第五章 秘密と告白
(1)
夜半。僕はひどくうなされていた。
「……けて」
「おね…い……く……けて」
「…やく………て」
「ど……して…………れないの?」
「もう…………の」
ずっと遠くから叫ぶような声が、切れ切れに響いてくる。これは夢じゃない。外から聞こえる音でもない。頭の中で、小さな小さな子供が地団駄踏んで泣き叫んでいるような。切羽詰まっているけれど、何もできない。どうにもならない。とても悲しい。なんとかしなければ。でも動けない。何もできない。
「!!!!」
汗びっしょりで跳ね起きる。感覚は鮮明に残っているけど、あの声は聞こえない。枕元をまさぐって、腕時計を見た。午前三時を少し回ったところだ。僕は頭を掻きむしる。大きく息を吐いて、もう一度目を瞑る。
……何も聞こえない。
疲れからくる幻聴かとも思ったけど、生々しすぎる。いくらうちの家が古いって言ったって、幽霊が出るなんてことは聞いたことがない。だいたい、そんな恐ろしい感覚はない。ただ切羽詰まった悲しい叫び、それがずっと聞こえていた。そんな感じ。寝汗が冷えて、寒くなってきた。
「……寝よう」
僕は深く考えたくなくて、布団を頭まで被ると無理矢理目を閉じた。今度は猛烈な眠気が襲ってきて、あっという間に睡魔に連れ去られた。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ました時には、すでに朝の九時を回っていた。体の疲れはなかったけど、なんとなく精神的な疲労感が張り付いて取れなかった。冴えない表情のままで布団を上げ、着替えて居間に行く。
「「おはよう、こうちゃん」」
母さんと園田さんが、同時にハモるように僕に声をかけた。
「……うあー?」
ホームドラマのノリは勘弁してください。僕の意識が現実に引き戻される。
「……園田さん、よく眠れた?」
「うん、ぐっすり休ませてもらった」
「……そりゃ良かった。僕は夜中に目が冴えちゃって。なんか、いまいち」
欠伸を手元で押さえながら、朝食の支度を手伝っている園田さんの方に目をやると、枯草色の見慣れないワンピースを着ている。
「……園田さん、その服……」
「ああ、お母さんがね、昨日着ていた服は、汗染みが付くといけないから洗濯しましょうって。身ぐるみ剥がされちゃった。わたしの荷物は、本町の駅のコインロッカーにあるから、着替えがないの。で、お母さんの服をお借りしたの」
確かに母さんも細身だから、サイズは何とか合うかもしれないけど、年代が違うから似合う服なんかないだろ。そう思って改めて見ると、不思議に違和感がない。
ああ、そうか。微妙な中間色の色合いは、母さんの手染めの生地。あの服は母さんの手製だ。母さんが若い頃に仕立てたものの、着る機会がなくてしまいこんであったのを、引っ張り出してきたんだろう。デザインにはさすがに時代を感じるけど、まるで園田さんの皮膚の延長上にあるみたいに、しっくり雰囲気に溶け込んでいる。ふーん……。こう見ると、まるで本当の親娘みたいだ。
「……じゃ、今日はまず荷物を取ってこないとね」
「そうしてくれると助かるな」
僕は母さんに尋ねた。
「……父さんは店に出てるの?」
「ううん、今朝徳子さんに電話したんだけど、何度かけてもつながらなかったものだから、作次さんのところに話をしに行ってるわ」
さすがに父さんは行動が早い。そちらは父さんに任せて、僕は園田さんをサポートしよう。
「……遅くなっちゃったけど、朝御飯にしようか。母さん、いただきます」
「すみません、ごちそうになります」
「あ、食べ終わったらそのままにしておいてね。私は店の方に出てるから」
母さんが店に出ると、居間に二人きりになった。口をもぐもぐさせながら、園田さんが切り出した。
「こうちゃん、今日はどうするの」
「……ううう、やっぱりこうちゃんなわけ?」
「いけない?」
昨日と違って、その表情は茶目っ気たっぷりだ。まあ、いいか。
「……いいよ。こうちゃんで。もう諦めた」
園田さんは、しょうがないなあという風な僕の表情を楽しそうに見つめている。
「……まず園田さんの荷物だね。本町まで行くのに列車を使うと時間がもったいないから、車で行こう。軽を借りてくるから、それまで待ってて」
「こうちゃん、運転できるの?」
「……高三の夏休みに合宿で免許取った。田舎は車がないと、ほんとに不便なんだ」
「すっごーい。受験前に余裕じゃない」
「……その時は、まだ九州に行くことなんて考えてなかったから」
「えっ?」
びっくりしたように、園田さんが僕を凝視した。
「……田舎の店って言っても、跡取りの一人息子だからさ。父さんは何の疑いもなく僕が跡を継ぐと思ってたはず。僕もそれでいいと思ってたし」
園田さんは口の中にご飯が入ったまま、しばらく固まっていた。
「こうちゃんて、もしかして天才? わたしなんか一年以上、お肌が曲がるくらい猛勉したのにぃ」
「……いや、ここを出ると決めてからは、極限まで睡眠時間を削って勉強したよ。逃避行を成功させるには、大学合格の事実が絶対必要だったから」
園田さんは味噌汁を飲み干すと、僕の鼻先まで顔を寄せて問い詰めた。
「ねえ。前にも気になったんだけど。なんでここから『逃げる』必要があったの?」
「……」
どうしようか。躊躇した。言わずに済むなら、言いたくなかった。でも、この先を考えると『この件』は避けて通れない。覚悟を決めよう。辛い結末になるかもしれないけど、しょうがない。
僕はちらっと店の方を見た。お客さんが来ているようで、母さんの話し声が聞こえる。僕はしばらく黙っていたけれど、小声で答えた。
「……悪い。ここでは言いにくいんだ。車で本町に行く時に話するよ。それと……」
「なに?」
「……園田さん、昨日僕に言ったことは、本気?」
「え?」
僕が正面から見据えたので、園田さんはちょっとたじろいだ。
「昨日わたしが言ったことって……。もっと近くにいたいって……あれ?」
「……そう」
「もう。恥ずかしいから何回も言わせないでよっ!」
園田さんは、真っ赤になってぷっと膨れた。いつもなら僕が笑って混ぜっ返すところだけれど、僕は黙って園田さんの顔を見つめ続けた。園田さんの表情が硬くなる。
「どうかしたの?」
「……大事な話がある」
やはり、すんなりと言葉が出ない。でも……。
「……僕はね。園田さんにだけでなく、みんなに秘密にしていることがあるんだ」
「えっ?」
「……それはいつまでも隠し通せない。ここを出たことで一時的には逃れられたけど、いつかはまた僕の身に返ってくる」
「?」
「……園田さんの告白は嬉しかった。本当に嬉しかった。僕の内面を見て、僕の目を見て話をしてくれる。だからこそ、僕はもう隠しておけなくなったんだ」
園田さんは固まったままだ。僕は自分に言い聞かせるように呟く。
「……その結果が園田さんの感情にどう影響しても、それは仕方ない。やっぱり逃げることは、解決にはならないもんな」
「それって……」
「……後で話すよ。とりあえず車を調達してくる」
僕は席を立つと、店にいる母さんに声を掛けた。
「……母さん、軽を借りるね。本町に園田さんの荷物を取りに行ってくるよ」
向き直って、その場に固まっていた園田さんを促した。
「……店の前で待ってて。車を回すから。コインロッカーの鍵を忘れないようにね」
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