(4)
父さんを担いで寝室に放り込み、居間に戻ると、母さんと水鳥が話し込んでいた。
「ああー、僕のいない間に何かおもしろい話をしてたんじゃないの?」
「すねるんじゃないの」
母さんが、笑いながら僕をたしなめた。
「水鳥ちゃんの、これからのことを話してたのよ」
「ふーん」
「菊ちゃんのところは、最初は達樹さんのサポートに専念していて、草木染めを本格的に再開したのは最近なの」
「うん、そう聞いてる」
「私は菊ちゃんと違って商売にする気はないけど、塗りの腕を上げて、そっちを試してみたいとは思ってるの。こうちゃんたちも、道の駅で私の作品を見たんでしょ?」
「うん。すごいなって思ったんだ。でも、
「最近は研修所や共同作業場があるから、おばさんでも、年寄りでも、やる気次第でなんとかなるのよ」
「そうなんだ」
水鳥は母さんの説明を神妙に聞いている。
「でも私も菊ちゃんも、まだ自分は駆け出しだと思ってる。まず、自分が製作を楽しんで、自分が納得できるものを作るのが先。早くプロになろうと思い込み過ぎない方がいいって言ってたところ。いつまでにって期限はないんだから」
母さんは、水鳥に向かって微笑みかけた。
「ま、焦らないことね」
水鳥は、ほーっと息をついた。
「わたしね……。いろいろあったけど、ここに来て本当に良かった」
水鳥はきちんと正座して、母さんに向き合った。
「お母さん、わたしはここに来て初めて、自分を素直に見つめることができた気がします」
「あの……。山の中で一人ぽっちになって。自分の持ってるものが、知識も力も意思も何一つ役に立たないことに打ちのめされました。こうちゃんが迎えに来てくれるまで、自分の小ささに怯えて気が狂いそうでした。その時に、自分ってなんだろうって強く思ったんです」
「斎藤さんも、木下さんも、生きるっていうことに齧りついていました。こうちゃんも、そう。菊枝さんも、お母さんも、自分がどうあるのかを考えてる。でも、わたしは……。わたしは……。自分を高める、目標に近づくって言いながら、本当は誰かに自分を認めてもらいたかったんじゃないかって。それしかなかったんじゃないかって」
水鳥は俯いた。
「わたし自身は、やじろべえみたいにふらふら不安定なのに……」
泣いているのかな、と思った。でも、さっと顔を上げた水鳥は笑顔だった。
「だから、わたしは自分を探してみようと思います。こうちゃんはわたしを見てくれる。こうちゃんも自分を探してる。寄りかかるんじゃなく、お互いに支え合うことで真直ぐに立てるんなら、それはすごく素敵なことだと思うんです」
母さんは終始無言で、にこにことそれを聞いていた。そして水鳥の言葉が終わると、静かに言った。
「人生にはね。始まりはあるけど、終わりはないの。だから歩き続けて。何があっても。私にはそれしか言えない。まあ、田舎のおばさんが、なんか変なことを言ってたと思ってちょうだい」
そして、ふっと立ち上がると、納戸の方に歩いて行った。僕と水鳥が顔を見合わせていると、母さんは薄紙に包まれたものを持ってきた。
「水鳥ちゃん。これは私からの贈り物です。受け取ってね」
水鳥がそれを開くと、中から鮮やかな赤紫色のショールが出てきた。それは、あの展示会に出品されていた徳子さんの作品だった。水鳥は茫然とそれを見つめていた。
「徳子さんの遺品になったわね……」
……。
「前に徳子さんが店に来た時に、これを持ってきたの。私にこんな派手なのは似合わないから、花枝さん使ってって。でも、私が持っていてもしょうがないわ」
母さんは、それを水鳥に差し出しながら言った。
「水鳥ちゃん。ここに徳子さんの人生が詰まってる。水鳥ちゃんはこの染めを復元できても、込められた想いまでは絶対に再現できないの。だから……。染めではなく、それを見つめてね。そして。それは飾らず、しまい込まずに、必ず身につけて使ってね。それが徳子さんの願いだから」
水鳥は、無言でそれを抱きしめていた。その顔はほとんど泣き笑いだった。
◇ ◇ ◇
母さんが就寝し、僕ら二人が風呂から上がって居間に戻った時には、もう十一時を回っていた。
「……もう。明日帰ってしまうんだね」
水鳥がぽつりと言った。
「そう。明日」
僕もぼそっと答えた。
「休もう」
「そうね」
僕らはそれぞれの寝室に向かった。
僕は自分の部屋に入ると、灯りをつけずに窓を開けた。黒い山塊に塗りつぶされた空間の上端に、わずかに星が見えた。ひやりとした空気には木香が混じり、遠くでフクロウの鳴き声が幽かにたなびいている。
三日間……。そう、たった三日間の出来事だったんだ。掃いて捨てるほどある平凡な日々の中に、なぜか詰め込まれた濃密な三日間。いろいろな運命が、始まり、変わり、係り合い、幕を下ろした。そして、僕らの未来をも大きく変えようとしている。
僕は、ここに来る時に列車の中で抱えていた疑問を、闇の中で問い返す。
僕は、どこにいるんだろう?
