(2)
再び峠下のバス停に車を止めて、沢伝いに奥に入る。
沢の奥で左手の斜面を上がり、田神原の作業道に出て、それを右手にずっと上り詰めると三叉路に出る。一番細い右の道をさらに尾根伝いに辿ると、五百メートルほど行ったところで急に道がなくなる。
「……父さん、ここから急に道が悪くなる。足元に気をつけてね」
「分かった」
行き止まりの左手に枯れた檜の大木があり、その手前から急斜面を削ぐようにして、細い道が長く下に続いてる。斜面を降り切ったところで沢を渡り、今度は反対側の斜面をジグザグに上がる。ここもすさまじい急傾斜だ。僕も父さんも息が切れていたけど、そんなことは言っていられない。
斜面を上がりきると、そこから右手にまた尾根伝いの細い道が続いている。みどりの住んでいた小屋は、そのどん詰まりにあった。
「はあ、はあ、はあ。幸助、よくこんな道を覚えてたな。はあ、はあ」
「……ふう、はあ、ふう。自分でもよく分かんないんだけど、なぜかね。ふう」
みどりは病院にいるから、この小屋は無人だ。覗いてみたけど人の気配はない。小屋の周辺にもやはり人影はない。だけど、僕は何か奇妙な感覚を覚えた。それは小屋の裏手の、崖のような急斜面の下から立ち上っていた。
斜面の下を覗き込むと、谷筋にとても大きな檜が一本立っていて、どうもそのあたりからのようだ。
「……父さん、こっちに何かあるような気がする」
父さんは僕の近くに来て、谷底を覗き込んだ。
「降りて……みようか?」
「……うん」
急斜面を這うようにして降りていく途中で、土が縦に長く剥がれて落ちている跡を見つけた。まだ新しい。嫌な予感がまたよぎる。
沢まで下りきると、大木の根元に何かの塊が見えた。それは……口から血を流して倒れている徳子さんだった……。
僕はその場に立ち尽くしていた。父さんもしばらく茫然と見下ろしていたけれど、徳子さんに近寄ると、首に手を当てて脈を確かめた。しばらくしてゆっくりと首を左右に振った。
「亡くなっている。警察を呼ぼう。うちらで運び出すのは無理だ。人を出してもらわないと、どうにもならない」
「……」
父さんは静かに徳子さんの亡骸の側を離れると、両手を合わせて目を瞑った。僕は、涙が溢れて出てくるのを止めることができなかった。
昨日、今日。なぜ、こんなに僕の周りが一遍に動くのだろう。
生と死。
安定と変化。
日常と怪異。
大学にいた時にはごく緩やかにしか動かなかった僕の運命の輪が、今ぎぃぎぃと凄まじい音を立てて回っている。
◇ ◇ ◇
戻り道、父さんと二人で目印をつけながらゆっくり歩く。父さんは何度も何度も溜息をついていたけれど、立ち止まってぼそっと言った。
「幸助、今幸せか?」
いきなり何を言うんだろうと思ったけど、素直に答える。
「……うん。幸せだよ」
「そうか……」
父さんの表情がふっと緩む。
「おまえ、園田さんのこと、好きなのか?」
「……うん。好きだよ。言葉にしちゃうと安っぽいけど、それじゃ足らないくらい」
「園田さんは?」
「……うん。僕を好きだと言ってくれた」
「相思相愛、か」
父さんは嬉しそうに微笑むと、僕の方を見ずに言った。
「大事にしろ」
「……園田さんを?」
「いや、園田さんも、だ」
「……え?」
「人を好きになる、人を愛するってことは、自分を信じ、自分を好きにならないとできないんだ。幸助はどうもそこんところが危なっかしかったから、心配してたのさ」
さすが僕の父さんだ。図星だ。
一つの命が消えた日。僕は一つのつながりを手に入れた。そのつながりの重さを確かめながら、これからしっかり歩いて行こう。
車に戻った頃には、かなり日が傾いていた。たそがれた男二人を乗せて、軽は暮色の濃い山道をとことこと下っていく。
◇ ◇ ◇
店に戻ると、父さんは警察に連絡をした。
警察では一応事件の可能性もあると見て、明日県警から数人の係員を現場に出すそうだ。道を知っている僕か、父さんの同行を要請されたけど、僕は疲れていたので、父さんに案内を頼むことにした。
午後六時過ぎ。僕は県立病院に戻った。
集中治療室の近くのベンチに、母さんと園田さんが所在無げに座っていた。僕の姿を見て、園田さんがおずおずと声を掛けてきた。
「こうちゃん、どうだったの?」
辛かったが、言わざるをえない。
「……徳子さんね。亡くなってた」
「えっ!?」
「……みどりの小屋の裏手で。滑落して沢に落ちたらしい。うわ言のようにみどりが言ってたのは、その事だろう」
突然。園田さんが両手で顔を覆って泣き始めた。
無理もない。もう染めを教わるとか、そういう次元の話ではない。のんびりした、命のやり取りなんか全く無縁のような田舎。でも、そこにある本当の現実。深い山の中で必死に生きてきたその果てに、こんな悲しい結末が待っていることもあるんだ。
僕は母さんに聞いた。
「……母さん」
「え?」
「……みどりの様子はどうなの?」
「うん。先生の話だと、一応危機は脱したそうよ。でも衰弱が激しいので、しばらくは絶対安静だって」
「……落ち着くまでは徳子さんのことは伏せないとね」
「そうね」
母さんは床に目を落とすと、ぽたぽたと涙を零した。僕も涙が止まらなかった。
◇ ◇ ◇
