(2)
軽の箱バンの助手席に園田さんを乗せて、国道に出る。追い越し禁止の一車線道路。車はゆったりと走り出す。
「……ごめん、朝飯の時にする話じゃなかったね」
「いや、いいんだけど。ちょっと怖いな。もしかして、僕は宇宙人だとか言わないよね?」
園田さんは冗談のつもりで言ったらしいけど、僕の反応がないのを見て不安になったらしい。
「こうちゃん?」
「……園田さん、サトリの話って知ってる?」
「え? なにそれ? お釈迦様の話?」
「……いや、人の心を読む妖怪の話」
「はあ?」
車に乗っている時間は十分足らずのはずだ。僕の話は重く、長くなる。園田さんの荷物を回収したら、駅前の喫茶店に入ろう。
「……昔々、山暮らしのお爺さんが、拾ってきた栗を囲炉裏の灰に埋めて焼けるのを待っていました」
園田さんは、何の話を始めるのだろうと、じっと僕の横顔を見つめている。僕は前を向いたままで話を続けた。
「……お爺さんが灰をかき回していると、いつの間にか向かいに、毛むくじゃらの異形の者が立っていました。どこから入ってきたんじゃ? お爺さんは、腰を抜かさんばかりに驚きました」
「……異形の者は言いました。おまえは今、わしがどこから入ってきたのかと思うたろう? お爺さんは、勝手口から逃げ出そうと後ずさりしました」
「……異形の者は言いました。おまえは今、勝手口から逃げようと思うたろう? お爺さんは、喰われてしまうかもしれんと、怖くてぶるぶる震えました」
「……異形の者は言いました。おまえは今、わしに喰われるかも知れぬと思うたろう? そうして、にやりと気味の悪い笑みを浮かべ、大きな口をがっと開けてお爺さんににじり寄りました。その時です」
「……囲炉裏の灰の中の栗が、ぱあんという大きな音を立ててはぜ、異形の者の眉間をしたたかに打ちました。異形の者は、この爺読めぬ、敵わぬと叫ぶと、いずこにか消え去りました」
「……。あ、駅についたよ。荷物取って来てくれる?」
園田さんは、何のことかさっぱり分からないという風に首を力なく左右に振ると、車を降りて小走りに駆け出していった。そして一分もしないうちに、大きいボストンバッグを抱えて戻ってきた。
「……それを後ろの席に置いたら、ちょっとお茶しよう。続きはそれから」
僕は車を駅の小さな駐車場に回す。夏は観光客のマイカーですぐ埋まってしまうんだけど、今日は時間がまだ早いせいか、空いていた。
車の鍵をかけて、駅の真ん前の喫茶店に入った。一番奥の席に陣取る。ここが一番邪魔が入らない。今朝は開店したばかりで、僕らが最初の客のようだ。
「いらっしゃいませー」
小太りのおばさんが注文を取りにきた。
「あら、こうちゃんじゃないの。久しぶりねー」
「……ご無沙汰してます」
「彼女? 隅に置けないわね」
曖昧な笑いでごまかすと、僕はコーヒーを注文した。
「……園田さんは何にする?」
「んー、じゃオレンジジュースを」
「はい、ホットとオレンジジュースね。ちょっと待ってて」
おばさんが奥に引っ込むと、園田さんが袖を引っ張った。
「知ってる人?」
「……もちろん。ここは、本町の高校生なら必ず一度は寄るところだからね」
「あ、そか」
おばさんが、コーヒーとオレンジジュースを僕らのテーブルに置いた。
「ごゆっくり」
駅についた列車から観光客が降りてきたのを見て、おばさんは持ち場に戻った。これからお土産のコーナーが忙しくなるだろう。
「……さて」
僕は一口コーヒーを含むと、園田さんに向き直った。
「……さっき、車の中でサトリの話をしたでしょ」
「うん、でもそれが何を意味してるのか、さっぱり」
つきたくはないけど溜息が出る。でも言わなければならない。
「……僕にはね、周囲の人の秘密が見えてしまうんだよ」
「えっ?」
「……その人が隠してること。隠したいと思ってること。例えば過去にあった嫌な出来事とか、悩みとか、秘かな感情や意図とかがね、見えてしまうんだ」
「はあー?」
園田さんは、僕が何を言い出したのか分からなかったんだろう。あっけにとられている。
「……園田さん、ここに来ることをご両親に内緒にしてきたでしょ」
園田さんの顔色がさっと変わった。グラスを持つ手が小刻みに震えている。
