(2)
「こうちゃん……」
「なに?」
「昔話しない?」
「えっ?」
いきなりみどりが話を逸らした。その意図は分からなかったけど、僕は応じた。
「なにさ、いきなり。成人したばっかりなのに、年寄りじみた言い方だなー」
「あーら、若年寄りのこうちゃんに言われたかないわ」
「なんだとう?」
みどりが、初めていたずらっぽい笑顔を見せた。僕は少しほっとした。
「こうちゃん、どうしてわたしの家に来たか覚えてる?」
「いやー、全く覚えてないなあ」
「わたしが無理やり連れてったの。こうちゃん、ぼーっとしてたから」
「なんと、人さらいだったのか。みどりわ」
「うふふ」
その時のことを思い浮かべているんだろう。みどりの視線が楽しそうに宙を泳いだ。
「あの時はね。お母さんが死んだばっかりだったの」
そうか……。みどりの母親の
「あの日、わたしはお父さんの買い出しについて原井に来てたの。こうちゃんちの前で俯いて立ってたら、お母さんがいなくなってものすごく寂しかったわたしに、こうちゃんが声をかけてくれた」
みどりは、くるりとこっちを向いた。
「ごほんをよんであげる、って」
「えーっ、そんなこと言ったんだ」
「そうよ。嬉しかったわー。だから言ったの。うちに来てって」
「んで、僕はほいほい付いていった、と」
「ふふ……」
みどりは、思い出し笑いを繰り返す。
「わたしのお父さんは気難しいから、こうちゃんに嫌な思いをさせるかなあと思ったけど、わたしの都合を優先したの」
「その頃からかあ。その人迷惑な性格わ」
「なによう」
ぷっと膨れるみどり。
「それで?」
僕は続きを催促する。
「お父さんたちはまだ買い物をしてたけど放っといて、咲良のバス停からバスに乗った。峠下で降りて、二人で手をつないで山の中を歩いたの。わたしは慣れてたけど、暗くて遠い山道よ。怖いと言っていやがるかと思ったら、平気なの」
「今思えば、穂垂のせいなんだろなあ」
「ううん、わたしはそうは思わない」
みどりは、僕をじっと見つめながら言った。
「こうちゃんはね。自分では気づかないかもしれないけど、頑固なほど優しいの。自分のことよりも、辛い人のことを思いやるの。そのために自分が辛くても我慢するのよ」
「そうかなあ」
「そうよ。意識してないだけ」
みどりはまた視線を宙に浮かせた。
「家についたらもう暗くなってた。うちには電話もなにもないから、こうちゃんの家に連絡することはできない。わたしは家に連れてきてから、初めて自分のしたことを後悔したの。だから、ごめんねって謝ったの。そしたら、こうちゃん、何て言ったと思う?」
「さあ……。なんだろ?」
「逆に、ごめんねって謝られたのよ。くらくてごほんがよめないの、ごめんねって」
「うーん、我ながらナイスなぼけだな」
「そう、ど真ん中だった」
「ふん」
「……わたしの心にね」
「えっ?」
みどりは噛みしめるように言った。
「わたしは……それまで、誰からも優しい言葉をかけてもらったことがなかったの。優しくしてくれたのはお母さんだけ。こうちゃんがね、お母さん以外に初めてわたしの心にそっと触ってくれたのよ。だから……絶対にこのことは忘れないの」
しばらく二人とも黙っていた。その沈黙を振り払うように、みどりが再び話し始めた。
「そのうちお父さんとおじいちゃんが帰って来て、わたしをすごい剣幕で叱った。なぜ勝手に帰るってね。そして、こうちゃんがいることに気がついて、もっと激しく怒りだした」
「それは僕も覚えてる。怖かったなあ」
「わたしは、生きた心地がしなかった。そしたら、こうちゃんは……みどりを叱らないで、僕は何でも我慢するからって言ったの」
……。
「お父さんたちは何も言えなかった。勝手にしろ、とだけ言い捨ててふて寝した」
みどりはそこで一度言葉を切った。炉の炎を見つめて。それから……。
「わたしはね。わたしはその時に、こうちゃんにいつか絶対付いていくんだって決めたの。こうちゃんと一緒にここを出てくんだって、決めたの」
ふいっとこちらを向いたみどりの目に、強い意志が漲っていた。
「それは、今この時までずっと変わってないの」
