第六章 運命の輪は回る

(1)

 昼は昨夜同様に四人で食卓を囲んだけれど、さすがにみんな口数が少なかった。父さんが僕に話しかけてきた。


「峠下までは軽でも行けるだろう。木下のところへは、そのあたりから入るんだろう?」

「……うん。それは昨日確認してきた」

「じゃあ、山道気をつけて行ってきてくれ。よそ様の娘さんを預かってるんだ。くれぐれも気をつけてな」

「……分かった」


 僕らはそそくさと昼御飯を切り上げると、軽に水と食料、簡単な山装備を積んだ。車のエンジンをかける。僕も園田さんも無言だった。これから何かが起きることを、覚悟していたからかもしれない。


「……行こうか」

「うん」


 車は眩しい光の中を通り抜け、咲良のバス停の先から緑のトンネルの中に突入する。昨日、徒歩であれほど難渋した道も、車での移動ならあっという間だ。


 重苦しい空気が僕らを包んでいた。口を開いたら、何かが壊れそうだった。軽は悪路で時々悲鳴をあげながら、僕らを二十分ほどで峠下のバス停に運んだ。


 車を降りる。昨日の恐怖がよみがえったのか、園田さんの顔が歪む。


「……大丈夫だよ。僕がついてるから」

「うん。お願いね」

「……じゃあ、行こう。こっちだ」


 僕は手を差し出すと、園田さんの手をしっかり握って、バス停の奥の藪をかき分けていった。


「こうちゃん、こんなところを通るの?」

「……そうだよ。沢伝いにしばらく上がると、田神原たがみはらの作業道に上がるための小道があるはず。そこから先は、僕の記憶を辿るしかない。何かあると困るから……」


 ポケットからカラフルなビニール紐の束を取り出して、園田さんに渡した。


「……これで目印をつけながら行こう。こういう場所は行きと帰りで景色が全く変わるから、下手すると僕らも山中で迷う恐れがある。園田さん、できるだけ高い所にそれを結びながら来てくれる?」

「うん、分かった」


 沢沿いの獣道けものみちはまだ明るく、わりと歩きやすかった。沢の傾斜が急にきつくなる少し手前で、左手の斜面を見る。木立の間にうっすらと、細い踏み跡が上の方へ続いている。それを確かめてから、斜面を上りはじめる。園田さんが付いてこようとしたので、制止した。


「……ちょっとここで待ってて。一度尾根まで上がって道を確認してくる。心配しなくていいよ。すぐ戻るから」


 不安げな表情の園田さんに手を振って、踏み分け道を上がる。今は木立の間を闇雲に歩いているようにしか見えないけど、ここはみどりの父や祖父が元気な頃はもっとまともな道だったはず。これはしんどい道行きになりそうだ。


 百メートルほど一気に上がると、尾根を縫うように延びる細い道に出た。あとはしばらく尾根伝いに上がっていく感じになるはず。それを頭の中でイメージして降りようとした時、木立の間に何か白いものが揺れていることに気がついた。


「……なんだろう?」


 嫌な予感がした。急いで駆け寄ると……。

 大きな楓の木の根元に、山婆。いや、そんな風に見える若い女がへたり込んでいた。長い髪は四方八方に乱れ、全身泥まみれ。白いワンピースは汚れて、あちこち裂けていた。手足も顔も擦り傷だらけで、血の気が引いて蒼白。頬は落ちくぼんで、口も目も半開きになっている。


 みどり、だった。


「……おい! おいっ!! 大丈夫か!?」


 大声で呼びかけると、かすかに反応があった。生きている! 僕は少しほっとしたけれど、危険な状態であることは間違いない。


「……おい、みどりっ! 分かるか? おれだっ! 幸助だ! 動けるか?!」

「……ば……んが……」

「……なに!? 聞こえないよ。何が言いたい!?」

「おば……ん……たいへ……」

「……いい、しゃべるな! とりあえず、降りよう!」


 僕はみどりの脇に両手を入れて立たせようとしたけど、衰弱がひどくて全く動けないらしい。背負うしかない。デイパックを一度下ろして、みどりの前に後ろ向きにしゃがみ、尻の下に手を入れて一気に持ち上げる。その軽さに驚いた。


 みどりを背負ったままでデイパックを拾い上げると、先ほどの道を少し迂回しながら降りた。谷筋で園田さんの大声が聞こえる。


「こうちゃーーん! 何があったのーっ!」


 僕は園田さんの姿が見えるところまで降りると、大声で返事をした。


「……みどりが倒れてたーっ! 今そっちに降りるからそこで待っててーっ!」


 僕の口調で事態の深刻さを察したらしい。


「何か手伝えるーっ!?」

「……いや、すぐに戻らないとヤバいーっ!」

「分かったーっ!」


 急斜面を時折りつんのめりながらも、なんとか沢筋まで戻った。園田さんは、僕の背中のみどりの様子を見て蒼ざめた。


「……一刻を争う。急いで戻ろう」

「うんっ!」


 みどりの家への道程の、一番とっ始めだったのが幸いした。逆に言えば、みどりは自分の命を削るようにして、家からあそこまで辿り着いたのだろう。何がみどりをそこまで駆り立てたのか、僕はその時には分からなかった。駆け込むようにして車まで戻ると、後部座席に園田さんの綿シャツと僕のジャケットを敷いて、みどりを横たえた。


「……園田さん、後ろに一緒に乗ってあげて」

「分かった!」

「……みどり、がんばれ! すぐ町に出られるからな!」


 耳元で声をかけると、目を瞑っていたみどりがまた薄眼を開けてうわ言のように呟いた。


「……ば……さんが……たいへん……な……」

「……しゃべるな! じっとしてろ!」

「い……がな……とまに……ない……」

「しっかりして! しっかりするの!」


 来る時とは逆に、僕は山道をすっ飛ばして降りた。下りだったこともあって十数分で、集落まで出た。すぐに店に駆け込んで救急車を呼んだ。父さん、母さんも車に駆け寄ってきて、みどりの惨状に声を失った。


 救急車はすぐに来た。隊員がみどりを担架に乗せて、本町の県立病院に搬送した。僕らも全員で病院まで並走した。みどりはすぐに集中治療室に運ばれたけど、衰弱が激しくて予断を許さない状態らしい。だけど僕はもう一つ気になることがあって、病室の前を離れて父さんに言った。


「……父さん、僕はまだ胸騒ぎがする。みどりはあの状態なのに、しきりに何か言ってたんだ。それが徳子さんに絡んでいる気がしてしょうがない」


 父さんもはっとしたようで、僕に聞き返した。


「木下の家まで行ったのか?」

「……いやその道筋の一番近い地点に倒れてたんだ。そこまで自力で出てきたんだと思う」

「ということは、奥で何かあったということだな」

「……うん、僕はそう思う」

「行ってみよう。幸助、道は分かるな」

「……なんとか」


 母さんに園田さんのことを頼んで、父さんと二人で車に乗り込んだ。


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