(2)

「こうちゃん……」

「なに?」

「昔話しない?」

「えっ?」


 いきなりみどりが話を逸らした。その意図は分からなかったけど、僕は応じた。


「なにさ、いきなり。成人したばっかりなのに、年寄りじみた言い方だなー」

「あーら、若年寄りのこうちゃんに言われたかないわ」

「なんだとう?」


 みどりが、初めていたずらっぽい笑顔を見せた。僕は少しほっとした。


「こうちゃん、どうしてわたしの家に来たか覚えてる?」

「いやー、全く覚えてないなあ」

「わたしが無理やり連れてったの。こうちゃん、ぼーっとしてたから」

「なんと、人さらいだったのか。みどりわ」

「うふふ」


 その時のことを思い浮かべているんだろう。みどりの視線が楽しそうに宙を泳いだ。


「あの時はね。お母さんが死んだばっかりだったの」


 そうか……。みどりの母親の未央乃みおのさんは、もともと病弱な人だった。この山の中での厳しい生活は、その体にさらに負担をかけたんだろう。しかも、みどりは未央乃さんが四十歳の時の子供だ。高齢の初産で産後の肥立ちが悪かった上に、さらに育児の負担が加わって、未央乃さんは長く持ち堪えられなかった。


「あの日、わたしはお父さんの買い出しについて原井に来てたの。こうちゃんちの前で俯いて立ってたら、お母さんがいなくなってものすごく寂しかったわたしに、こうちゃんが声をかけてくれた」


 みどりは、くるりとこっちを向いた。


「ごほんをよんであげる、って」

「えーっ、そんなこと言ったんだ」

「そうよ。嬉しかったわー。だから言ったの。うちに来てって」

「んで、僕はほいほい付いていった、と」

「ふふ……」


 みどりは、思い出し笑いを繰り返す。


「わたしのお父さんは気難しいから、こうちゃんに嫌な思いをさせるかなあと思ったけど、わたしの都合を優先したの」

「その頃からかあ。その人迷惑な性格わ」

「なによう」


 ぷっと膨れるみどり。


「それで?」


 僕は続きを催促する。


「お父さんたちはまだ買い物をしてたけど放っといて、咲良のバス停からバスに乗った。峠下で降りて、二人で手をつないで山の中を歩いたの。わたしは慣れてたけど、暗くて遠い山道よ。怖いと言っていやがるかと思ったら、平気なの」

「今思えば、穂垂のせいなんだろなあ」

「ううん、わたしはそうは思わない」


 みどりは、僕をじっと見つめながら言った。


「こうちゃんはね。自分では気づかないかもしれないけど、頑固なほど優しいの。自分のことよりも、辛い人のことを思いやるの。そのために自分が辛くても我慢するのよ」

「そうかなあ」

「そうよ。意識してないだけ」


 みどりはまた視線を宙に浮かせた。


「家についたらもう暗くなってた。うちには電話もなにもないから、こうちゃんの家に連絡することはできない。わたしは家に連れてきてから、初めて自分のしたことを後悔したの。だから、ごめんねって謝ったの。そしたら、こうちゃん、何て言ったと思う?」

「さあ……。なんだろ?」

「逆に、ごめんねって謝られたのよ。くらくてごほんがよめないの、ごめんねって」

「うーん、我ながらナイスなぼけだな」

「そう、ど真ん中だった」

「ふん」

「……わたしの心にね」

「えっ?」


 みどりは噛みしめるように言った。


「わたしは……それまで、誰からも優しい言葉をかけてもらったことがなかったの。優しくしてくれたのはお母さんだけ。こうちゃんがね、お母さん以外に初めてわたしの心にそっと触ってくれたのよ。だから……絶対にこのことは忘れないの」


 しばらく二人とも黙っていた。その沈黙を振り払うように、みどりが再び話し始めた。


「そのうちお父さんとおじいちゃんが帰って来て、わたしをすごい剣幕で叱った。なぜ勝手に帰るってね。そして、こうちゃんがいることに気がついて、もっと激しく怒りだした」

「それは僕も覚えてる。怖かったなあ」

「わたしは、生きた心地がしなかった。そしたら、こうちゃんは……みどりを叱らないで、僕は何でも我慢するからって言ったの」


 ……。


「お父さんたちは何も言えなかった。勝手にしろ、とだけ言い捨ててふて寝した」


 みどりはそこで一度言葉を切った。炉の炎を見つめて。それから……。


「わたしはね。わたしはその時に、こうちゃんにいつか絶対付いていくんだって決めたの。こうちゃんと一緒にここを出てくんだって、決めたの」


 ふいっとこちらを向いたみどりの目に、強い意志が漲っていた。


「それは、今この時までずっと変わってないの」

 