「……園田さんは昨日、駅で僕の実家の電話番号を調べた。でも、僕以外の家族が出たらイヤだなと思って、結局電話しなかったよね」
そう。この二つの事実でもう充分だった。
「それって……」
「……僕がサトリと違うのは、意識してこの力を使えないということ。ちょうど五感と同じように、勝手に僕に流れ込んで、見えて、聞こえて、触れてしまうんだよ」
僕は、もうこの時にはすでに涙目になっていた。それを見られたくなくて、両肘をついて顔を伏せた。
「……いつの頃からか分からない。僕にはこの力があった。何の役にも立たない、ただ気味悪いだけの力」
「……」
「……でも僕は、流れ込んでくる他人の秘密に溺れるわけにはいかない。僕が実際に自分の五感で感じたことと、『それ』は区別しなければならないんだ」
園田さんも黙って俯いている。
「……だからね。僕の会話はいつもワンテンポ遅いんだよ。この力から来る『不純物』を決して口に出すことはできないから。いつでも自分で自分の文章をチェックし続けてる。その結果がこの口調さ」
「あ!」
「……僕が本を読むのが好きなのは、その時だけ、面倒なその『作業』から解放されるからなんだ。それに文面からも意図は流れ込んでくるけど、それは誰にも迷惑をかけない。僕は純粋にそれを楽しむことができる」
「それが昨日の……」
「……そう」
体を起こして、ぬるくなったコーヒーを口に含む。苦い。
「……でもね。僕は神様じゃない。どんなに気を遣っていても、ふとしたはずみで『それ』が口から漏れちゃうことがあるんだ。そうすると……」
僕は寂しくなって、下を向いたまま、ふっと笑った。
「……その人を、さっきの園田さんみたいな気持ちにさせてしまうんだよ」
園田さんは、顔を上げてじっと僕の方を見つめている。
「……田舎はね、そういうことが伝わるのが早いんだ。高校の時には、同級生は僕を露骨に排除しないまでも、敬遠するようになった。僕は、耐えられなかったんだ! 僕の周りにいっぱい人がいるのに、その誰とも本心で触れ合えないことに。心が通わないことに。だから……逃げる決心をしたんだ。都会へ。もっと人の多いところへ。誰も僕を知らないところへ。そして……ここに戻ってくるつもりもなかったんだ」
しばらく沈黙が続いた。
氷が融けて、薄まってしまったオレンジジュース。完全に冷めて、泥水のようになってしまったコーヒー。僕らの関係も、今までとは大きく変わってしまったかも知れない。でも。今、僕はあえて秘密を曝した。
園田さんは今までずっと、自分の可能性を信じて突き進む姿を僕に見せてくれた。僕はそれで初めて、自分の背負ったものと対峙する勇気をもらった。ここで後ろを向くわけにはいかない。そう覚悟を決めたんだ。僕は顔を上げて、園田さんに笑顔を見せた。
「……園田さん。ありがとう」
「えっ?」
「……僕は、自分の影ばかり見てたのかもしれない。この変な力から逃げることばかり考えて、すごく無駄な時間を過ごしてしまったのかもしれない。だからね……」
「うん」
「……もう終わりにしたいんだ。後ろを見るのは。もっと前を向きたいんだ。それを気付かせてくれたのは園田さんだよ。本当に感謝してる」
頭を下げた僕を見て、園田さんは呟いた。
「……こうちゃん。凄すぎ」
僕は照れて、席を立った。
「……出ようか。父さんが何か調べてきてくれたかもしれないし」
レシートを持ってレジに行く。ちょうどお客さんが途切れたところだったみたいで、おばさんが話しかけてきた。
「こうちゃん、しばらくこっちにいるの?」
「……うん、そのつもりです。そういや、昨日リョウに会ったなー。あいつも店に顔出しました?」
「来たわよー。あのおしゃべりぼんず。法事なんてかったるいってほざくから、どやしつけてやったわ」
「……ははは。おばさんにかかったら、リョウもガキ扱いですね」
「ハタチって言っても、私から見ればこうちゃんもリョウもまだまだ洟垂れだもん」
「……かなわないなあ」
料金を払って、店を出る。
「……おばさん、また来ますね」
「はいよ。花枝さんにもよろしく伝えておいてね」
「……はーい」
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