ルート 2 みどり編

第一章 記憶を手繰る

(1)

 うーん。いくらここが涼しい木馬野だとはいえ、汗だくになって山の中を歩き回るのはまっぴらだ。園田さんがこの先突撃していった確証があるわけじゃなし、とりあえず戻って、家の軽を借りて探した方がはるかに効率がいい。みどりの様子を見に行くにしたって、車は要るんだし。


 僕は徒労感でげんなりしながらも、引き返すことにした。Tシャツが汗でべったり背中に貼りついて気持ち悪い。何か冷たいものが飲みたいなあ。そんなことを考えながら、ゆっくりと坂道を下りる。


◇ ◇ ◇


 店に戻ると、母さんが怪訝そうな顔をした。


「あれえ? こうちゃん、作次さんのところに行ったんじゃないの?」

「……いや、おじさんのところに寄ると話が長くなるから、取りあえずバスで園田さんの足取りを確かめようと思って咲良まで行ったんだ」


 はあ……。


「……戸板へのバスって無くなってたんだね。あーあ。とんだ無駄足踏んじゃったよ」


 母さんが、信じられないという顔で僕を小突いた。


「まったく、いつの時代の話してんの。こうちゃんが高校の時には、もうバスはなかったわよ」

「……え? だって、みどりが峠下からバスで通ってたんじゃないの?」

「それが、みどりちゃんが高校止めた理由の一つだって。前に、うちの店に来た時にそう言ってた。とてもバスなしじゃ通えないって」

「……戸板の人たちはどうしてるの?」

「町が福祉サービスの一環で、無料のタウンカーを週二回出してるの。買い物とか病院通いとかは、それを使うしかないわね。毎日じゃないから不便だけど、今はもう自家用車を持ってるお宅はないから」

「……そっかあ」


 店の電話が鳴って、母さんがすぐ受話器を取った。


「あ、はい。そうです。松木ですが。あ、園田さん? 幸助ね。おりますよ。少々お待ちください」


 母さんは、園田さんから、と言って受話器を僕に渡した。なんかフクザツな顔をしてる。まだ疑ってるんだろう。困ったなあ。


「……あー、もしもし」

「松木くん?」

「……あ、園田さん、今どこ?」

「木馬野の駅にいるんだけど、とりあえず連絡しとこうと思って。携帯通じないんだもん」

「……うう、ごめんね。本町では使えるんだけど、ここが圏外だってのはさっき分かったんだ」

「そうなんかー。じゃ、連絡するには家電しかないんだね」

「……そうなるね。ところで、戸板に行く計画は立てたの?」

「それがね……」


 電話口で園田さんが憮然としてる様子が、すぐに分かった。


「公共交通は戸板まで通ってないし、タクシーも交渉したけど絶対イヤだって言われたし。交番で場所を聞いて歩いて行こうと思ったら、自殺願望だと思われて、危うくしょっぴかれるところだった」


 ぎゃははははっ! 申し訳ないけど、電話口で爆笑させてもらった。


「……ひーひーひー、ああ、腹痛い。力いっぱい笑わせてもらったわ」

「そんなに爆笑しなくても!」

「……ま、現地までの足のこともあるけど、斎藤さんの都合をちゃんと確認しないとまずいよ。押しかけて不快感を持たれたら、元も子もないでしょ?」

「うーん、それもそうね。分かった。今日は諦める。松木くんは、今日どうするの?」


 一瞬、言おうか言うまいか迷ったけど、みどりの件は伏せることにした。


「……ちょっと母さんに頼まれごとがあって、今日いっぱいはここから動けないんだ。夕方にでもまた電話をくれる? 明日以降のことはその時に話しよう」

「分かった。じゃ、今日はこれから町内をぶらぶらしてみるね。せっかく観光地に来たんだし」

「……うん、楽しんできてよ。じゃ、また」


 僕はほっとして電話を切った。


「……取りあえず、鉄砲玉はまだ発射されてなかったようです」

「園田さんて、そんなに無鉄砲なの?」

「……そりゃあ、もう。正面突破、当たって砕けろがモットーの人だからね。障害が大きければ大きいほど燃えるんだもん。巻き込まれる方は大変さ」

「へえー」

「……でも、菊枝叔母さんには随分気に入られてるんだよ。分かるでしょ?」

「あ、なーるほど」


 僕は話を元に戻す。


「……母さん、みどりのことだけど、これから下見に行ってくるよ」

「行ってくれる? 助かるわ。どのくらいかかるの?」

「……峠下まで行けば、そこからは子供の足で一時間半くらいだった記憶がある。今の僕の脚力なら、片道一時間かからないと思うから、今日中に行って、帰ってこれるだろ」

「道は本当に覚えてるの? 大丈夫?」

「……万が一のことがあるから、目印は付けながらいくよ。カラーテープをもらってくね。あ、それから軽を借りるよ」

「分かったわ。くれぐれも無理をしないようにね」

「……はいな」


 僕は軽の箱バンの鍵を受け取ると、デイパックに水と軽食、お菓子類などを適当に詰めて車に乗り込んだ。


「……じゃ、行ってくる」

「気をつけてね」


 心配そうに、母さんが手を振った。


◇ ◇ ◇


 軽は、僕がさっき汗まみれで行き来した丘への道をすいすいと上がる。

 丘を越えて下りていくと急激に道が細くなる。小さい栗林を抜けると、道は左に折れ曲がり、急にきつい上り坂になる。そこから先は……森の胎内といってもいいかもしれない。果てしなく続く樹林を貫いて延びている細い道。

