(3)

 駅の駐車場に戻る。なぜだかすっごく気分がいい。どうしてもっと早くこうしなかったんだろう? 吹っ切れたーって感じ。排水溝の中に溜まりまくっていたヘドロがすぽーんと抜けて、一気に新品の自分になったような。そんな新鮮な感覚。僕はほとんど笑っているような状態だった。


 鍵を開けて軽に乗り込む。園田さんが、エンジンをかけようとした僕を不満顔で止めた。


「ちょっと、待って!」

「……え?」

「こうちゃん、ずるい」

「……どうして?」

「自分だけすっきりしちゃってさ」


 園田さんは口をとんがらかして、下を向いている。


「……うん。僕は今まで人の秘密をいっぱい背負ってきたけど、誰かに僕の秘密を知ってもらうのは初めてなんだ。園田さんには申し訳ないけど、すごく気が楽になった」

「こうちゃんは、わたしの気持ちが読めるの?」

「……読めないよ。感じることができるだけ」

「そっかあ。じゃあ……」


 園田さんは助手席から身を乗り出し、僕の顔を両手で挟み込むと、いきなりキスをした。息が詰まる。鼻をくすぐる甘い匂い。頭が痺れる。それは、ほんの数秒のことだったんだろう。でも、僕にとってはまるで十年、二十年というような、とてつもなく長い時間に感じた。


 ゆっくり唇を離すと、園田さんは呟いた。


「こうちゃん。わたしの気持は読めても、その深さは読めないでしょ? 本当に、好き。大好き」

「……」

「わたしはね。すごく単純に、こうちゃんに強い憧れや畏れの気持ちを抱いてたの。こうちゃんが持ってる深い洞察や思慮、自己抑制みたいなもの。それはみんな、わたしにはないものだったから」

「……そんなこと!」

「ちゃんと、最後まで聞いて!」


 園田さんは強い視線で僕を制止した。


「でもね。それが、こうちゃんの辛い思いの中から生まれたものだなんて、ちっとも知らなかった。しかも、こうちゃんはちゃんとそれに向き合ってきた。強い。本当に強い意志」

「……」

「正直言うとね、確かにわたし、こうちゃんの力が怖い。でも、それとこうちゃんへの想いは別」

「……」

「こうちゃんはわたしを信じて疑わない。これっぽっちも。その揺るがない気持ちが嬉しいの。今までね、それが言葉にはできなかった。感謝以上のものがわたしにあるのか、確信出来なかったから」


 何かを思い切るように、園田さんははっきりと言った。


「でも、今分かった。わたし、こうちゃんが好き。誰にも渡したくない」

「……ありがとう。僕も園田さんが好きだ。本当はね。最初に会った時からすごく惹かれたんだ。あんなに帰りたくなかったここに帰る気になったのだって、園田さんが来たいって言ったから。もやもやしたものがはっきり形になって、僕はやっと言えるよ。園田さん、本当に好きだよ」


 軽の箱バンの中で告白かあ。ムードもなにもないなあ。多分、二人ともそう考えていただろう。でもそれは、本当はすごく僕ららしいのかもしれない。僕らは車の中でお互いに照れて、しばらくくすくす笑いあっていた。


「……さあ、戻ろうか」

「そうだね」


 エンジンをかけて駅の駐車場を出る。国道に入ると、すぐ園田さんが話しかけてきた。


「こうちゃん。わたしのこと、みどりって呼んでよ」

「……んんー。今はまだ呼べない」


 この返答は予想外で、おまけに大不満だったようで、すぐにきつい口調でなじられた。


「なんで!?」

「……実を言うとね。僕の内緒事はもう一つある。そして、それが多分、今年僕がここに帰らないといけなかった最も大きな理由なんだ」

「え!?」


 僕は、その秘密も早く明かすことにした。せっかくこうして心を通わせることができたんだ。余計な心配をさせてはいけない。


「……園田さんにさっき言ったよね。僕はここに帰るつもりはなかったって。本当のことを言うと、園田さんの打診があっても僕は帰る気はなかったんだ。最初はね。でも……」

「でも、なに?」

「……呼ばれたんだよ。みどりに。園田さんではない、もう一人のみどりに」


 園田さんは、不安そうな顔を見せた。自分以外の女性の影に、強い嫉妬を感じたのかもしれない。


「誰なの? その人」

「……木下みどり。僕の幼馴染み。そして僕の知る限り、僕以外に唯一僕と同じ力を持つ

「!!」


 園田さんは、ひどく驚いたようだ。


「その人も、こうちゃんのように人の秘密が見えるの?」

「……僕が直接確かめたことはないけどね。多分間違いないと思う」

「なんで分かるの?」

「……なんでかな」


 言われてみると確かに不思議だな。自分では事実として捉えてるから、疑ったこともなかった。


「……共振するっていう感じ。それしか言いようがない」


 園田さんは話を元に戻した。


「呼ばれたって言ったよね。電話か手紙で呼び出されたの?」

「……いや、みどりのところには電話どころか、電気もガスも水道もない。新聞も郵便も届かない。あいつのところは、本当に特殊な環境なんだ。だいたい地元の人ですら、みどりの家がどこにあるのか知らないんだから」

