第四章 小屋との訣別
(1)
小鳥が鳴き交わす音で目が覚める。まだ明け方だろう。高窓からしか日が入らない小屋の中は薄暗かったけれど、それでも朝の明るい気配は充分に分かる。
横を見ると、まだみどりは眠っていた。すうすうと、規則正しい寝息が聞こえて安心する。穂垂の言葉の通り、出見が抜けてからみどりの生気がどんどん戻っているのが分かる。顔の血色が良くなってる。
僕が体を動かすと、暗闇の中ではよく見えなかった裸体がはっきり見えて、こっちが恥ずかしくなる。起こさないようにそっと布団を出て、服を着た。デイパックの中にまだ残っているお菓子がないかをごそごそ探っていたら、その音で目が覚めたのか、みどりが眼を擦りながら布団から体を起こした。
「おはよう」
僕が声を掛けると、みどりは寝ぼけ眼でぼやっと僕を見ていた。そのあと、はっと自分がすっぽんぽんであることに気付いて絶叫した。
「きゃあああああああああああああああああああああっ!!」
やっぱりなー。暗闇というのはおっかない。羞恥心も何もかも蓋をして隠してしまう。みどりは、そのことに充分気づいてなかったんだろう。やーれやれ。
「出てって! こうちゃん、ごめん! ちょっと着かえるから出てってくれる?! ごめんっ!」
うん。なんとなくそうなると思ったよ。小屋の外に追い出された僕が両手を頭上に伸ばして、森の朝の空気を深呼吸していると、引き戸が開いてみどりが気まずそうに顔を出した。
「ごめーん」
みどりは僕がにやにやしているのを見て、これ以上はないというくらい顔を赤くしていた。昨日までは顔色が悪くて蒼ざめた印象しかなかったから、こういう照れ顔はものすごく健康的に、かわいく見える。
昨日は死装束のような白いワンピースだったけど、今日はジーンズにピンクの薄手のトレーナーという軽装。背の低かったお父さんやおじいさんに似ず、みどりは背が高かった。その背筋をさらにぴんと伸ばして、モデルのように立っている。
長い髪は後ろで編まれて、顔の輪郭がはっきり見えるようになっていた。昨日はひどくやつれたように見えたけど、髪が顔にかかっていたせいもあるんだろう。みどりは、和風の美人だった未央乃さんによく似てる。健康でさえあれば、どきっとするほどきれいなんだ。
表情はとても明るい。これから起きることが、これまでより悪いということは絶対にない。どん底まで落ちてしまえば、後は上がるだけなのだから。そういう希望が、みどりを高揚させているようだった。僕にはその表情がとても嬉しかった。
小屋に戻って、まず火をおこした。それから家探しして、食べられそうなものを全部漁った。昨日の餅がいくつか。インスタントの味噌汁もまだ残っている。お菓子はさすがに食べ尽くしていた。あ、そう言えば……。僕はあることを思い出して、みどりに声を掛けた。
「ちょっと沢に降りる」
「え? 顔を洗うの?」
「それもあるけど、ちょっとね……。あ、多めにお湯沸かしといてくれる?」
「うん、分かった」
僕は、タオル片手に沢への道を下った。二日間風呂に入っていなかったので、頭だけでもさっぱりしたかった。沢水で顔を洗い、ついでに頭を沢に突っ込んでがしがしとこすった。ふーっと息をついてタオルで顔と頭の水滴を拭い、周りを見渡す。
沢傍の湿った一坪に満たない平地に、見覚えのある草が茂っていた。近付いてむしってみる。やっぱりそうだ。ミズだ。旬の時期はもう過ぎているけど、谷底で気温が低くて日差しも弱いせいか、まだ状態のいい柔らかいところが採れそうだ。とりあえず片手で持てるくらい折り取って、葉と茎の皮を剥き落とし、沢水で洗って持ち帰った。
「昨日は雑煮もどきだったけど、今日は青みがある。あとはかまぼこでもあればなあ」
みどりは、僕の持っているものを見て首を傾げた。
「なに、それ?」
「え、ミズを知らないの?」
「知らない。初めて見たー」
「お父さんやおじいさんは、山菜は採らなかったの?」
「野菜嫌いだったもの」
「なーる。みどりは?」
「わたしは野菜好きよ」
「そりゃよかった」
僕は木椀にミズを入れてざっと熱湯をかけて沈め、しんなりしたところで湯を切った。湯通しされたミズは鮮やかな緑色になる。昨日と同様に餅をあぶり、木椀に味噌汁を作って餅を入れ、最後にミズをたっぷり乗せた。
「おおっ、雑煮っぽいぞ!」
「へええ。こうちゃん、ほんとにまめだね」
「いや、不精もんだよ。でも、さすがにこんくらいは、ね」
椀に口をつける。ミズを口に運ぶと、しゃきしゃきした歯応えとかすかなぬめりが心地いい。
「あ、おいしーい!」
「だろう? これを知らないのはほんとに損さ」
僕とみどりは、あっという間に雑煮もどきをたいらげた。
◇ ◇ ◇
さあ、出発だ。
みどりは何も持たないと言ったけど、実際にはそういうわけにはいかない。最低限の着替えと化粧ポーチ。現金、通帳類と印鑑、土地の登記書類など。重いものが入ってないとはいえ、それらを詰めるとみどりの小さなボストンバッグはいっぱいになった。
バッグを小脇に抱えて小屋を出たみどりは、外の引き戸を静かに閉め、それに掌を置いてしばらく見つめていた。みどりの胸中に、何が去来していたのかは分からない。自分が縛られていたのか、自分が縛りつけていたのか。でも。紛れもなく小屋はこれまでのみどりの人生そのものだった。
掌を軽く握ったみどりは、戸をこんこんと何度か叩いた。それから顔を伏せ、額を戸に押し付けて、しばらくじっとしていた。まるで、何かの儀式のように。そして、ぱっと顔を上げると、くるりと小屋に背を向けた。
「こうちゃん、行きましょ」
「おう」
◇ ◇ ◇
二人、前後してゆっくりと沢筋に降りる。沢に降り立ったみどりは、出見の木のあるところへ歩いていった。出見を送ったところ。昨夜は僕が抱えて手を当てさせた場所。みどりはそこに立って同じ位置に手を置き、梢を見上げた。抜けるような青空が、樹冠を通して僕らを覗き込んでいる。みどりは目を細め、それを眩しそうに見上げていた。そしてささやくように言った。
「出見、昨日はごめんね。わたし、ちゃんとお別れできなかった。ずっとわたしと一緒にいて、わたしを助けてくれたのに。もう直接話せないね。でも……わたしは出見とこうちゃんに命をもらったの。だから、もう後ろは見ない」
みどりの頬に涙が伝った。
「出見。わたしが歩くのを見ていて。出見がわたしに居て良かったと思うように生きるから。それが……わたしの償い」
梢に風が渡って、まるで出見が応えたかのようにさわさわと音を立てた。朝露が惜別の涙のように落ちてくる。淡い青空を横切って、綿雲が切れ切れに流れていく。
出見を抱きしめるように巨樹の幹に両腕を回したみどりは、その腕をそっと解いて木に背を向けた。それから……僕と肩を並べてゆっくりと歩き始めた。
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