(2)

 僕が父さんと大喧嘩をしてまでここを出たのは、僕のこの妙な力で傷つく人が増えてしまったから。


 僕は神様じゃない。全ての秘密をしまい込めるわけじゃない。ふとしたはずみで口に出てしまったそれは、もう元に戻すことができない。そして、気まずさと後悔しかもたらさない。田舎は人間関係が固定しやすい。僕のしくじりが増えると、どんなに意識して目立たなくしていても、敬遠され、気味悪がられて、僕の居場所はなくなっていく。


 わざわざ遠い九州の大学を選んで受験したのも、そこには同郷の友人が誰もいないから。僕は自分ではどうすることもできない力に振り回されて、すごく疲れていたのかもしれない。

 叔母さんのところに下宿というのは予定外だったけど、親の仕送りに頼らざるを得ない以上、他に選択肢はなかった。幸い、叔父さん、叔母さんともすごく忙しくて、僕に余計な詮索はしなかった。僕は本当に安心したんだ。


 大学は新鮮だった。誰も僕を知らないという安心感。僕の独特の話し方は個性と捉えられ、それをあげつらう人はいなかった。僕はのびのびと羽を伸ばすことができた。僕はあまり人付き合いのいい方じゃなかったけど、大学に入ってからは飲み会にも時々出るようになった。人と触れ合う機会が欲しかったのかもしれない。僕は、徐々に自分の力への警戒心を緩めていった。


 アルバイトで叔父さんの店の店員を始めたのは、向こうへ行ってすぐ。叔母さんからの提案は渡りに船だった。親の仕送り負担を減らしたい、と言えば聞こえはいいけど、実際は、アルバイトを口実にすれば帰らなくても済むという理由の方が大きかった。でも結局、去年は一度も親から帰って来いと言われなかった。親なりに気を遣ってくれたのかもしれない。僕は正直ほっとしたのを覚えている……。


 ……そう。これは僕が帰りたくなかった理由。でも、帰らなければならない理由じゃないんだ。疑問は何も解決してない。


◇ ◇ ◇


 考え事をしている間に、うたた寝をしてしまったらしい。はっと起き上がって腕時計を見ると、もう三時近くになっている。日没の早い山中を歩くことを考えれば、もうほとんど余裕がない。せっかく車で来たのに何やってるんだろう。しまった……。考えていてもしょうがない。とりあえず、行ってみよう。


 デイパックを背負って、バス停奥の薮をかき分け、沢沿いの道に入る。沢伝いにしばらく上がると、田神原の作業道に上がるための小道があるはずだ。沢沿いの獣道はまだ明るく、わりと歩きやすかった。


 沢の傾斜が急にきつくなる少し手前で、立ち木に目印のカラーテープを巻き付け、そこから左手の斜面を見渡す。道らしき踏み跡がうっすらと残っているけど、気をつけて見ない限りほとんど分からない。見当をつけて斜面を上がる。まるで木立の間を闇雲に登っているみたいだ。ここは、みどりの父や祖父が元気だった頃はもっとまともな道だったはずだ。これはしんどい道行きになりそうだ。


 百メートルほど一気に上がると、尾根を縫うように延びる細い道に出た。田神原の作業道だ。あとは右手の方へ、しばらく尾根伝いに上がっていく感じになるはず。ここでも木にテープを巻いて目印をつける。

 共同作業道だから林道の体裁は整ってるはずなのに、草木が茂ってあちこちで道を塞いでる。歩きにくくてしょうがない。中西の集落が無くなり、本町在住の山持ちさんたちもみんな年を取って、林内作業に来る人がほとんど通わなくなったんだろう。みどりは、こんなところを行き来しているのか。気分が滅入ってくる。


 作業道を奥へずっと上り詰めると、三叉路に行きあたる。一番細い右の道に入って、さらに尾根伝いに歩いていくと、五百メートルほど行った所で、道がぷっつりと途切れる。そこが作業道の終点。その先は切り立った崖になっている。

 この辺りまでは来る人がいたかもしれない。でも、ここから先はどこも木下の土地だ。いかに山暮らしの人たちが多いと言ったって、こんな山奥の人の持ち山をうろつきに来る物好きはいない。家の場所が誰にも知られてないのは無理もない。


