(3)
「わたしはいずれ外の世界に出るんだと、何の疑いもなく思ってたから、こうちゃんのことは正直忘れてたんだ。でもね……」
「うん。おじいさんとお父さんが亡くなった」
「そう。その途端、わたしは現実に引き戻されたの。明日から、どうしよう。わたしは、これからどうしたらいいんだろう。誰にも相談できないって……暗い小屋の中でうじうじと考え込んでいたら、そのうち本当に体調が崩れてきたの」
みどりは目を瞑った。
「ちょうどその時、日照りが続いて飲み水の天水の蓄えが尽きちゃったの。わたしは調子が悪くても、水を汲みに沢に降りないといけなかった。その時に、偶然おばさんに会ったの。でも本当は偶然じゃなくて、わたしが一人でいることを心配して、こっそり来てくれてたんだと思う」
「そうか」
「そう。その時が本当はチャンスだった。何もかも捨てて新しい人生を送るなら、今だって」
「うん……」
「だけど、わたしには勇気が出なかった。小屋に閉じ込められて縮こまってしまったわたしが、本当に扉を開けて飛び出せるのか、自信がなかった。そして、ついつい……おばさんに寄りかかってしまったの」
みどりの声が小さくなる。
「わたしはおばさんに頼みこんだ。お願い、ここのことは誰にも言わないでって。虫のいいお願いよね。でも、おばさんはいいよって言ってくれた。おばさんがわたしのところに通っているのは、誰も知らなかったはず」
なるほど……それで、作次おじさんすら知らなかったわけか。
「お父さんが死んですぐ、わたしは高校を止めたの。お金もなかったし、体調は悪かったし、バスの運行も打ち切られてしまったから。それからは、おばさんだけがわたしと外をつなぐ唯一の接点だった」
みどりは、完全にしょげ返っていた。
「わたしが自分の足で買い物に出ても、わたしは無理におばさん以外の人とのやりとりを避けるようにしたの。わたしはね。わたしが一番嫌っていた、偏屈なお父さんやおじいちゃんそのものになってたの」
僕はおばさんと会った時のことを思い出した。潮時だ、と言っていたのはこのことだろう。また泣くのかな、と思った。でも、みどりは淡々と話し続ける。
「それから二年以上。こうちゃんが、今ここに来てくれるまで。わたしは孤独に浸ってた。わたしはそれと闘わなかったの。寂しい、寂しいって子守唄みたいに繰り返しながら。でも……」
みどりの全ての動きがぴたりと止まった。
「こうちゃんは来た。これはわたしの二度目のチャンスなの。これを逃がしたら、わたしはもう生きていけない」
そして僕をじっと見て、言った。
「こうちゃん。ごめんね。お願いがある。わたしを好きになって、愛して、とは言わない。だから……わたしをここから連れ出して。わたしがどんなにわがままを言っても、駄々をこねても、暴れても。引きずってでも、蹴飛ばしてでもいいから。お願い!」
僕は黙って頷いた。
「それが、僕がここへ来たことの目的だから。安心して」
みどりは、ほっとしたように笑った。
「やっぱり……こうちゃんは優しいね。一度でも手を離したわたしがバカだった」
「え? 手は離れてないよ?」
みどりは驚いたように僕を見た。
「僕はこれまで一度も、みどりから手を離したと思ったことはないよ」
「うそ……」
「ただね。中学、高校の頃の僕は、自分のことで頭がいっぱいだったんだ。掴んでいた手を強く握る余裕が……なかったんだよ」
「そうかあ……」
囲炉裏の火が弱まってきた。僕は薪を二つ三つ、熾きに放り込む。湿った煙が漂って、僕らは少し咳きこんだ。僕はまだ残る薄煙の中に、ぽそっと言葉を紛れ込ませた。