それは突然の告白だった。僕は茫然としていた。
しばらくして。みどりは寂しそうに言った。
「でも、どうしてわたしたちは離れてしまったんだろう。なんで、わたしは閉じこもってしまったんだろう」
僕がみどりを凝視しているのを見て、みどりはふっと笑みを浮かべた。
「何か食べるものを探しましょ。お腹がすいたら何もできないわ」
みどりは力なく立ち上がると、部屋の隅に置いてある木箱に近づいて蓋を開けた。そして中を確かめようとした時、ふと僕に視線を戻した。
「わたしね。父さんたちが死んで一人になっちゃった時に、本当はここを出るつもりだったの。いくらわたしが強情張っても、ここで一人では生きられないもの」
「うん」
「でも、その時からものすごく体調が悪くなったの。ここから出たくても、出られなくなったの」
「出見のせいか」
「そう。それはさっきまで分からなかったんだけどね」
「生活費とか、どうしてたんだ?」
「山を売った。おばさんに頼んでお金に換えてもらったの。それで細々と食いつないできたの……」
「そうそう、おばさんはなんでみどりのことを看てくれてたんだ?」
「わたしもよく知らない。でも、おばさんが本当に若い頃、父さんたちに助けてもらったことがあるんだって。その恩返しだって言ってた。わたしには信じられないけど……」
箱の中をじっと見つめていたみどりは、真空パックの角餅の袋を引っ張り出した。
「よかった。お腹に溜まりそうなものがあった」
「あぶり餅にするか」
「わたし、水を汲んでくるね。お湯があれば、インスタント味噌汁ができるから」
「沢まで降りるの?」
「ううん、外に天水を溜めた甕があるの」
「そうか、それならいいけど」
みどりは鉄瓶を持って外へ出て行った。その間に杉の枯れ枝を削いで串を作り、餅を刺して、囲炉裏の灰に立てて並べた。戻ってきたみどりは水を満たした鉄瓶を自在鉤に吊るすと、どこかから古い木椀と箸を二つずつ持ってきた。
しばらくして、鉄瓶の口から湯気が舞い始める。僕は木椀の中に味噌を絞り出し、お湯を注いで溶いて、そこに膨れた餅を放り込んだ。
「ちょっと味気ない雑煮だけど、いいよな」
味噌の匂いが胃袋をちくちく刺激した。空腹は極限だったけれど、熱い汁にしたことで、慌てずにゆっくり食べられて良かったのかもしれない。僕らは無言で、静かに餅を食べて、汁を飲んだ。
人心地がついた。ぱちぱちと、熾き火がはぜる音が響く。デイパックをごそごそ掻き回すと、板チョコが出てきた。それを二つに折って、一つをみどりに渡す。
「ほい。デザート」
「あ、嬉しい。チョコレートなんてほんと久し振り」
「買い出しに出た時に、お菓子とか買わなかったの?」
「わたしが町に降りられるのは、本当に体調がいい時だけだったから、あまり余計な荷物は増やせなかったの。おばさんにだって、無理は言えないし」
「そうか……」
みどりは板チョコを前歯の間にはさむと、ぽきりと折り取って口に入れた。
「おいしいなあ……。これが、生きてるってことよね」
「そうだね」
みどりは嬉しそうに笑った。さっきよりも生気が戻ってきたような気がする。
「ねえ、こうちゃん」
「なに?」
「中学、高校の時って、わたしたちほとんど話しなかったでしょ?」
「うん。僕はとろかったから、みどりに嫌われたと思ってたんだけど」
「違うよ」
みどりは顎の下に両手を置いて、口をもぐもぐ動かしながら言った。
「あの頃はね、出見の影響もあったかもしれないけど、わたしは外のことに夢中だったの」
「そう……か」
「小学校の時は、原井から外に出ることはなかったでしょ? 中学になって、本町の学校に行くようになってから、わたしは初めて外の世界の楽しさを知った。それまでは、小屋での生活がほとんど全てだったから」
横目で僕の方を見る。まだ口がもぐもぐしている。
「ま、シンデレラみたいなもんね」
「うーん、たとえに無理があるような気が」
「こらっ!」
みどりは再びチョコをかじり取ると、話し続けた。
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