第七章 前を向いて
(1)
昨日の疲れもあって、目が覚めた時にはもう九時をかなり回っていた。着替えて居間に行くと、母さんは店に出ていて、水鳥がぼんやりテレビを見ていた。
「……おはよう」
「おそよう」
「……さすがに、疲れてて早起きできなかったなあ」
「いいから、早くご飯食べて」
水鳥は立ち上がると、台所から一人分の朝食セットを持ってきた。
「……いただきます」
水鳥は、食べ始めた僕の向かいに頬杖をついて、じっと僕の顔を見つめている。
「……何かついてる?」
「いや、わたしってこうちゃんのいろんな食事シーンを見てるなあと思って」
「……確かになあ。最初も、それからあとも学食で話することが多かったし、クリスマスの時は叔母さんちでケーキ、そのあと水鳥んとこの店でランチ、だもんな」
「わたしたちって、食いしん坊なんだろか?」
「……わたしたちの中に僕は入れないでね」
「ぶー」
横を向いてむくれた水鳥は、ぱっと僕の方を向くと、笑顔で言った。
「ずっと見ていたいなっ!」
あー、かわいい。かわいすぎる。僕は箸を置くと、手を伸ばして水鳥の頭をぽふぽふ撫でた。
「んにゃん」
「……猫かい。全く」
朝食を手短かに済ませて、母さんに声を掛ける。
「……母さん、病院に行ってくるね。何か持っていくものある?」
店の奥から母さんが声を上げた。
「タオルと保険証。あと、現金も多めに持って行ってちょうだい。もしかしたら手続きが必要になるかもしれないから」
「……分かった」
僕は手早く荷物をまとめると、軽で病院に向かった。水鳥が僕に聞いた。
「面会できるかな?」
「……そのくらい回復してくれてるといいんだけど」
「もし話ができるようなら、木下さんに何を聞くの?」
「……本当に僕を呼んだのかどうか。その一点だけ聞きたいんだ」
「ふーん。それを知ってどうするの?」
「……僕がここに来る時に背負ってきた疑問が全部解けて、すっきりする。それだけだよ」
「そっかあ」
病院の駐車場に車を停め、荷物を持って病院に入る。受付にいた看護師さんに、みどりの容態を聞いてみた。
「木下みどりさん、ね。昨日のうちにICUを出て、一般病棟に移られました。なんかものすごい回復力で、先生もびっくりしたみたいですよ」
「……ええっ? 昨日は衰弱がひどくて、しばらく絶対安静だって言ってたのに?」
「夜中にね、お腹が空いたって騒ぎ出したの」
看護師さんが、くすくす思い出し笑いしている。
「で、先生がそんな元気があるなら大丈夫って、さっさと一般病棟に連れてっちゃったんですよ。ちょうどICUでの対応が必要な患者さんが運ばれてきたところだったし」
「……はああ。さすが山婆みどりだ」
「こら! そんなことを言うと殴られますよ?」
でも、目は思い切り笑っている。
「……面会できるんですよね?」
「もちろん。でも、長時間のお見舞いは避けてくださいね」
それを聞いてほっとした。
病室のドアをノックすると、どうぞーと小さな声がした。二人で病室に入ると、患者服に着かえてこざっぱりしたみどりが、上半身を起してこちらを見た。さすがにやつれて疲れた様子だけど、昨日のような鬼気迫る雰囲気は消えて、すっかり生気が戻っている。
「こうちゃん?」
「……昨日は大変だったな」
「助けてくれたんでしょ? ありがとう」
「……みどりに呼ばれた気がしたんだ」
「そう……。確かに呼んだかもしれない」
一瞬の沈黙があって、みどりは視線を外した。そして呟いた。
「おばさん、やっぱり駄目だったんだね」
「……うん。誰かに聞いたの?」
「先生から。これから遺体搬送して、検死だって言ってた」
「……そうか」
ここで、僕の後ろに隠れるようにしていた水鳥が、ぴょこっと僕の横に出た。
「あの……。園田です。昨日こうちゃんと一緒に、木下さんを探しにいったんです。元気そうで良かったです」
「あ、車でわたしに付いていてくれた人かな? 本当にありがとう。おかげで、わたし助かりました」
みどりはにっこり笑って会釈した。そこまでは良かったんだけど、ひょいと僕の方を向いて小指を立てた。
「えーと? こうちゃんのコレ?」
なんじゃい。もうそのノリか。心配して損したよ。
「……うん、そう。昨日から」
「あっちゃー、タッチの差かあ」
「……何をほざきやがる」
「ふふふ」
みどりは意味ありげに笑うと、水鳥に軽く頭を下げた。
「こうちゃんをよろしくね」
みどりは、その笑みを消して僕に言った。
「こうちゃん。わたしはやっと『帰せた』わ。こうちゃんも、そろそろ『帰した』方がいいと思う」
具体的にそれが何を意味するか分からなかったけれど、僕にはある確信が宿った。