病院に後を頼んで僕らが店に戻ったのは、もう七時をかなり回った頃だった。母さんはだいぶ疲れていたようで、今日は簡単に済ませるからと言って台所に行った。父さんは作次おじさんのところに行く、と出かけた。
僕は、真っ赤に目を泣き腫らした園田さんに声を掛けた。
「……ごめんね。すっかり面倒なことに巻き込んでしまって。こんなことになるのなら、君を呼ばなかった方が良かったかもしれない」
「……」
園田さんは俯いて、しばらく言葉を選んでいたようだ。そして、顔を上げて言った。
「悲しいけど、これも出会いなのよね」
ふーっと、細く長く息を吐く。そして立ち上がると僕の傍に来て、肩にもたれかかった。
「……母さんに見られちゃうよ」
「いいの。もう全部話したから」
「……そうか」
「こうちゃん。木下さん、どうするの?」
「……ん? どうにもできないよ。幼馴染みと言ったって、行き来があったのは小学生までだったし。今後のことは父さん母さんか、作次おじさんに頼むしかない」
「そう……」
園田さんは少し寂しそうに、その実ほっとしたように、組んだ手を前に伸ばして微笑んだ。
「人間って悲しいね。こんなことになってるのに、わたしこうちゃんを失うのが怖いの。どうしてもそっちを考えちゃうの」
「……うん。でも……」
「え?」
「……僕らはまだ始まったばかりなんだ。だから紡がないといけない。できたつながりが点だけだと、それはすぐに切れちゃう。だから、紡いで、編んで……。僕は園田さん、いや、水鳥とつながったことを、これからずっと深く、太くしていきたいんだ」
それは命の重さと悲しさを知った今日だからこそ、自然に出た告白だったかもしれない。
僕は彼女の顔を見つめた。そしてそっと唇を寄せた。二度目の。そして確かめるような長い口づけ。
「……さ、明日はいろいろ忙しくなると思う。僕らに出来ることはしておこう。僕は風呂を入れてくるから、水鳥は母さんを手伝ってもらえる?」
「うん、分かった」
水鳥は、ぴょんと跳ねるように立ち上がると、台所にぱたぱたと駆けていった。
◇ ◇ ◇
八時を回った頃、父さんが戻ってきた。
亡くなった徳子さんのことと、入院しているみどりの今後のことで、作次おじさんといろいろ話し込んでいたらしい。みどりだけでなく、徳子さんにも身寄りはないそうだ。父さんは、寂しいなあと、ぽつりと漏らした。
昨日と同じ顔ぶれなのに、夕食の食卓は静かで寂しかった。誰もが顔を上げず、黙々と食事をした。
遅い夕食が済んだ。母さんと水鳥が、座卓の上の食器を台所へ下げていった。洗い物をする音が聞こえる。二人きりになるのを待って、父さんが僕を呼んだ。
「おい、幸助。ちょっと来てくれないか?」
「……なに? 父さん」
「これからのことだがな」
僕が近くに座ったのを確認して、父さんは切り出した。
「木下のみどりちゃんだが、うちで引き取ろうと思う」
父さんならそう言うと思った。
「今回の件だがな。作次も俺も、この辺りの連中のことはみんな知っているつもりで、その実、何も分かってないってことを思い知らされたよ。俺らに直接責任があるわけじゃないんだろうが、胸が痛くてしょうがない」
「……うん」
父さんは頭をぼりぼり掻いて続けた。
「取りあえず、後見人ということで一切の手続きや生活上の面倒は俺が見る。だから……」
「……だから?」
「おまえはしばらく帰ってくるな」
これはまたストレートな物言いだった。だけど、父さんの気持ちはよく分かった。
「おまえは園田さんとの幸福を手に入れつつある。だが、みどりちゃんは全てを失った。人の幸福を近くで見ると、自分の不幸は割り増しされて感じるもんだ。だから、おまえはみどりちゃんの前に当分顔を出すな」
「……うん」
「おまえはまず大学でしっかり勉強して、仕事を決めて、早く生活の基盤を作れ」
父さんが顔を上げて、僕の目を見据える。僕はそれを真っ直ぐ見返した。
「おまえの生き方は、不器用だが誠実だ。俺はそう信じてる。おまえの想いが揺らがなければ、きっと障害があっても乗り越えて所帯を持つだろう」
「……うん。そのつもりだよ。もちろん園田さんが受け入れてくれれば、だけど」
「その気持ちを忘れるな」
父さんは、にっこりと笑って言った。
「幸助。大人になったな」
−=*=−
父さん、母さんが床についた後、先に風呂から上がった水鳥が居間で僕を待っていた。
「ねえ、こうちゃん。明日はどうするの?」
「……そうだなあ。とりあえず、木下を見舞ってから考えるよ。会話できる状態なら、一つだけどうしても聞きたいことがあるんだ。もちろん容態次第だけど」
「そうかあ。わたしはもうここにいる意味がなくなっちゃった。どうしようかなあ、と思って」
「……まあ昨日の今日だし、少し気晴らししていったら? 道の駅ならそんなに離れてないから案内するよ。木馬野周辺の手作り系のものが商品で出てるから、何か水鳥の参考になるものがあるかもしれないし」
「うん、そうだね。ちょっと楽しみになってきた」
僕は立ち上がって言った。
「……さて、寝よう。今日はいろいろありすぎた。水鳥も疲れたでしょ。ゆっくり休んでね。お休み」
「うん、お休みだーりん。ちゅっ」
……うーん。そう来たか。
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