第二章 邂逅と別れ

(1)

 小屋はひっそりと静まり返っていて、何の気配も感じられなかった。戸を何度か叩いたけど、返事はなかった。

 僕は、少し下がって改めて小屋を見回した。小屋は、ゆうに百年以上は経っていそうな、木造のどっしりとした建物だ。平屋だけど壁が高く、かなり大きく感じる。そうは言っても、小屋は小屋。山仕事に使う道具を納めてあって、杣人が簡単な食事や休憩をとるのに使う素っ気ないもの。雨風がしのげるというだけだ。人が住むのに適した作りじゃない。


 木下の家は、代々杣仕事に携わってきた。昔は人を使って仕事をし、本町にかなり大きな屋敷を持っていたらしい。でも、時代の流れに取り残されて没落し、家屋と持ち山の多くを失った。そして、みどりの祖父の代から、この小屋に逃げ込むようにして、不自由な暮らしをするようになったと聞かされた。


 木下一家の偏屈、人嫌いは度を越していた。こうして隠れ住むことで、不自由や孤独と引き換えに、世俗の煩わしさを避けていたんだろうか。


◇ ◇ ◇


 獣返しのためか、それとも雪対策なのか分からないけど、壁の低い位置にはもともと窓がない。屋根下に跳ね上げ式の横窓がいくつか見えるけど、全部閉まっている。あとは小屋の屋根に、煙抜きを兼ねた明かり採りの高窓があるだけだ。これじゃあ、外から様子を窺うことができない。だからと言って、みどりの様子を見ないで帰るわけにもいかない。とりあえず、入ってみようか。引き戸を引くと、それはあっけなく開いた。鍵は最初からなかったのかもしれない。勝手に小屋に入り込むことにはためらいがあったけど、中を覗くことにする。


 小屋には部屋が二つしかない。入ってすぐに板敷きの道具部屋があり、奥に囲炉裏が切られた座敷があったはず。灯りのない室内は暗い。目が慣れても見通せない。デイパックから、鍵束につけたキーライトを引っ張り出す。道具部屋に上がり、ライトを照らして辺りの様子を見渡した。大きな引き違いの板戸が奥の間を隔てている。


「……みどり? いるか?」


 声をかけたけど、やっぱり返事がない。どこかに出かけているんだろうか? それとも……。考えたくないことを振り払うように、思い切って戸を開けた。座敷は小屋上にある窓からの穏やかな光を受けて、道具部屋より明るかった。それでも、やはり見通しが効かなかった。


 キーライトを巡らせる。囲炉裏の横に小さな座卓が置かれていて、そこに誰かが突っ伏していた。小屋の風情には不釣り合いな、白いワンピースを着た長髪の女性。


 みどり、だ。


 白い服がまるで死装束のように見えて、思わず駆け寄る。そっと口元に手を近づけた。息をしてる。生きてる……。安堵のあまり足の力が抜けて、その場にへたり込んだ。とりあえず、生きていることは分かった。だけど日中に正体なく眠っているなんて、やっぱりおかしい。

 顔を覗き込むと、全く生気が感じられない。もともと色白なみどりだけど、それを通り越して幽霊のように青白くなっている。ひどく痩せて、頬や眼の周りがこけ、手足も華奢を通り越して、小枝のように細い。高校の時の快活な姿しか記憶にない僕には、その当時と今のみどりのイメージが全く結びつかない。いったい何があったんだろう?


 さあ、どうしようか。話を聞くにしても、連れて帰るにしても、取りあえず起こさ

ないことにはどうにもならない。揺り起こそうと肩に手をかけた。


 その瞬間! ……僕の意識が……飛んだ。


◇ ◇ ◇


 どのくらい気を失っていたんだろうか? 気がつくと、小屋の中は完全に真っ暗になっていた。


 う……。な、なんだろう、これ? 猛烈に体がだるい。立ち上がろうとしても、手足に力が入らなくて立てない。とりあえず、キーライトで辺りを探ろうと思ったけど、さっき持っていたはずのキーライトが手元にない。

 あれ? 近くをまさぐったけれど、それらしいものはない。それに自分が着ているものの感覚が変だ。足下がすうすうする。


 え? 手が頭に行く。髪が……長い。って、これはなんだ!? ざあっと全身の血の気が引いた。這うようにしてもう一度辺りをまさぐって、やっと近くに落ちていたキーライトを探り当てた。震える手で灯りを点けると……目の前に男が倒れている。よく知っている男。自分。


 気力を振り絞ってのろのろと立ち上がる。小さな光の輪を頼りに、燈火らしいものを探す。石油ランプを見つけて、それに火を点した。部屋は一気に明るくなった。間違いない。倒れているのは僕だ。


「……起きろ!」


 起こそうと揺すぶったけど、全く反応がない。これは何だ? 僕が何をした? どうして僕がみどりになってるんだ?

 僕は気が狂いそうだった。だけど、それ以上に強い空腹を感じてしゃがみ込んでしまった。僕は倒れている自分からデイパックを外すと、中の菓子や飴をむさぼり食った。水を一気に飲んだ。


 そして……吐いた。


 それは。今までに経験したことがないような、猛烈な具合の悪さだった。吐き気とめまいが凄まじくて、立っていられない。自分が置かれている状況を考える前に、ばらばらになって壊れてしまいそうな……それくらい酷かった。


 寝よう。考えるのは後にしよう。とりあえず、眠りたい。僕は本能に突き動かされるように、布団を探して敷いた。僕であるはずの男にも毛布を被せ、石油ランプの火を落として、倒れるように体を横たえた。そして……眠るというより、意識を失った。


◇ ◇ ◇


 目が覚めたのは。いや、意識が戻ったのはいつ頃だったんだろう? 小屋の中は相変わらず真っ暗で、全く様子が分からない。時間も、今日が何日かも見当がつかない。眠る前よりは少し状態が良くなっていた。でも、相変わらず強烈なひだるさが抜けない。喉が渇いていて水を飲みたかったけど、また吐くことになると嫌だな、と思って我慢する。尿意もあったけど、女性の体で用を足すのは勝手が全く分からない。第一、動きたくない。布団の上に半身を起こして、深い溜息をつく。


「……なんでこんなことになったんだろう」


 闇の中で僕が呟いた声は、紛れもなくみどりの声だ。これからどうする、とか、倒れている僕の体はどうなる、とか、いろいろなことが頭の中をぐるぐる回っていたけど、口をついて出るのは溜息だけだった。

 体を起こしていると、また気分が悪くなってくる。体を横たえて、目を瞑る。今度は眠れない。静寂と暗闇の中を、視線だけを彷徨わせて、じっと時間が過ぎるのを待っていた。


 その時だった。虚空で声がした。小さいがはっきりした声だった。


「済まぬ」


 どこから声が聞こえたのか分からなかった。もう一度。


「済まぬ。おぬしらには酷く迷惑をかけておる。が、今しばらく辛抱して呉れぬか。頼む」


 そうか。どこから聞こえてきたのかよく考えてみると、頭の中からだった。自分がみどりになってしまってるという時点で、充分におかしかった。だから、もう何があってもおかしいとは思わなかった。この声がした時は妙に冷静だった。


「……誰か分からないけど、この状態を説明できるの?」


 とりあえず、疑問を口に出してぶつけてみる。しばらく静寂があって、再び声がした。


「詮無き問わず語りじゃ。長うなるが、それでもよいかの?」

「……うん」


 僕は頷いた。


「まず名乗らねばならぬな。わしは穂垂ほたると云う。おぬしの中に、もう永らく共におる」


 言っている意味が全く分からない。


「意味の分からぬのも至極道理じゃ。これより諄々と話そうぞ。もう一人。わし同様に、みどりの中に居候しているのがおる。のう、出見いずみ


 その時、これまでとは違う調子の声が響いた。


「はい、お館さま」

「お館さまは止さぬか。わしの下僕でもあるまいし」

「されど……」

「まあ、よい」


 少しの間、沈黙があった。


「やはりなりがなければ難儀よのう。おぬしらに見ゆるようにする故、しばし待たれよ」


 一呼吸置いて、暗闇の中に白い古風な装束を身に着けた子供が浮かび上がった。隣には、同様の装束ながら緋色の服を着た子が立っている。


 白い服の子が言った。


「わしを穂垂だと思うて呉れい。もとよりわしらに実体はないが、この方が話しやすかろうて」


 二人の子は僕の前に進み出ると、並んで正座した。


「これで四人、揃うたな」


 えっ?


「……四人?」

「おぬしは、今みどりの中におる。みどりにもわしらの姿は見え、わしらの声は聞こゆるはずじゃ。みどりがひたすらに黙しておるゆえ、おぬしが気付かぬだけでな」


 ……。


「こうしてみなが揃うのは、これが最初で最後じゃ。居心地は悪かろうが、しばし堪えて呉れぬか」


 白い服の子は、微笑を浮かべると静かに語り始めた。


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