(3)
その時……。
「お二人さん」
いきなり声を掛けられて、僕らは爆発したように慌てて離れた。
「日も高いうちから、お盛んでございますな」
「ひょえー!」
いつの間にか背後に母さんが立っていた。僕らは二人とも、茹でだこのようになっていたに違いない。
「いいのよいいのよー。それは、若い二人には当然のことなんだからー」
母さんはにやにや笑いながら、僕らの前に座った。
「ああ、そうだ。こうちゃん、水鳥ちゃん、これからの予定は?」
「あ、母さん。僕は明日早めに向こうに戻るよ」
「え? もう帰るの? ゆっくりして行けばいいのに」
「いや、僕は向こうに戻ってから、やらなきゃならないことがたくさんあるから。母さんたちも、徳子さんや木下のことでしばらく忙しいでしょ。なに、また暮れに来るよ」
母さんは、最後の僕の言葉がすごく意外なようだった。
「こうちゃん、父さんとは仲直りしたの?」
「え? 僕は最初から父さんと喧嘩なんかしてないよ」
「うそ。あれだけ激しくやりあってたのに」
「父さんは僕を心配したから怒ったんだって、分かってたもん。あの時は、僕に受け止める余裕がなかっただけさ」
「ふうん……。そう」
水鳥は僕らの会話を静かに聞いていた。そして、にこっと笑って言った。
「いいですね。親子の会話って」
「え? 水鳥ちゃんのところでも毎日してるでしょ?」
「ええ。でも普段は意識することないから。うちの親子の会話はどうなんだろうって、思っちゃいました」
「あら、そんなこと」
母さんは、水鳥の目を見て微笑んだ。
「こんな素晴らしい娘さんを育てたご両親ですもの。ご家族でどんな会話があるかは、すぐ想像できるわよ」
「ええっ? どんな?」
「普通の会話よ。それが一番大事なこと」
僕らの目の前で、母さんがひょいっと指を振った。
「会話で意思を確かめる。愛情を確かめる。言葉にしなきゃ分からないことは、たくさんあるから。それが自然にできる家庭は、簡単には壊れないの」
そして今度は、僕に確かめるように問いかけた。
「そうでしょ? こうちゃん」
「うん」
僕はもう一度深く頷いた。
「うん!」
それは母さんが、僕ら二人の将来に向けて送ったエールなんだろう。隠すな、話し合え。何があっても、二人で解決しろ。僕はそう受け止めた。
母さんが水鳥の予定を聞いた。
「水鳥ちゃんはどうするの? もう少しこっちにいる? それとも、こうちゃんと一緒に帰るの?」
水鳥は少し考え込んだあとで、ぽんと笑顔になって答えた。
「木馬野っていいところですね。わたし、もっとここのことを知りたい気がします。でも、わたしはせっかちなので、駆け足で見て回りそう。中途半端に分かった気になってしまうかもしれない。だから、こうちゃんと二人でまたゆっくりお邪魔します」
母さんはそれを聞いて、すごく嬉しそうだった。
「木馬野を気に入ってもらえてよかったわ。ぜひ、またいらしてね。そして……」
僕らは母さんが次に何を言うのか、固唾を飲んだ。
「いつかは、二人で木馬野に住んでもらえると嬉しいわ」
……。
「私たちは長く木馬野にいるから、ここが空気みたいになってしまってる。外の人の新鮮な視線があると、私たちもここを見直せるの。いいところだからこそ、私はここを無くしたくないの」
母さんは辛そうに僕の方を向いた。
「戸板のようにね」
しばらく沈黙が三人を包んだ。
ふと、母さんが何かを思い出すように言った。
「ああ、そうだ。水鳥ちゃん。ご両親には私から連絡を入れておきました。今回はしょうがないけど内緒はだめよ。ものすごく心配されてたわ」
そうだ。昨日母さんに頼んで、水鳥の実家に電話を入れてもらったんだった。ほんとは一日に連絡するはずだったけど、その日は水鳥を連れ戻すので手一杯だったから。水鳥は青菜に塩の状態になった。帰るのが憂鬱になったに違いない。僕は助け舟を出した。
「水鳥、向こうに着いたら僕も一緒にお宅に伺うよ。共犯者として、ちゃんと謝罪しないとね。今後のこともあるし」
母さんは、僕がそう言うことを予測していたに違いない。
「水鳥ちゃん、心配ないわ。こうちゃんのフォローは強力よ。このボケにはなかなか突っ込めないはずだから」
……それは、ちょっと、違う、気が、する、けど。
◇ ◇ ◇
夕方になった。父さんは早めに店を閉めて、蕎麦打ちの準備にかかった。頭に鉢巻を締め、作務衣に前掛けといういでたちで、颯爽と僕らの前に現れると、嬉しそうに宣言した。
「久しぶりの蕎麦打ちだ。腕がなまってるかもしれんが、それは勘弁な。それといつもは台所で打つんだが、今日は母さんに無理を言って居間を使わせてもらうことにした」
母さんが、しょうがないわねという顔をして笑っている。