 バスが廃止になってからは、道路の整備も手抜きされているようだ。あちこちに深い轍がある。時々、太い木の根が血管のように道路を横切っている。悪路にハンドルを取られないようにして慎重に進む。


 大曲りと呼ばれる長い上り道を登り詰めると、そこが最初の峠だ。峠といっても道の両脇に大きな楢の木が立ち並んでるので、見通しは利かない。でも、急坂を息を切らしながら上がってきた軽には、ちょうどいい休憩場所だ。

 峠を抜けると今度はしばらく下り道になる。降り切ったところが柵止という谷で、そこには大きな沢が流れている。沢は深いV字谷の底にあるので、水音は聞こえていても、流れる様子は車からは見えない。微かに舞い上がっている霧のような水しぶきが、フロントガラスを冷やす。


 沢にかかる橋を渡ると、そこから峠下のバス停跡まではだらだらした上り坂になる。このあたりは中西という集落があった跡なので、背の高い木がなく、木立の茂り方も控えめだ。それまでより少し明るく感じる。この集落はもともとわずか数戸しかなくて、僕がまだ中学生の時に完全に無人になった。峠下のバス停は中西の集落のためのものだったけれど、無人になった時点で利用者はいなくなった。……ただ一人、みどりを除いて。


◇ ◇ ◇


 店を出てから二十分たらずで、峠下のバス停跡に着いた。木陰に軽を停めて、車を降りる。無闇に園田さんを追って歩いてこなくてよかった。徒歩なら完全にへばっていただろう。思ったよりも早く着いたなあ。一休みしようかな。


 デイパックを下ろして、バス停近くの桂の大木の下で仰向けになる。薄緑色の淡い光がちらちらと顔にかかる。土の匂いの混じった涼風が、時折僕を通り抜けていく。腕を頭の後ろで組んで、目を瞑る。


「……そういえば。僕はなぜ帰らなければ、と思ったんだろう?」


 向こうを出る時も、列車の中でも、ずっと疑問のままだったこと。帰るつもりはなかった木馬野に、どうして僕は帰ってきたんだろう?


◇ ◇ ◇


 僕は、小さい時からのんびり屋だった。一人っ子だったから兄弟間の競争とは無縁だったし、子供が少ないのどかな田舎の環境では、友達にあえて強い自己主張をぶつける必要もなかった。ほとんどケンカらしいケンカをしたことがない。

 外を走り回るよりも、本を読むのが好きだった。外で遊ぶのがイヤなわけじゃない。単に、同じ年頃の子が少なくて、機会が多くなかっただけ。誰かに合わせるという必要がなかったから、こんなマイペース人間になってしまったんだろう。


 僕は、自分では温和で普通の性格だと思ってる。人嫌いでも、シャイなわけでもない。でも……受け答えの間が悪くて、ぎくしゃくした会話。口数が少なくて、ノリの悪いやりとり。それに僕には押し黙って考え込む癖があるので、陰気だと思われることが多い。無口で、退屈な、分からない人っていうのが、一般的な僕への評価だろう。

 その割には、集団の中でひどく孤立したことはなかった。勉強もスポーツもそれなりにこなすし、頼まれごとはあまり断らない。便利な人、都合がいい人、というのも僕の看板の一つかもしれない。


 僕の口が重いのには、性格の他にもう一つ理由がある。

 僕にはなぜか、周囲の人の秘密が見えてしまう。その人が隠していること。隠したいと思っていること。例えば過去にあった嫌な出来事とか、悩みとか、秘かな感情や意図とか。それが知りたいと思わなくても、僕の中に勝手に流れ込んでしまう。

 でも僕は、他人の秘密の洪水に溺れるわけにはいかない。僕が実際に自分の五感で感じたことと区別するために、いつも自分で自分の文章をチェックしてから口に出す。だから、どうしても僕の会話はワンテンポ遅くなる。本当はそんな面倒なことはしたくない。だから、自ずと口を開くのが億劫になる。


 自分では制御できない力。それを隠し通すために、僕はあえて、無口で、退屈な、分からない人という評価を受け入れることにしていた。その方がずっと気楽だったから。


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