(2)

 僕らは時々休憩をはさみながら、時間をかけてゆっくりと峠下まで降りた。みどりには歩き慣れた道のはずだけど、体力が心配だったから。幸い、三叉路から先は基本的に下りだ。足元にさえ気をつければ、それほど消耗はしない。


 九時前に峠下に着く。僕らを心配して、誰かが様子を見に来たかもしれないなと思ったけど、その形跡はなかった。僕は木陰に停めておいた軽に乗り込み、エンジンをかける。


「こうちゃん、車の免許持ってるの?」


 ボストンバッグを後ろの座席に置いたみどりが、そう言って助手席に乗り込んできた。


「うん、高三の時に合宿で取った」

「受験の時に、よくそんな余裕あったね」

「夏には、まだ大学に行くことなんか考えてなかったもん」

「ええーっ!?」


 みどりがびっくりしてる。


「父さんは、僕が店を継ぐもんだとばかり思ってたし、僕もまだ、木馬野を出るほど思い詰めてなかったから」

「何かきっかけがあったの?」

「うん。今考えると些細なことだけどね」

「なに?」

「リョウと喧嘩したんだよ」

「リョウって、誰?」

「ああ、そうか。みどりはクラスが違ってたから知らないか。僕の高校の時のクラスメートで、親友さ。佐川良太って言うんだ」


 みどりは口元に指を当てて、何やら考え込んでいた。


「ああ、思い出した! こうちゃんの側にいて、ずーっとしゃべってた人ね」


 どういう認識のされ方じゃと思ったけど、たぶん、みどり以外の人にも同じ様に思われていたんだろうな。


「そう。リョウはおしゃべりで、明るい。それだけじゃなくて、すごくおおらかなんだ。細かいことは一切気にしない。あいつは、穂垂の力でさえ気にしなかったからね」

「ふうん……」

「リョウはね。僕が唯一気を許せるやつだったんだよ。僕はあいつがいたから、何とか高校生活を過ごせたんだ。でも、高三の夏休み明けの進路指導の時に、あいつが進学に悩んでることに、ついうっかり触っちゃったんだよ」

「まっ!」

「あいつのうちは複雑でね。あいつが小さい頃に両親が離婚して、お姉さんは母親に、リョウは父親に引き取られた。あいつは、ずっと一人っ子みたいな感じだったんだ。でも、あいつが中学に上がる頃にお父さんが再婚した。そして、新しいお母さんは立て続けに子供を産んだ。年の離れた弟、妹ができたんだ。しかも三人も」

「うーん、がんばったんだねえ」

「いや、そういう問題ではないと思うけど……」


 思わず苦笑いする。


「あいつは県外の大学に行きたかったんだよ。でも、家の経済状態や、弟や妹の今後を考えてしまって、踏ん切りがつかなかった。親に言い出せなかったんだ。僕は、あいつ自身の口から家庭の事情を一度も聞いたことがなかった。おしゃべりなリョウがあえて言わなかったこと。あいつには生い立ちが、負い目だったんだと思う」

「うん」

「でも、僕はあいつの家のことは何も知らないはずなのに、その僕の口から……弟や妹のことが気になるなら、教育大っていう選択肢もあるよって言葉を聞いちまった」

「それって……」

「うん、松木幸助、人生最大の失態さ。この時ばかりは、自分の大ぼけ加減を心底呪ったよ。あいつは僕への怒りで青ざめた。ふざけるなって。めったにキレないやつが、あの時ばかりは全身全霊で僕に怒りをぶつけたんだ。最後の味方を失って、僕は完全に居場所を無くしちゃったんだよ」

「そうだったんだ」


 僕はシートベルトを締めると、みどりに声を掛けた。


「行くよ。派手に揺れるから、しっかり掴まっててね」


 軽は、二日間山の中に放って置かれて少し腹を立てているのか、時々ぽんぽんと石を跳ね上げて、肩を揺すりながら山道を降りて行った。


◇ ◇ ◇


 みどりは、町に近付くにつれてそわそわしだした。半分は新しい人生への期待。半分は自分自身への不安。まだ、これからどうするかというところまで冷静に考えられる状態じゃないはずだ。だけど、軽はみどりに考える余裕を与える間もなく、すぐに僕らを原井に連れ戻した。うちはすぐそこだ。


 みどりは不安だったと思うけど、僕も気が重かった。みどりを連れ戻すことには成功したけど、空白の一日をどう説明しよう? 堅物の父さんのことだ。詰問が厳しいことは容易に予想できる。それでなくても、ここを出る時に一悶着あったのに。母さんにしてもそうだ。僕の長すぎる下見に、余計な詮索が入ることは間違いない。