 それは突然の告白だった。僕は茫然としていた。

 

 しばらくして。みどりは寂しそうに言った。


「でも、どうしてわたしたちは離れてしまったんだろう。なんで、わたしは閉じこもってしまったんだろう」


 僕がみどりを凝視しているのを見て、みどりはふっと笑みを浮かべた。


「何か食べるものを探しましょ。お腹がすいたら何もできないわ」


 みどりは力なく立ち上がると、部屋の隅に置いてある木箱に近づいて蓋を開けた。そして中を確かめようとした時、ふと僕に視線を戻した。


「わたしね。父さんたちが死んで一人になっちゃった時に、本当はここを出るつもりだったの。いくらわたしが強情張っても、ここで一人では生きられないもの」

「うん」

「でも、その時からものすごく体調が悪くなったの。ここから出たくても、出られなくなったの」

「出見のせいか」

「そう。それはさっきまで分からなかったんだけどね」

「生活費とか、どうしてたんだ?」

「山を売った。おばさんに頼んでお金に換えてもらったの。それで細々と食いつないできたの……」

「そうそう、おばさんはなんでみどりのことを看てくれてたんだ?」

「わたしもよく知らない。でも、おばさんが本当に若い頃、父さんたちに助けてもらったことがあるんだって。その恩返しだって言ってた。わたしには信じられないけど……」


 箱の中をじっと見つめていたみどりは、真空パックの角餅の袋を引っ張り出した。


「よかった。お腹に溜まりそうなものがあった」

「あぶり餅にするか」

「わたし、水を汲んでくるね。お湯があれば、インスタント味噌汁ができるから」

「沢まで降りるの?」

「ううん、外に天水を溜めた甕があるの」

「そうか、それならいいけど」


 みどりは鉄瓶を持って外へ出て行った。その間に杉の枯れ枝を削いで串を作り、餅を刺して、囲炉裏の灰に立てて並べた。戻ってきたみどりは水を満たした鉄瓶を自在鉤に吊るすと、どこかから古い木椀と箸を二つずつ持ってきた。

 しばらくして、鉄瓶の口から湯気が舞い始める。僕は木椀の中に味噌を絞り出し、お湯を注いで溶いて、そこに膨れた餅を放り込んだ。


「ちょっと味気ない雑煮だけど、いいよな」


 味噌の匂いが胃袋をちくちく刺激した。空腹は極限だったけれど、熱い汁にしたことで、慌てずにゆっくり食べられて良かったのかもしれない。僕らは無言で、静かに餅を食べて、汁を飲んだ。


 人心地がついた。ぱちぱちと、熾き火がはぜる音が響く。デイパックをごそごそ掻き回すと、板チョコが出てきた。それを二つに折って、一つをみどりに渡す。


「ほい。デザート」

「あ、嬉しい。チョコレートなんてほんと久し振り」

「買い出しに出た時に、お菓子とか買わなかったの?」

「わたしが町に降りられるのは、本当に体調がいい時だけだったから、あまり余計な荷物は増やせなかったの。おばさんにだって、無理は言えないし」

「そうか……」


 みどりは板チョコを前歯の間にはさむと、ぽきりと折り取って口に入れた。


「おいしいなあ……。これが、生きてるってことよね」

「そうだね」


 みどりは嬉しそうに笑った。さっきよりも生気が戻ってきたような気がする。


「ねえ、こうちゃん」

「なに?」

「中学、高校の時って、わたしたちほとんど話しなかったでしょ?」

「うん。僕はとろかったから、みどりに嫌われたと思ってたんだけど」

「違うよ」


 みどりは顎の下に両手を置いて、口をもぐもぐ動かしながら言った。


「あの頃はね、出見の影響もあったかもしれないけど、わたしは外のことに夢中だったの」

「そう……か」

「小学校の時は、原井から外に出ることはなかったでしょ? 中学になって、本町の学校に行くようになってから、わたしは初めて外の世界の楽しさを知った。それまでは、小屋での生活がほとんど全てだったから」


 横目で僕の方を見る。まだ口がもぐもぐしている。


「ま、シンデレラみたいなもんね」

「うーん、たとえに無理があるような気が」

「こらっ!」


 みどりは再びチョコをかじり取ると、話し続けた。


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