「幸助からリクエストがあったのは、本当に嬉しかったよ。私たちにとって蕎麦打ちは生活の一部だ。何も特別なことはない。でも、私は今回の件で自分の足下を見る機会をもらった。それに深く感謝して、心して蕎麦を打とうと思う」
父さんはそう言うと、ゆっくり僕の方を向いた。
「幸助」
「なに? 父さん?」
「私が蕎麦を打つのをよく見ておいてくれ。そのために場所をこっちにしたんだ」
父さんは静かに言い継いだ。
「当り前のように出会いがあれば、その数だけ別離もある。どちらも私たちにはその時を選べない。おまえがここを出た時には、こんなのはいつでも見せられるだろうと思っていた。でも、徳子さんは逝った。そして日生染めは絶えた。私はこんな思いは繰り返したくない」
しばらくの沈黙のあと、父さんは微笑んだ。
「私が見せたいのは技術じゃない。私が蕎麦を打つという姿だ。その味、その想いを、少しでも見て、味わって、そして憶えておいてくれればありがたい。残念ながら、蕎麦の新粉が出るにはもう少しかかる。味は保証できないが、一所懸命打たせてもらうよ」
さあ! 父さんはおもむろに立ち上がると、大きな朱塗りの練鉢に蕎麦粉を入れ、それに何か白い粉を足した。
「父さん、つなぎは小麦粉?」
「うふ。ひ・み・つ」
それは僕がただ一度っきり聞いた、堅物の父さんのギャグだった。よほど嬉しかったに違いない。
水を注ぎ、まとめ、菊練り、へそ出しと、手際よく仕上げていく。玉を伸し台に移し、打ち粉を振りながら延ばす。伸し棒の下で見事な真円に延ばされた生地は、角だし、本のしの後で素早く畳まれ、蕎麦切り包丁の軽快な音とともに、お馴染みの麺の形に切り離された。
この頃にはもう、母さんが台所で釜の湯を沸かして待ち構えていた。夏野菜や川魚の天ぷらも揚がって、つゆやわさび、刻みネギも準備万端。切り分けられた麺を母さんが釜に入れていく。茹で上がった麺を手早く冷水で洗い、締める。
「さあさ、伸びないうちにいただきましょう」
朱塗りの大きな角皿にどっさり盛られた蕎麦。一斉に箸が伸びる。
あああああっ、うまいーっ、たまらん! 香りといい、のど越しといい、歯応えといい、どこの有名店にも絶対に負けない。水鳥の方を見ると、目がマジだ。まだ口に蕎麦が入っているのに、次の麺を小鉢に山盛りにしている。やっぱり……。食いしん坊はおまえだ、水鳥……。
父さんは、自分が作った蕎麦が残らずみんなのお腹に入ったのを見て、大いに満足したらしい。きれいに片付いた座卓から、母さんに声を掛けた。
「母さん、あれを持ってきてくれるか?」
「……あ、はーい」
台所から母さんが返事して、何やら瓶を持ってきた。
「おい、幸助」
「なに?」
「一杯やらんか?」
僕はびっくりした。父さんはとても酒に弱い。全く飲めないと言ってもいい。僕も決して強い方ではないけど、父さんほどではない。
「本町の松崎んところから、日本酒の新商品の試飲を頼まれたんだ。おれは飲めないと断ったんだが、誰か飲める人にでも渡してくれと無理やり押し付けられてな」
「へえ、でもきれいな瓶じゃない」
「女性向けの商品として売りたいんだそうだ」
「父さん、大丈夫なの?」
「口をつけるくらいならな。息子がいるなら、一度くらいは親子酌み交わしてというのをやってみたいじゃないか」
「ははは。そういうことね」
僕は笑ったけど、父さんの気持ちがとても嬉しかった。父さんがまた母さんに声を掛ける。
「母さん、猪口を四つ」
「え?」
「水鳥さんと、母さんにも手伝ってもらおう。おれと幸助だと、一秒で終わってしまうからな」
うん。確かにそうだ。
洗い物を終えた母さんと水鳥が居間に戻ってきた。かわいらしい瓶の口を切ると、ほのかなアルコールの匂いが漂った。乾杯の前に、父さんが確認する。
「水鳥さんは、お酒は大丈夫かい? 私のようにほとんど飲めないということもあるから、無理しないようにな」
「わたし、ザルです」
「えっ?」
水鳥の言葉に、僕と父さんが同時に驚いた。
「九州には、男女の境なくお酒に強い人が多いんですよ。わたしもその口」
「なるほど。地域性もあるのか」
父さんが何気に感心していた。
木製の猪口に少しずつお酒を注ぎ、父さんが乾杯の音頭を取る。
「明日、発ってしまうんだな。寂しいが、ぜひまた二人揃って顔を出してほしい。それでは、水鳥さんと幸助の今後の幸福を祈念して。かんぱいっ!」
お酒は日本酒らしからぬほのかな果実香がして、とてもおいしかった。へえ……。感想を言おうと思って父さんの方を見たら……すでに潰れていた。
は、はやっ!
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