第三章 孤独を解く
(1)
穂垂と出見は去った。
僕は抱えていたみどりを、出見の木の傍らに座らせた。みどりは、木に寄りかかって放心していた。僕もしばらくその場に立ち尽くしていた。
徐々に夜の帳が下りてくる。僕は幹に手を当てて、空を見上げた。日没の残光は完全に消え去って、夜空は満天の星だった。樹冠で覆われた森の中でも、光は隙間を伝ってこぼれ落ちてきた。
暗い小屋の中にぼんやりと浮かび上がる穂垂と出見を前にして、ずいぶん長いこと語り合ったような気がする。でも本当は、ほんのわずかな間のことだったんだろう。悠久の時間。僕らに比べてはるかに長く生き永らえること。穂垂は僕らとは違う。
でも穂垂は言った。それでも、わしらはおぬしらと変わらぬ、と。
いつかは尽きる。いつかは朽ち果てる。その限られた時間をいかに生きるかは同じ。そして、おぬしらが為すのが定めならば、わしらは見続けるのが定めじゃ、と。じゃあ、僕は。僕は何を為すのだろう? そして、それは。穂垂や出見の目にどう映るのだろう?
湿った夜気が静かに足下にまとわりつく。
◇ ◇ ◇
みどりは出見の木の根元に寄りかかったまま、身動きしなかった。
「さあ、小屋に戻ろう」
声を掛けたけど反応はない。下を向いて押し黙ったままだ。立ち上がらせて、手を引いた。抵抗するでもなく、まるで抜け殻のように僕の後ろをふらふらと歩き始める。この調子じゃ、小屋に上がる道が危なっかしい。
「背負うよ。いいね?」
返事がない。
仕方がない。みどりの近くに寄って背を向けて屈み、足を掴むようにして背中に乗せた。みどりは、倒れるようにして僕の背に乗った。困ったな。みどりが自分で僕の肩か首を掴んでくれないと、体が固定できなくてとても歩けない。どうしようかと思ったその時に、これまでずっと無言を貫いていたみどりが口を開いた。
「あったかいね」
そう言って、腕を首に回してきた。
「しっかり掴まってて」
「うん」
暗闇の中、急坂を慎重に上がる。尾根に上がると、道は谷筋よりは明るい。時折り星空を見上げながら、ゆっくりと小屋への道を辿る。みどりは、再び堅く口を閉ざした。
小屋に戻って座敷の上がりかまちにみどりを腰掛けさせ、僕が先に奥の間に上がった。石油ランプに火を入れて室内を明るくする。昨日、僕がみどりだった時に吐いた跡がそのままになっていたから、道具部屋で雑巾を探してそれを拭き取り、囲炉裏の灰の中に落とした。
昨日の夜から何も食べてない。空腹は辛かったけど、みどりはもっと辛いだろう。でも、とりあえず囲炉裏に火をおこそう。煮炊きにも、暖をとるにも、火は要る。僕は外に出て、夜目で見える範囲で焚き付けを集めようとした。だけど、みどりが普段の煮炊きで、手近な木端をみんな使ってしまっているんだろう。辺りは掃き清められたようにきれいで、木っ端のかけらすら見当たらない。
道具部屋に戻って、ごそごそと闇の中を手探りして鉈を見つけた。みどりの父が使っていた鉈は錆が浮いていたけど、取りあえず切れればなんでもいい。鉈を手にして外に出て、枯れた立ち木を探した。何本か当たりをつけて、鉈を斜めに振り下ろす。ぼきりと鈍い音がして、倒れる枯れ木。それを手頃な大きさに叩き割り、抱えられるだけ抱えて小屋に戻った。みどりは、まだぼーっと座っていたけれど、僕がなにか持って帰ってきたのを見て訊いた。
「薪がなかったでしょ?」
「うん。だから枯れた立ち木を伐って持ってきた」
「そう……。こうちゃんはさすが男ね。わたしはあんなに苦労したのに」
「それより」
僕は、空腹がみどりの命を脅かすことの方が心配だった。
「さっきジャケットのポケットを探したらこれが出てきた。とりあえず、口に入れといて」
みどりに飴をいくつか渡す。
「こうちゃんは?」
「僕は火をおこしてから、デイパックを漁るよ。まだ何か入ってるかもしれない」
みどりは飴を受け取ると、震える手で包装を破いて、口に飴を含んだ。ふーっという吐息が漏れる。静かな室内に、飴が口の中で転がる音が響く。
「おいしい……」
「ゆっくり舐めろよ。その方が腹保ちする」
囲炉裏に小枝を並べて積み上げる。少し太めの枝を、石油ランプのほやの上ぎりぎりにかざす。しばらくして煙とともに、ぽっと小さい赤い火が点った。それを慎重に小枝の櫓の底に移し、火を大きくする。ぱちぱちという木がはぜる音が響いてくれば、あとは少しずつ焼べる木を大きくしていけばいい。
「慣れてるのね」
みどりが、ぽつりと言った。