 行き止まりの左手に枯れた檜の大木があり、その手前から急斜面を削ぐようにして、細い道が長く下に続いている。両足を並べては立てないくらい細く、手すりもステップもない。足元が見える時間帯以外は行き来出来るような道じゃない。滑落したらひとたまりもないので、時間をかけて慎重に急坂を下る。斜面を降り切ったところでほっと一息ついた。


 あ! しまったー。三叉路とここに降りてくる地点に、目印をつけてくるのを忘れた。この長い急斜面をもう一度上り下りするのはきつい。まあ、いいや。ここまで来れば、もう少しのはずだし。


 谷底には、幅は狭いが水量のある沢が通っている。確かみどりは砥沢とさわと呼んでいた。暗い谷合いを埋めるように、水音が絶え間なく響いている。みどりの家は反対側の斜面を上り詰めた尾根の上にある。水道なんてここにはないので、水を確保するには、この沢まで汲みに下りる必要がある。とんでもない労力だ。その手間一つとっても、ここはとても人が住めるような場所じゃないと思い知らされる。


 沢水で顔を洗い、タオルで拭く。冷たい水がとても気持ちいい。ふいーっ。ここまで神経を張り詰めて一気に来たけど、目処が立って、少し周りを見る余裕ができた。


 ん? ぐるりと見渡した沢の奥に、何やら動き回る人影が見えた。体を屈めて、何かを探しまわっているみたいだ。みどりかと思って目を凝らしたけど、背格好が全く違う。背筋が寒くなる。こんな山の中で偶然に人に出くわすことなんかありえない。誰だろう? 勇気を振り絞って、大声で呼びかけてみた。


「……こんにちはー! どなたですか?」


 向こうも僕を見てすごく驚いたようだ。こちらを見るなり、数歩後ずさりした。でも声をかけたのが若い男だと知ると、不思議そうな顔をして近づいてきた。現れたのは、大きな布の袋を肩から下げた初老のおばさんだった。


「あんたこそ、誰で、こんなところで何してるんだい?」


 僕もだけど、向こうも不審者を見るような視線で、お互いにしばらく睨み合っていた。あれ? でも、この顔にはなんとなく見覚えがある。


「……あの、もしかして斎藤さん……ですか?」

「えっ?」


 向こうは名前を言われて驚いたらしい。驚いたところを見ると、僕の見立ては当たったのだろう。


「……僕は松木の息子です。幸助です」


 向こうも思い出したようだ。緊張が解れて、笑顔になった。


「ああ、なーんだ、こうちゃんかい。びっくりしたあ。誰かと思ったよ。ほんとに久しぶりだねえ。でも、なんでまたこんな山ん中に来たんだい?」


 僕はおばさんがここにいることの方がよほど怪しいと思ったけど、口には出さなかった。


「……母さんに頼まれて、みどりの様子を見に来たんです。しばらく町に下りて来てないんで心配だけど、僕以外誰もみどりの家を知らないからって……」


 おばさんはじっと僕を見ていたけど、静かに言った。


「そうか。迎えにきたんだね。良かった。わたしも潮時だと思ってたから、本当に良かったよ」


 僕はおばさんが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。


「こうちゃん、みどりちゃんを頼むよ。わたしはそろそろ戸板を離れないとならない。こうして、こうちゃんが来てくれたのも運命だろう。詳しいことは後で町に出た時に話すから、今は早くみどりちゃんのところに行ってあげて。頼むね」


 おばさんは、そう言い残すと僕にくるりと背を向けて、すたすたと沢を下っていってしまった。あっけにとられた僕は、その場に取り残された。


◇ ◇ ◇


 僕はおばさんの姿が見えなくなっても、しばらくその先を見つめていた。でも、日差しが弱くなってきたのを感じて、我に返った。ここにぼやっと立っていてもしょうがない。急ごう。みどりの家は、もうすぐそこのはずだ。


 沢を渡り、今度は反対側の斜面をジグザグに上がる。ここもすさまじい急傾斜だ。歩くというより這い上がるのに近い。斜面を上がりきると、右手に馬の背の細い道が続いている。道のどん詰まりにわずかな平坦地があって、そこに、みどりの住んでいる小屋がひっそりと佇んでいた。

 ずっと昔。しかも一度きりしか来たことのないこの家に、なんの迷いもためらいもなく辿りつけたこと。それがたぶん、僕が帰らなければならなかった理由なんだろう。


 僕は小屋に近寄っていった……。


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