「ええっ!? そんなことありえるの?」


 確かにとても信じられないことだろう。いくら僕の田舎が山の中だからといって、普通はありえない話だ。


「……みどりのところの家庭事情もあってね。木下の家は、周囲との接触をずっと拒んできた。村八分って言葉があるけど、木下の家は自らがそれを望んでいたきらいがあるんだ。訪れる人がいないから、誰も家の所在を知らない」


 園田さんが、唖然として僕の顔を見つめる。


「……僕は小学校の一年か、二年の時、一度だけみどりに連れられて、家に遊びに行ったことがあるんだ。だから、僕が唯一みどりの家の場所を知っている、ということになる」

「そ、そんな……信じられない」


 あそこに実際に行った者でないと、それは分からないだろう。


「……僕と違って、みどりは日常のほとんどを社会から切り離されて過ごしてきた。僕とみどりが持つこの力が、数少ない外部との接点。だから、何かあればそれにすがるしかない。呼ばれたっていうのはそういう感覚なんだよ。それも昨夜夢でうなされて、初めて分かったんだ」


 園田さんは、無言で路面を見つめている。


「……僕が昨日園田さんを迎えにいった時、峠下のバス停のところで、一点を見つめてたでしょ?」

「うん。わたし、こうちゃんが何見てるんだろうって、すごく気になったんだけど」

「……あそこの近くにね。みどりの家に行くための、最初のポイントがあるんだ」


 国道を降りて、原井の集落に入る。店の裏に車を止める。車を降りたところで、僕は立ち止まって言い直した。


「……呼ばれた、というのは当たってないかな。助けを呼んでる、の方が正しい」

「えっ?」

「……戸板に負けず劣らず、いや戸板以上にとても辺鄙なところなんだ。みどりのところは。しかも戸板のような集落じゃなくて、本当に山の中の一軒家。家というより小屋なんだよ」

「そんなところに女の子一人で住めるの?」

「……みどりはおじいちゃん、お父さんと一緒に住んでたから。その頃はなんとか暮らしていけたんだと思う。でも……」

「どうしたの?」

「……みどりは三年前に、そのおじいちゃんとお父さんを相次いで亡くした。もともとお母さんは早くに亡くなっていたから、あいつは独りぼっちなんだ。みどりには全く身寄りがない。何かあっても頼れる相手がいない」


 園田さんは、急に心配顔になってきた。自分の恋愛感情に任せて、妙な勘繰りをしている場合ではないと察知したらしい。


「……虫の知らせに急かされて木馬野に帰って来たら、案の定みどりの動向が分からなくなってる。母さんの話では、少なくとも数か月はこのあたりに姿を見せてないらしい。でも、家は僕しか知らない」

「急がないと!」

「……その前に。徳子さんのこともあるから、父さんと話してから行こう」


 僕と園田さんは連れ立って、店に入った。店の奥で、父さんがごそごそ動いているのが見えた。


「……父さん」


 声を掛けると、父さんがふっと振り向いた。僕らが深刻な顔をしているのを見て、すぐに話し始めた。


「園田さん。徳子さんだが、ここ数日の消息を誰も把握してない」

「えっ!?」


 みどりだけでなくて、斎藤さんもか……。


「今、戸板に残っているのは、徳子さんと江口のばあさんだけだということは分かった。ばあさんの方は息子さんが引き取ることに決まって、三日ほど前に息子さんが車で様子を見に行った。その時にはすでに、徳子さんの家には誰もいなかったらしい。一応戸締りはしてあったようなので、少なくとも三日以上出かけたまま戻ってないということになる。念のためにこれまで何回か電話してみたが、出ない」

「……父さん、徳子さんが歩いてここまで来ることなんかあるの?」

「町が出す週二回のタウンカーには、買物のために必ず乗ってたらしいから、徒歩で来ることはありえない。遠出でなくて、戸板の近辺に何かしに行ったと考えるべきだろう」

「……じゃあ、そこで何かあった?」

「うん、それがすごく気になるんだ」

「……それと」


 僕の視線で、父さんが察した。


「木下だろ? そっちの方がもっと心配だ。消息が確認できなくなってから、もう数か月になる。二月か、三月にうちに顔を出して以来、音沙汰が無いんだ」

「……どうしよう」

「木下のところは幸助しか家を知らないから、おまえに任せるしかない。すまんが午後から行ってもらえるか?」

「……うん」

「私は明日、作次のところの四駆を借りて、作次と二人で徳子さんのところに行ってみることにする。何もなければ笑い話で済むが、場合によっては警察の厄介になるかもしれない」

「……分かった」


 父さんは、園田さんの方に向き直って詫びた。


「済まないね。お役に立てなくて。私たちも、まさか徳子さんがこんなことになってるとは、思ってもいなかったもんだから」

「いえ、どっちも早くなんとかしないと……」

「ありがとう。午後から、幸助が行く方に付き合ってくれると助かる」

「そうします」


 緊張を解すかのように、父さんがにっこり笑って園田さんに言った。


「いいことがあったかな」


 それまで不安顔だった園田さんの顔が、ぱっと赤らんだ。それから。父さんは僕に近寄ると、ぼそっと言った。


「幸助、口紅ついとるぞ」


 どっかーん!


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