「いや、僕は火をおこしたことなんかないはずだけど。なんで知ってんだろう? キャンプの時かなんかに習ったのかな? まあ、いいや」
そして、みどりを呼んだ。
「上がれよ。そこじゃ足下から冷え込む。少し体を温めた方がいい」
みどりは膝を抱えて足を畳に上げると、いざるようにして囲炉裏に近づいてきた。炎に手をかざすと、二つめの飴の包装を破る。みどりが飴を口に入れようとして、ふと手を止めて呟いた。
「お腹が空くって」
「え?」
「切ないね」
僕はそれには答えずに、囲炉裏の揺らめく炎をじっと見つめていた。いつの間にかころころころ、という低い音が途切れていた。みどりは二つめの飴を舐め終わったようだ。僕と同様に静かに炎を見ている。
しばらくして、みどりの目から涙が溢れて、口から嗚咽が漏れた。
「どうして……」
嗚咽はだんだん大きくなる。
「どうして、みんないなくなるの? どうして!?」
みどりは顔を手で覆って、肩を震わせる。泣き声が部屋中に飛び散っていく。
「お母さんも、お父さんも、おじいちゃんも往っちゃった! おばさんも、もう来ない! 出見も、もういない! どうして、みんなわたしを置いていくの? どうしてっ? どうして、みんなわたしを独りにするのよおおお! あああああああうううっ! わああああああああうううっーー!!」
最後は……もう絶叫だった。
底の見えない孤独があるとすれば、それはみどりの孤独だろう。長い間、誰にもその寂しさを分かってもらえず、溜め続けた負の感情。外向きの出見が押さえ込んでいた莫大な重荷。その縛めが大きな音を立てて弾け飛び、堰を切り、すさまじい濁流となって僕になだれ込んでくる。
みどりは倒れ伏して、大声で泣きじゃくり続けた。
◇ ◇ ◇
一時間くらい経っただろうか。みどりは泣き疲れたように炉端で横になっていた。眠ったのかと思って顔を覗くと、目は開いていた。みどりは静かに体を起こすと、ぽつりと僕に聞いた。
「こうちゃん、これからどうするの?」
「もちろん。みどりを連れて帰るよ」
みどりの顔に怒気が浮かぶ。
「わたしはここを出ない!」
今の状況でここに残るのは、死を選ぶということだ。それでもその言葉が出る。出てしまうほど、みどりの絶望は深かったんだろう。僕は穂垂に言った言葉を、脳裏で繰り返した。……みどりを説き伏せる、と。そう言ったのだから。
どう話そうか。
「僕もね」
「……」
「みどりとは違うけど、ずっと寂しかったんだよ」
「……」
みどりの視線は、あんたの寂しさなんかわたしと比べ物にならないとでも言いたげに、鋭く尖っていた。僕は、それには目を合わさずに話し続けた。
「みどりは出見の力で、みんなの秘密を知ってただろう? それで悩みがあるのは、孤独なのは自分だけじゃないって安心してた。そうだろ?」
「……」
「僕にも穂垂の力で、それは流れ込んできてた。でもね。みどりと違って、僕はそれが嫌で嫌でたまらなかった。僕は人の秘密なんかに興味はない。知りたくないものを押し付けられて、それをうっかり口にしてしまえば、今度は疎まれる」
自分の言葉に締め付けられて、胸が苦しくなる。
「僕はみどりのように器用じゃない。自分の変な力に怯え、周囲から疎まれることに怯えて、自分の周りにたくさん人がいるのに、その誰とも心が通わなかった。みどりが水底深くに沈んでいる一個の小石だとすれば、僕は絶対に水と溶けあうことのできない油みたいなもの。どっちが寂しいと思う?」
みどりは、黙って下を向いた。
「そうなんだ。そんなことを比べてもどうにもならないんだよ。寂しさの数を競っても、寂しさが増えるだけ」
ふう……。
「僕が木馬野を出たのは、ここから逃げるためだった。今のみどりと同じさ。孤独で自分をべったり塗りつぶしてた。でも、ここを離れてみて分かったことがある。逃げても逃げても、寂しさは追いかけてくる。それを振り払う方法は、自分で探すしかないんだ」
僕は、みどりに話しかけているつもりで、自分自身に話しかけていることに気がついた。
「僕はね。もう、寂しいってことにうんざりだったんだよ。でも……」
僕はふっとみどりの顔を見る。
「どうしていいのか分からないんだ。なあ、どうしたらいいと思う?」
みどりは問い返した。
「その答えはあるの?」
「ないよ。今は」
「……」
「だから探してるんだ……」
みどりにとっては、全く思ってもみなかった答えだったんだろう。険が取れて、ふーっと深い息が漏れた。僕も一つ溜息をつく。
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