「本当はね。今年も、僕は木馬野に帰るつもりはなかった。でも向こうで穂垂たちに呼びかけられて、急いで帰らないとって思ったんだ。なんでそう思ったのか分からなくて、来る間中ずっと考え込んでた」
「……」
「着いた日に母さんにみどりのことを聞かされて、それでやっとみどりの手を握ってたことを思い出したんだ。もし手を離してたら、僕はここにはいないよ」
みどりの頬に、涙が伝って流れていた。みどりはそれを擦ると、笑顔で言った。
「煙が目にしみるね」
ふふ。みどりらしいな。
◇ ◇ ◇
質素な夕食が済んだあと、僕は腕時計を見た。昨日の夕方から今日の夕方まで、僕はほぼ丸一日みどりの中にいたんだろう。穂垂の言う若い男の生気をみどりに分け与えるのに、そのくらいかかったということなのかもしれない。僕はみどりに声を掛けた。
「なあ、みどり。明日さ、ここを早く出よう。僕は、昨日の夜からうちに連絡を取れていない。ここに来ることは言ってあるけど、心配してると思うから早く戻りたい」
「分かった」
「持って出る必要のあるものは、今から準備しといて」
みどりはきっぱり言い切った。
「何もない。わたしは、ここのものは全て置いていきたいの。物だけじゃなくて、ここで味わってきた寂しさも、辛さも、何もかも」
それは、みどりの決意だったんだろう。身一つでここを出る。物も、思い出も、お金も、何も要らない。自分の出発の足を引っ張るものは、何一つ要らない。それはとても潔かった。そして立ち上がると……。いきなり僕の目の前で服を脱ぎ始めた。慌てて止めようとした僕の前で平然と言った。
「わたしね。調子悪かったから、ここ数日体を洗ってないの。ちょっと沢で洗ってくるから、心配しないで」
腰が抜けた。
みどりは素っ裸になるとバスタオルを腰に巻きつけ、手拭い片手に胸をはだけたままで、すたすたと戸外に出て行った。
◇ ◇ ◇
みどりが沐浴に行っている間、僕は囲炉裏の熾きをじっと見ていた。赤い炎がちらちらと揺れる。その間に間に、みどりの白い裸体が見え隠れする。
たぶん……みどりに他意はないんだろう。昔から、そして今でも、自分一人の時にしている行動そのものなんだ。改めて、この小屋での生活の厳しさを思い知らされる。僕のちっぽけな欲情なんかどうでもいい、と思わせるほど。
しばらくして、やはり胸を露わにしたままでみどりが戻ってきた。
「ごめんね。貧相なものをお見せして」
「いいえー、しっかり鑑賞させていただきました」
「お代は後でいただくわー」
うーん。高くつきそうだ。
みどりは小さな箪笥から下着と浴衣を出して、それを身につけた。ちょっとほっとする。
「ここには水場がないから、お風呂とトイレは沢まで降りないとならないの」
「そっかあ。あ、僕もちょっともよおしてきたかな。ちょっと用を足してくるよ」
「小? 大?」
「小用」
「分かった。ふとん敷いとくね」
「うん、ありがとう」
僕は小屋を出ると、さっき立木を伐ったあたりまで出て用を足した。深夜の森はどっぷりと闇の中に浸かりこんで、泥沼のように僕を飲み込もうとしているように見える。思わず震えが来る。
足早に小屋に戻ると、石油ランプの明かりはすでに消され、囲炉裏のわずかな熾きの光だけになっていた。目を凝らして見ると、布団が一つしか敷かれてない。えっ?
「こうちゃん、こっちこっち」
手招きされて近づくと、さっき浴衣を着ていたはずのみどりが、また素っ裸になって布団に入っていた。
「一緒に寝よ」
僕は、今度は腹立たしくなった。なぜ人を試すような真似をするのだろう? こんな形で僕を確認しなければならないのか?
