと抱えて生きてきた。そして今回も……」

「……」

「この二日間にあったことは、説明したって誰にも分かってもらえない。でも、本当に苦しい、悲しいことばかりだったんだ」


 僕はぽんと小石を蹴る。


「でも、その経験を通して一つ分かったことがある。そうした宿命から逃げるでも、それと闘うでもなく、もう一つ対処する方法があるってこと」

「それ……は?」

「受け入れるってこと」

「……」

「僕はね。この二日間にあったことを、全部受け入れることにしたんだ。だから……」


 僕は園田さんの方を向いて言った。


「ごめんね」


 園田さんは俯いたまま、何も言わなかった。


 僕は大学生活で、園田さんからたくさんのものをもらった。前を向く勇気。恐れず進むこと。しっかり語り合うこと。隠さないこと。僕がそれに対して感謝以外のものを返せないのは、本当に心苦しい。でも、もし僕が園田さんの好意を受け入れたとしても、今の僕の体たらくではどうにもならない。みどりが出見にそうされたように、僕は園田さんに食い潰されてしまう。それくらい、彼女のエネルギーは強い。僕は本当に寸足らずなんだ。


「降りようか」

「もう少し、ここにいる」

「そう。僕は店にいるから」

「うん……」


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