そうか。僕は解放されるのか。それがいいことなのか、何かを失うことになるのか。それは、分からないけれど。
「……僕のは、もしかして
「たぶん。こうちゃんがそう思うなら、そう」
「……分かった。ありがとう」
僕はそう言うと、水鳥を促して病室を出た。出がけに、みどりにもう一度声をかけた。
「……退屈だろうから、誰かを見舞いにこさせるよ」
「もう、しばらくそっとしといてよ。病人なんだから」
「……どーこが病人じゃ。夜中に腹減ったって騒げるなら、すぐ元気になるさ。じゃな。お大事に」
「こらーあっ!」
みどりは、閉めたドアの向こうでまだ何やら怒鳴っている。あんだけ元気なら、もう心配ないだろう。僕が病室のドアを閉めると、水鳥が不思議そうな顔をして、僕に小声で聞いた。
「本当に昨日の人? なんか全然イメージが違うんだけど?」
「……いや、昨日の方がイメージが違うんだ。今日のが、本来の木下だよ。幼馴染みなのに、僕と距離が開いたわけが分かるだろ? 本当は僕の苦手なタイプなんだ」
僕は苦笑いの後で、言い足した。
「……でもね。これから木下は『戻って』いってしまう。幼いころの、内気で寂しがり屋のみどりに」
「??」
「……だから、リョウをけしかけるつもりなんだ」
「リョウって?」
「……佐川良太。通称リョウ。僕の高校の頃の一番仲の良かった友達さ。今は本田市の教育大に行ってるんだけど、ここに着いた日に久し振りにばったり出くわしたんだ」
「どんな人なの?」
「……おしゃべりで、おおらかで、くよくよしない。あいつは、僕の妙な力のことに気づいていながら、それを笑い飛ばした唯一のやつなんだよ。僕はあいつがいたから、なんとか高校生活を送れたんだ」
「ふーん」
「……あの時の僕と同じように、これから木下にもそういう屈託のないやつが絶対に必要になる」
僕はポケットから車の鍵を出すと、それをくるくる回しながら水鳥に言った。
「……行こう。ちょっと寄りたいところが一か所増えた。そんなに時間はかからないから付き合って」
「いいけど、どこへ?」
「……的矢神社っていう、ちっちゃな神社。境内が崖からせり出してるからちょっと怖い感じがするけど、このあたりではよく知られた由緒ある神社だよ」
「へえー。何かお目当てがあるの?」
「……うん。崖の端に大きな檜の老木があって、それが御神木なんだ。僕が子供の頃は、崖沿いで危ないからって周囲にロープが張ってあって近寄れなかったんだ」
「あ、それを見たいってことね。ここから近いの?」
「……うちの裏山さ」
「こうちゃんの遊び場だったの?」
「……ご明察ー」
車に乗って、原井に戻る。店の裏手に車を置いて、店には戻らずに裏山への道を上がった。水鳥がびっくりしていた。
「本当に近いんだね。まるで松木家専用神社みたいじゃない」
「……昔はこの一帯全部が松木の敷地だったらしいから、ありえないことじゃないかもね」
ゆっくり石段を上がると、そこに小さな神社が現れた。
狭い境内。社殿とは反対側に、岩にへばりつくようにして大きな檜の木が生えている。懐かしいなあ。
「……今はもう立入禁止のロープもなくなったんだなー。そんだけ子供がいないってことなんだろうけど」
近寄って、御幣を巻きつけてある幹に触る。僕の頬を擦って、さあっと風が通り抜ける……。
「さて、戻ろうか」
「え? まだお参りしてないよ?」
「いや、この木が御神体だから。もうお参りは済んだよ」
水鳥が慌てて木に向かって手を合わせ、目を瞑る。
「こうちゃんと、ずっといられますように。こうちゃんと、ずっといられますように。こうちゃんと、ずっといられますように」
「ありがとう。嬉しいよ」
僕は水鳥の肩を抱いて、並んで石段を下りた。清々しい気分と、寂しい気分と。みどりは、この時をどういう気持ちで迎えたのだろう?
石段の途中で立ち止まって、後ろを振り返る。二十年間。たった二十年だけど、僕にとってはいろいろなものがぎっしり詰まった二十年。
今まで、持っていてくれてありがとう。そして、持っていってくれてありがとう。僕はもう大丈夫。後ろを見るのは、本当にこれで最後にする。だから……。ありがとう……。
じっと後ろを振り返ったままの僕を気にして、水鳥が僕の前に回り込んだ。
「どうしたの?」
「……」
僕は、いつの間にか涙をこぼしていたらしい。自分では全く気づいていなかったけど。水鳥は指を伸ばして、僕の目尻の涙を擦った。
「いや、なんでもない。なんでもないんだ」
「でも……」
「行こう。昼近くになると道の駅は観光客で混み合うから、早く行った方がいい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます