第五章 斎藤さんは語る

(1)

 そうだねえ。どこから話したらいいかねえ……。


 わたしは自分がどこで生まれたのか、両親が誰かを知らないのさ。気がついたら施設にいて、そこがわたしの家だったんだよ。何分昔のことだ。身寄りのない子供に対して、親切な時代じゃないからね。施設は居心地のいい場所じゃなかったし、働ける年齢になったらすぐに追い出された。十五の時から、県南の製糸工場に勤めに出たんだ。

 辛かったねえ。一日中立ちっぱなしで、休む間もない。給料も安かったし、待遇も悪かった。でもわたしには帰るところも、逃げ出す先もなかったから。盆暮れにみんなが里に帰る時も、わたしは寮に独りきりだ。賄いさんまで帰ってしまうから、ひもじいやら、情けないやらで、膝を抱えて泣いたもんさ。


 辛抱、辛抱って自分に言い聞かせながら、五年勤めたんだけど、ある日工場長に呼ばれてね。いきなり、見合いしないかと聞かれたのさ。木馬野の農家の跡取りが嫁を探してるってね。気乗りはしなかったけど、工場長の話はむげに断りにくい。とりあえず、会うだけ会ってみようということで話を受けたんだ。


 そうさね。春だったねえ。たぶん、農作業はもう忙しい時期だったと思うけど、あの人が……宗一さんが木馬野の駅で出迎えてくれた。一人でね。

 そして言ったんだ。すまん、俺には身寄りがない、中に立ってくれる人もいない

んで直々に来たってね。驚いたね。わたしも独りだけど、この人も独りなのかってね。


 駅で立ち話をしたさ。あの人は包み隠さず自分の身の上を全部明かした。戸板ってところで暮らしていること。数年前に両親を亡くしたこと。独りが寂しいこと。繭を納めている工場のつてを頼って、誰か紹介してくれと頼み込んだこと。本当に、真っ当で正直な人だった。わたしは戸板がどこだか知らなかったけど、この人ならわたしがついていっても大丈夫かなと思って、その場で嫁に行くことを決めた。お互い寂しいのが辛くて、引き合ったんだよ。

 わたしは工場に戻って、工場長に嫁に行くことを伝えた。すごく喜んでくれてね。宗一さんはまじめでいい人だ、きっと君は幸せになれる、祝いの席に出られないのは残念だが心ばかりだと言って、結構な額の餞別をくれた。


 それから、早々に荷物をまとめて木馬野へ発った。荷物ったって、風呂敷包み一つで収まるくらいしかなかったから、気楽なもんさ。見合いの時と同じように、木馬野の駅まであの人が迎えに来てくれた。まだあの頃、田舎は馬が足代わりだったから、あの人がわたしを馬に乗せて、六里半の山道を、木馬野から戸板まで黙々と歩いていったのさ。驚いたねえ。信じられないくらいの山ん中だ。午前中に木馬野を出たのに、戸板に着いたら夕方だ。こりゃあとんでもないところだ、と不安になったよ。農家の生活なんて何も知らない上に、こんな山ん中。


 だけど、あの人は優しかった。心配すんな、大丈夫だって、笑って言った。そして村のみんなに引き合わせてくれて、何くれと教えてやってくれと、一人一人に頭を下げて回った。村の衆にとっても、わたしは久しぶりの若い嫁だ。みんなとっても良くしてくれた。

 畑仕事や繭棚の世話、馬の世話、山仕事。食っていくためにしなきゃならないことは、たくさんあった。でもあの人は、わたしに負担をかけないようにいつも気を遣っ

てくれた。決して無茶は言わなかった。わたしはね。生まれて初めて、独りじゃないってことの幸せを感じたのさ。


 でも、たった三年だった。あの人は風邪をこじらせて伏せた。そしてあっと言う間に逝っちまった。悲しかったねえ……。もうどうでもいいと思ったよ。こんな思いをするくらいなら死んじまおうって、山ん中に入ったんだ。死に場所を探して、行ったことのない沢筋を奥へ奥へと入っていった。一時間くらい歩いたかねえ。沢沿いに、とんでもなく大きな檜が生えているところがあって、そこで足が止まった。人がいたんだよ。