「どうして……」
僕の憮然とした雰囲気を察したのだろう。みどりは静かに言った。
「こうちゃんは、さっき言ったよね。わたしの手を離したことはないって。でも、わたしはいつも寒かった。この小屋で、いつも独りで震えてた。この手を、体を、温めてくれるものは何もなかったの」
「……」
「出見を送った後で、こうちゃんはわたしをおぶってくれたでしょ? 本当に暖かかったの。ああ、これがこうちゃんだなって思ったの。だからね」
みどりは起き上がって腕を胸の前で交差させると、僕を正面から見据えた。ほとんど光を失った小屋の中で、みどりの白い裸体がぼんやり揺れた。
「明日ここを出て、わたしは別の人生を歩くことになる。でも、それとこうちゃんが傍にいるかどうかは別なの。これまで握っててくれた手は、そこで離れてしまうかもしれない。だから……わたしは、こうちゃんの温もりを感じていたいの。一晩だけでいいから。それだけなの」
僕は逡巡した。でも……。
「みどり。僕は男だ。これまで女の子にもてたことは一度もないけど、欲求はいつもある。みどりと一緒にいて、それを押さえつけることができるかどうか分からない。それでもいいの?」
みどりはきっぱりと言った。
「いい。こうちゃんに任せる。わたしが欲しいものはこうちゃんの温もりだから、その形がなんであっても構わない」
僕は意を決して、服を全て脱いだ。そしてそっと布団に潜り込んだ。
「ごめんね。僕は昨日、今日と風呂に入っていない。汗臭いかも」
「気にしないわ」
みどりは、すぐに肌を寄せてきた。
「暖かいね」
「うん」
僕は仰向けになると、残り少ない熾き火から立ち上る煙の行方を見た。僕は、みどりのことをどう思っているのだろう? 僕の感情は、同情だろうか? 恋慕だろうか? 愛情だろうか?
ふと顔を横に向けると、そこにみどりの顔があった。無意識に僕の手がみどりの顔に伸びた。痩せた頬を引き寄せると、僕は唇を合わせた。ほんの一瞬。
「みどり……」
「なに?」
「僕らを繋ぐものはなんだろうね」
「……」
「僕は最初、みどりへの同情だと思っていた。次に、穂垂や出見を通じた運命だと思った。でも、それを全部差し引いても、まだ僕の中に残るものがあるんだ」
みどりはしばらく黙っていた。そして、ゆっくり呟いた。
「わたしはね。こうちゃんが好きなの。ずっと昔から。でも、わたしはそれに見返りを求めるつもりはないの。こうちゃんがこうして来てくれて、わたしの隣で温もりをくれる。今は、それ以上の幸せはない」
そうか……。
僕は心の中に散らばっていた破片を一つずつ集めて、丁寧に埃を払った。何の価値もないガラスのかけらだと思っていたものは、組み上げられると眩い輝きを放ち始めた。そうか。これが、人を好きになるということか……。
僕の脳裏の宝石は輝きを増した。その時、囲炉裏の火は完全に消えて、部屋は闇に包まれた。僕はみどりの方に向きを変えて、正面から抱きしめた。みどりは微かに震えていた。僕はみどりを抱いたままで話しかけた。
「みどり。僕と歩いてみるかい?」
ぴくっと。みどりが身を震わせた。
「僕は鈍感で、不器用だ。感情を推し量ったり、表現したりするのも苦手だ。どうもそこらへんは穂垂に影響されてしまったみたいだ。だけど……僕はみどりに惹かれてる。小さい頃のみどりじゃなく、今前を向いてるみどりに」
「……」
「今は、愛している、とは言わない。それは嘘をつくことになる。でも……僕はみどりの目を見ることにする。それで、自分の心を映すことにする。それでいいだろう?」
それを聞いていたみどりは泣き出した。でもそれは寂しさの涙ではなく、嬉しさの涙だと信じよう。
それは長い夜だったのか。それとも短い夜だったのか。僕らはくっついたり離れたりしながら、お互いの体温を感じながら、うつらうつらと夜を過ごしていった。
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