(2)

 それからあの染めは、わたしの大事な染めになった。わたしの人生に誇りをくれた、初めての染めだ。名前をつけよう、そう思ったんだよ。自分の娘につけるみたいにね。木下の小屋にいく沢道の途中で、一か所だけ見通しが効くところがある。そこからだけお日様がはっきり見えるんだ。日が生まれるところ、きらきら輝く日の色。わたしは日生染ひなぞめって名前を付けた。


 でも、喜んでいられたのは束の間だったよ。染めに使うあの青い小石。あれはとても少ないことが分かったのさ。似たような色の石はいっぱいあるのに、木下の小屋下の沢、そう砥沢のあの辺りの石でしか色を出せないんだよ。学のないわたしは、必死に人づてで石を調べてもらった。偉い先生に小石を見てもらったけど、珍しいものじゃない、どこにでもある石だって、そう言われたのさ。先生に頼んで同じ種類の石を送ってもらったけど、だめなんだよ。それを使っても色が出ないんだ。


 わたしはとうとう諦めた。あれは木下が、そして砥沢が、わたしが生きていけるようにって授けてくれた大切な染めなんだろう。わたしはそう思うことにしたんだ。だから。日生染めは、本当に大事な頼まれごとの時だけ手をつけた。それ以外は断ってきたんだよ。


◇ ◇ ◇


 居間に居合わせたみんなは、おばさんの一言一句を聞き逃すまいと、固唾を飲んで耳を傾けていた。おばさんが言葉を切ると、一斉にほーっと息をついた。


 園田さんが口を開いた。


「そうか。だから斎藤さんは、戸板に来るという方とは会われなかったんですね……」

「そりゃそうだろ。教えようにも材料が分からない。しかも手に入らないんじゃあね。だいたい戸板くんだりまでばあさんに会いに来るっていう時点で願い下げだよ。わははははっ」


 おばさんは豪快に笑った。


「昔、花枝さんや菊枝さんにも聞かれたけど、おんなじさ。答えようがないもの。あんたらも探してみてくれ、としか言いようがないよ」


 母さんは深く納得したようだ。きっと今晩にも菊枝叔母さんのところに電話が行くだろう。僕は一つ疑問に思ったことを聞いてみた。


「おばさん、その貴重な日生染めで仕立てられた作品を、なんで今回展示会に出したの?」


 おばさんは、おう鋭いねとでも言うような表情で僕を見た。そして静かに答えた。


「こうちゃん、わたしが戸板を出ることは聞いただろ?」

「うん」

「もう何年も前からね、どこかで戸板を諦めなきゃならないと思っていたのさ」


 寂しそうに呟く。


「若い人が誰もいなくなった村で、一人、また一人って櫛の歯が欠けるように村の家族が亡くなって、減っていく。戸板ではわたしが一番若くなってしまった。最後に残るのはわたしだ。そんなのは耐えられないよ。それとね……」


 ふーっと息を吐き出したおばさんが、僕に話しかけた。


「砥沢でこうちゃんに会った時に、わたしは袋を持ってただろう?」

「あ、そう言えば」

「あの青い石を探していたのさ。でも、数日探し続けても一個見つかるかどうか。もうそれくらい減っていたんだよ。あの日も一つも見つからなかった」


 ……。


「戸板は終わる。日生染めも絶える。それは仕方ない。だから……最後は、一番いい染めにしたかったんだよ。あのショールには、わたしが五年間かけて集めた石を全部使った。仕立てにも、出来る限りの手間をかけた。斎藤徳子、一世一代の作品さ」


 おばさんは、にっこり笑って胸を張った。そして。崩折れるように突っ伏して号泣した。


「寂しいよう! 寂しいよーう!」


 両手の拳を固く固く握り締めて。絞り出すように。誰も……声を掛けられなかった。


◇ ◇ ◇


 おばさんは思い切り泣いて、少し落ち着いたようだ。


「こうちゃん」

「なに、おばさん?」

「わたしはね、木下にどうしても恩返しがしたかったんだ。死にに行ったわたしを送り返してくれた。わたしの人生そのものの日生染めを教えてくれた。わたしの命を繋ぎ止めてくれた恩を、今度はわたしがみどりちゃんの命を繋ぎ止めることで返そう、と」

「そうか……」

「だけど、わたしには時間がなかった。もう戸板を去る日が近付いていたからね。だから、こうちゃんがみどりちゃんを迎えに来たって聞いた時には、本当にほっとしたんだよ」


 そう言って、おばさんはみどりの方を向いた。


「みどりちゃん。おとつい、昨日、こうちゃんと何があったかは知らない。でも、わたしが戸板で生きようと決心した時みたいに、みどりちゃんは何かを思い切ったんだろ?」


 みどりはしばらく、おばさんの顔をじっと見つめていた。


「おばさん。わたしは……わたしは……」


 みどりは目を伏せて、小声で言った。


「自分の寂しさを数えているうちに、全部無くしてしまったの。お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも。そして……おばさんも」


 それから、すいっと顔を上げて笑顔を見せた。


「だからね。それを止めることにしたんです。それだけです」


 おばさんは嬉しそうに頷いた。


「がんばってね。わたしも負けてられないね」


 今度は、みどりがおばさんに聞いた。


「おばさんは、戸板を出てこれからどうするの?」


 おばさんは、腕組みをしてうーんとうなった。


「まだ、はっきり決めてないんだけどね。原井のどこかに家を借りて住むさ。わたしには、本町よりこっちの方が暮らしやすい。花枝はなえさんや作次さんもいるしね」


 僕は、それを聞いてほっとする。


「それと……わたしは染めを残したいんだ。戸板の染めの技はわたしのものじゃない、あそこに住んでいたみんなのものさ。戸板がわたしの人生を支えてくれたお礼に、その素晴らしい技をみんなに残したいんだよ」


 その瞬間、園田さんの目がぎらりと光ったのを、僕は見逃さなかった。ふひー。こりゃあ、えらいことになったな。しばらく用心しないとなあ。いつの間にか母さんがいないなと思ったら、台所から声がかかった。


「みんな、お昼にしましょうー。ざるうどんにしたから、たぐってー」


 おばさんがすかさず立ち上がって、手伝いに行った。この反応の速さは、やはり年の功だ。ダブルみどりは立ち遅れて、ぼーっとしてる。


 ふ。まだまだ、だな。……って、僕もか。うん。


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