 それが木下の弥太郎やたろうさんだったのさ。


 いきなり言われたさ。何しに来たって。村の人たちから木下の偏屈は聞いてたけど、わたしゃそん時はそんなこたあどうでもよかった。死にに来たって大声で泣いたさ。そしたら弥太郎さん、なんて言ったと思う? 片付けるのが面倒だから他所で死んでくれ、だってさ。そしてぼそっと言い足したよ。泣けるうちは死ねねえぞってね。わたしは気が削がれて死ぬ気が失せた。でも、村に戻りたくもなかったのさ。もうわたしを出迎えてくれる人はいない。寂しい。寂しいって、そればかり頭にこびりついてね。


 しばらくぼうっとつっ立ってたら、邪魔だから小屋に入っとれって言われたさ。てっきり追い出されるもんだと思ってたからびっくりしたけど、腹も減ってたし疲れてたから、入れてもらった。驚いたねえ。うちもたいがい貧乏で家の中はがらがらだったけど、木下んところは、本当になんにもないんだよ。ここでどうやって暮らしているのかって心配になるほど、なんにもない。


 弥太郎さんは、一仕事終わってから上がってきた。外の甕から水を汲んできて鉄瓶で湯を沸かし、茶碗にそれを入れてよこした。茶っ葉なんてなかったんだろうねえ。そして懐から干菓子を二つ出して、わたしに放った。食え。それは俺の昼飯だが、しょうがねえってね。わたしが受け取ると、またぼそっと言ったさ。人間食うもんがなくなりゃ、放っといても死ぬ。死ぬこたあ、食うもんがなくなってから考えろってね。わたしは干菓子をぼりぼり食べて、また泣いたさ。


 そのうち高市たかいちさんが杣仕事から戻ってきた。高市さんはその頃まだ十七、八だ。わたしより年が下なのに、倍くらいに老けて見えたね。それに、弥太郎さんに輪あかけて無口だ。わたしを見ても何も言わなかったけど、荷物を下ろしたらす

ぐに立ち上がったさ。言った言葉が、帰れ、だ。さすが噂通りの偏屈だと思ってわたしも立ち上がったら、もう一言、送る、ときた。不思議な親子だよ。全く。わたしは高市さんに送ってもらって戸板に戻ったのさ。


 戸板じゃ、わたしが思い詰めてどうかしたんじゃないかって大騒ぎしてた。ふらふらと戻ったわたしは、江口のおばさんに横っ面ひっ叩かれて、おんおん泣かれてね。みんなに口々に心配した、心配したって言われて、もう寂しいとか、死にたいとか言えなくなっちまったんだよ。


 それからはずっと独り暮らしさ。後添えの話もいくつかあったけど、断ったよ。戸板で暮らすうちに、すっかり戸板が性に合っちまってね。わたしは自分の氏素性は知らないし、身寄りはないけど、戸板が家族ならわたしはその一人だ。寂しくなかったんだよ。


◇ ◇ ◇


 そうさね。染めはねえ。あの人に嫁いですぐに、あの人に言われて始めたのさ。田舎にゃあものがない。おしゃれさせてやりたくても、カネも店もない。でも、ハレの日に着るものは支度しなきゃならんから、自分で仕立ててくれってね。戸板には何人か染め上手の人がいて、聞くとなんでも教えてくれたのさ。みんな桜やら黄檗やら胡桃やら、そこらにあるもんで上手に染めて、仕立ててた。わたしも見よう見まねで始めて、段々とコツを覚えたんだ。


 染めをだいたい覚えた頃に、あの人が買い出しに行く時に頼んで、白い木綿の反物を三本買ってきてもらった。それを楢渋で重ね染めして、濃い茶の生地にして背広を仕立てた。施設にいた時に、裁縫はいやっていうほどやらされていたから、仕立ては苦にならなかったんだよ。毛じゃないし、芯がないからたらったらだけど、あの人にとっては始めての余所行きの服だ。ものすごく喜んでね。

 調子に乗っていろいろ染めて仕立てたのを、またあの人があちこちに持っていって自慢するもんだから、そのうち頼まれるようになっちまった。まあ、自分が作ったものを、いい色だいい仕立てだと褒められりゃあ悪い気はしないよ。


 あの人が死んでからしばらくは、何をする気も起きなかったけど、村のみんなに考え込むより手を動かした方がいいって言われてね。それで染めをまた始めたのさ。何かにのめり込んでる時ってのは、嫌なことは忘れるもんだよ。しばらくして、厄介な頼まれごとを請けちまったんだ。娘が本田に嫁ぐんだけど、余所行きの服がない。徳子さん、赤紫の生地で洋服を仕立ててくれないかってね。