 僕は溜息に埋もれた。でも、うだうだ考えたってしょうがない。なるようになるだろう。そう開き直るしかない。車を家の裏に回して、みどりと一緒に車を降り、連れ立って店に入る。


「ただいまー」

「幸助!」

「こうちゃん!」


 店の奥から、怒声と涙声が同時に飛んできた。ああ、やっぱりそうなるのか。父さんと母さんの、どっちが先に僕に辿り着くかで決まるなあ。僕は大荒れを覚悟していた。だけど……居間から出てきたのはそれだけじゃなかった。斎藤さんがいる。園田さんがいる。作次おじさんがいる。あれれ、オールスターだ。ゆっくり歩み寄ってきたのは、意外にもおばさんだった。そして僕の横を通り抜けて、後ろに立っていたみどりの両腕を持って、声をかけた。


「みどりちゃん。よく思い切ったね。心配したんだ。でも安心したよ。わたしゃ肩の荷が下りた。本当に良かった……」


 そして膝を折って、手で顔を覆い、その場でおいおいと泣き崩れた。父さんはその様子を見て、毒気を抜かれたようだ。作次おじさんを連れてそっと居間に戻った。母さんと園田さんは、泣き崩れるおばさんの姿をじっと見つめていた。


 みどりは静かにおばさんの側に屈むと、一言だけ答えた。


「おばさん、ありがとう」


 おばさんは泣きながら、ずっとうんうんと頷いていた。


◇ ◇ ◇


 おばさんが落ち着いたのを見て、母さんがみんなに声を掛けた。


「お茶にしましょ。久しぶりの人もいるし、初めての方もいる。いろいろと積もる話があるでしょうから」


 そう言うと、難しい顔をしていた父さんを居間から叩き出した。


「作次さん、うちのをしばらく引き上げてちょうだいな」

「あらら、花枝さんにかかると慎ちゃんもすっかり子供扱いなんやね」

「そりゃそうよ。これからしんみり話をしようって時に、そんな辛気臭い顔がちらちらしてたら、白けちゃうわ!」

「おお、こわ」


 作次おじさんは肩をすくめると、父さんを自分の工場に引っ張って行った。賢明だろう。怒りの導火線に火がついた母さんの怖さは、父さんの比じゃないから。くわばら、くわばら。


 居間にみんなが揃うと、僕はすごく居心地が悪くなった。そりゃそうさ。男は僕だけだもの。母さんが僕に、人が集まっている事情を説明する。


「園田さんが、おとつい、昨日と連絡がないって電話してきたの。私にも連絡がつかないって説明したら、心配されてね。さっきこちらに来られたの」


 園田さんは、僕が女性を連れて戻ってきたことがショックだったようだ。元気がない。僕は、おばさんとみどりに園田さんを紹介する。


「僕の大学のクラスメートの園田さん。菊枝叔母さんのところに、染めを習いにきてるんだ。今回はどうしても斎藤さんに会いたいって言って、木馬野に押しかけてきたんだよ」


 おばさんが驚いたように声を上げた。


「あら、まあ。こんなばあさんに会ってどうするつもり?」


 園田さんはちょっと気を持ち直したのか、展示会の作品の話をした。あの作品にすごく感動した、と。どうしても自分もああいう風に染めてみたい、と。おばさんは園田さんの話を黙って聞いていたけど、園田さんの方は見ずに寂しそうに呟いた。


「あのショールはね……。最後の日生染めさ。もう、わたしはあれを染められないんだ」

「えーっ!?」


 そう叫んだきり、園田さんが言葉を失った。その落胆ぶりがあまりに激しかったのを見て、おばさんが済まなそうに声を掛けた。


「あれは、戸板でなければできない染めなんだよ。わたしが戸板を離れたら、もうあれは染められない。最初からそういう運命だったから、しょうがないんだ」


 そして園田さんに聞き返した。


「園田さん、名前はなんていうんだい?」


 蚊の鳴くような声で園田さんが答える。


水鳥みどりです……」


 おばさんが、驚いたように園田さんを見回した。


「ややこしいね。あんたもみどりちゃん、か。まあ、いい。そうさね。みんな揃ってるから、昔話でも聞いてちょうだいな。戸板を離れる前に、誰かに話しておきたかったんだよ」


 おばさんはすっと背筋を伸ばすと、そこか遠くを見るようにして視線を上げた。そしてゆっくり話し始めた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る