僕は、どこへ行くんだろう?
それは僕だけでなく、水鳥も、そして誰もがみんな不安として抱き、迷うこと。そして、追い求めていくもの。その問いに答えを求めようとすることは、無駄なのかもしれない。でもそれが、僕らが生きている、生きていくということなんだ。
ふと気がつくと、横に水鳥がいた。
「あれ? いつの間に?」
「眠れなくて。側にいていい?」
「いいけど」
浴衣姿の水鳥が、窓際に僕と並んで立った。かすかに石鹸の匂いが漂ってくる。
「静かだね。窓を開けているのに、ほとんど音も光も入ってこない」
「そうだな。まるで暗闇の中に二人だけ取り残されてるみたいだ」
水鳥は僕を正面に向けると、ふわっと抱きついた。
「こうちゃん。わたしね……。すごく弱いのかもしれない」
「え?」
「さっきね、お母さんに話したでしょ。自分を探すって」
「うん」
「本当はね。自分の足で立つって言いたかったの。でも、どうしてもそう言えなかった。もう、こうちゃんに助けてもらうことを前提にしてる」
「……」
「それをね。お母さんに見透かされているような気がして、恥ずかしくてしょうがなかったの」
「そうか……。でも」
僕も水鳥の背中に手を回して、抱きしめた。
「母さんが言ったじゃない。焦るなって」
「うん」
「僕らは絶対に独りでは生きられない。自分が立つために、誰かの手助けが必要なんだ。僕らも、誰かが立つのを支えなければならない。僕の両親も、水鳥のご両親も、菊枝さんのところも、そうやって支え合って、自分の居場所を作ってるんだ。支え合うことと、依存することは違う。それを分かってる限りは、水鳥が自分を見失うことはないよ」
「ありがとう」
僕に回された腕にぎゅっと力が入る。薄い生地を通して、水鳥の温もりが伝わってくる。
「わたしね。こうちゃんと知り合ったのは、絶対に偶然じゃないと思ってる。わたしが染めに出会ったのと同じように、こうちゃんとの出会いもわたしの人生には必然だった。この三日間でそれを確信したの。だからね」
「だから?」
「わたしを絶対に離さないでね。お願い」
水鳥は僕の胸に顔を埋めた。
「離さないよ。誓う」
「ほんとよ」
「うん」
僕らは窓際で長い口づけをした。三度目の。誓いのための口づけ。
夜風が冷たくなってきた……。名残惜しそうに水鳥が離れる。僕は窓を閉めた。
水鳥は自分の部屋に戻るのかなと思ったけど、そのまますぽんと僕の布団の中に入ってしまった。
「一緒に寝ちゃ、だめ?」
「うー、健全な成人男性には、それは拷問です」
「いや、してもいいかなって思ってるんだけど」
!! 大胆な。
「みぃどぉりぃー。このくそ静かな和風家屋で狼藉を働いたら、どういう事態になるか分かるだろうが」
「ええー、でも静かにやれば、なんとか」
「ちょっと立ってみぃ?」
僕は水鳥を布団から引きずり出して立たせると、へその辺りをぽんと触った。その途端、水鳥はひゃっと声を立てて後ろに跳び退った。
「ほら。無理すんなって。こんな形で、急いで絆を確かめる必要はないよ」
「むー。だって、わたしはつるぺただし、なんか女の子としての魅力に乏しいっていうか……」
んー、かわいいやっちゃ。
「あのね。男はね。好きな女の子にはいつでもどこでも欲情できるの。容姿やスタイルは関係ない。好きになったのは外見じゃないんだからさ」
「でもぉ……」
「さあ、寝た、寝た」
「ぶー」
僕に背中を押されて、水鳥はしぶしぶ客間に戻った。据え膳食わぬはなんとかってのが脳裏をかすめたけど、考えないことにしよう……。
……最後まで、慌ただしい三日間だったなあ……。
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