 園田さんは染めをやってるから分かるだろうけど、明るくて濁りのない赤や紫が出せる草木は、もともと少ないのさ。茜はともかく、紫草は戸板にはない。蘇芳なんてのは、そん時はまだ見たことも聞いたこともなかった。

 さあ、困った。淡い色、くすんだ色合いのものはなんとかなるけど、目の覚めるように明るいってのはまず無理だ。わたしもそれまで、できた試しがなかったのさ。出来合いの生地を使ったり、合成の染料で染めればすぐにできるだろうけど、戸板でわたしがそれをするって考える人はいないだろう? 頭抱えちまったよ。なんでそんなこと請けちまったんだろうねえ。今となっちゃあ分からないけど、くよくよ考えるよりどんとぶつかって見ろって、あの人に背中どつかれたのかもしれないね。


 わたしゃ、しばらく材料探しと染めの試しに追いまくられた。あまりにわたしが寝食忘れて打ち込むもんだから、周りが心配してね。いろいろ食べるものを差し入れてくれた。まるで乞食みたいだったよ。


 そりゃあ、がんばったさ。来る日も、来る日も。でも、その時ばかりは本当にうまくいかなかったんだ。約束の日はだんだん迫ってくるし、全然目処は立たない。どうしようって。そん時だ。わたしは、まだ染めのことを聞いてない人がいるのに気付いたのさ。そう、木下だよ。弥太郎さんなら何か知ってるかもしれない。

 杣仕事をしてる人はね、ほんとにいろんなことを知ってるんだよ。草木の名前だけでなくて、それがどこにあってどんな役に立つのかまでね。山ん中で暮らすための知恵袋みたいなもんだ。だから染めについても、何か知ってるかもしれないって思ったのさ。弥太郎さんがものすごく偏屈だってことは、前に会った時に分かってる。でもその時に口を利いてくれたことに賭けてみようって。本当に藁にもすがる思いで、小屋に出向いたんだよ。


 わたしが沢を上り詰めた時、弥太郎さんはちょうど沢で鉈を研いでるところだった。わたしが近付いたら、ちらっとわたしに目をやっただけで、こっちを見もせずに言ったよ。まだ生きとったのかってね。なんてえ言い草だい。でも、そんなことを気にしてる暇はなかったんだ。手短に聞いた。明るい赤紫を出す染めを知らないかって。


 すぐに答えが返ってきたのには驚いたね。茜じゃだめなのかって。茜は朱がかかるって言ったら、灰汁あくを工夫しろ、それで色目が動くって教えてくれた。でも……それじゃ青を足せない。紫が出ない。

 弥太郎さんは手を止めて、黙り込んだわたしをじろっと睨んだ。そして……土染めを重ねて見ろって言ったんだ。土を使う? 濁るんじゃないの? わたしがそう聞き返したら、弥太郎さんが素っ気なく答えた。石を摺って使え。青みを足すのに藍がなけりゃ、それしかないだろう……って。ああ、目から鱗が落ちたね。染めに草木以外のものを使うなんて、思ってもみなかったからさ。礼を言ったけど、返事はなかった。それっきり何も言わんかったさ。でも、嬉しかったね。手がかりをくれただけでもありがたい。取りあえず、帰り際に沢にあった青っぽい小石を手当たり次第拾って帰った。


 弥太郎さんが言うように、茜で出る色は灰汁でだいぶ違ってた。一番明るい赤になるように工夫した。さあ、あとはどうやって青を足して、紫を出すかだ。どきどきしながら、持って帰った青い石を細かく砕いて、臼で挽いた。それを釜で炊いて、茜で染めた布を浸けた。そしたらね……。出たんだよ。あの色が! しかも色を重ねたくすみが取れて、布に艶が出た。見たこともない仕上がりになったのさ。飛び上がるほど嬉しかったねえ。


 わたしゃ急いで二反ほど染めて生地を揃えて、徹夜で洋服を縫い上げた。式の前々日だよ。ぎりぎりだ。受け取りにきたおっかさんが、仕上がった服を見て大泣きしてね。こんな素晴らしい服はわたしゃ着れないよ、娘に着せたいって、それくらい喜んでくれた。わたしももらい泣きさ。


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