(2)

 園田さんの手を引いて店に戻った時は、もう七時近かった。店はとうに閉まっている時間だったけど、僕が戻ってこないので開けておいてくれたらしい。暖簾の隙間から、赤っぽい白熱灯の明かりが漏れてくる。


「……ただいまー」


 店に入って声をかけると、母さんがぱたぱたと出てきた。


「お帰り。遅かったね」

「……ごめんね。ちょっとわけありで、ね」


 僕はそう言って後ろを振り向く。園田さんが、きまり悪そうに頭を下げる。


「こんばんは。初めまして。園田と言います。この度は、松木さんにご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」


 母さんはびっくりしたような顔で、僕に小声で聞いた。


「こうちゃん、どうしたの?」

「……歩いて戸板に行こうとしたんだよ。連れ戻してきた」

「ええーっ!?」


 母さんは絶句して、しばらくぽかーんと立ち尽くしていた。そして、はっと気付いたように言った。


「それは大変だったわねえ。まあ、お上がりなさい。夕飯もまだなんでしょ。食べていきなさいな」


 母さんが奥へ消えた後で、僕は園田さんに耳打ちした。


「……園田さん、僕の母も昔、染めをやってたことがある。斎藤さんのこともいくらかは知ってる。道の駅に商品として出してるクラフトワークも手掛けているから、そっち方面の情報も手に入る。ご飯食べながらいろいろ聞いてみたら?」

「あ、そうだね」


 寂しさと闇の力で千々に乱れていた感情が鎮まって、好奇心が戻ってきたんだろう。


「お邪魔させてもらうね」

「……うん。腹が減っては戦ができぬゆえ」

「なにそれ」

「……ふふん」


 僕は園田さんを居間に案内した。座卓の向こうには正座した父さんが、木像のようにかちかちに緊張して座っていた。まさか、僕が女性を連れて帰るとは夢にも思ってなかったみたいで、まるで自分がこれから見合いの席に出るような面持ちだ。僕だけだったら、たぶん説教オンパレードになったんだろうなあ……。


「すみません。ご迷惑をおかけした上に、厚かましくお夕飯まで……」

「あら、いいのよ。どうせ野郎ども二人にすると、碌な会話にならないんだから。華があった方がいいわよね」

「あー、いらっしゃいませー」


 父さんが場違いな挨拶をして、園田さんの笑いを誘った。


「あの、押しかけてすみません。園田ですぅ」

「ああ、園田さん、そちらに座ってくださいな」


 母さんが上座に案内する。僕がその隣に座る。園田さんの向いに父さん。僕の向いが母さんだ。座卓の上にはごちそうが溢れている。長丁場の山行を補給なしで行き来したので、腹ぺこだ。園田さんを突っついて箸を持たせる。


「……いただきまーす。もう限界」


 僕が口火を切って、ごちそうを端から口に放り込んだ。園田さんは最初は遠慮がちに箸を運んでいたけど、徐々にペースが上がってきた。おいしい、おいしいを連発しながら、二人してがつがつ食べている様子を見て、父さんの緊張もほぐれてきたのだろう。園田さんの食べっぷりを目を細めて見ている。


 少しお腹が落ち着いてきた頃に、母さんがタイミングよく園田さんに声をかけた。


「こうちゃんに聞いたんだけど、菊ちゃんのところで染めを習ってるんですって?」

「そうです。まだまだひよっこのレベルだけど、とっても楽しいです。いずれはそれを仕事にしたいんです。えと、こうちゃんに、お母さんも染めをされてたと伺ったんですけど」


 うっ! 園田さんたら。僕の呼び方が、ちゃっかりこうちゃんになってるよ。母さんが楽しそうに答えた。


「ふふ。私はずっと昔に手掛けていただけ。最近は木地の加工や塗りを少しするくらいで、染めはやってないの」

「そうですかー。残念。いろいろ伺いたいことがあるんですけど」

「斎藤さんの話は、菊ちゃんから聞いたの?」

「そうです」

「徳子さん……って、斎藤さんのことなんだけど、このあたりでは特に有名人ってことはないのよ。私もこうちゃんから聞いてびっくりしたくらいで。でも、徳子さんの十八番の染めがあって、それはよく知られてる」


 突然横から父さんが口を挿んだ。


日生染ひなぞめのことか?」

「そう。あの色が出せるのは徳子さんだけなの。あなたもそれをご覧になったんでしょ?」


 園田さんの顔がみるみる上気した。


「そう! あの色はどうやったら出せるのか! どうしてもそれを知りたかったんです!」


 父さんがその勢いに思わずのけぞった。無理もない。園田さんのテンションが上がった時には、あらゆる障害物が木端微塵になるからなあ。


「……どうどう。園田さん、落ち着いてよ」


 僕がブレーキをかける。園田さんは我に返って急に恥ずかしくなったのか、赤くなって俯いてしまった。母さんが助け舟を出す。


「とても明るい濁りのない赤紫。しかも染められた布にわずかに光沢が出て、光の加減で微妙に色が変化して見えるの。草木染めなら、その色を出す植物が何なのか、媒染に何を使っているのか、一切分からない。徳子さんにしかできない技なのね」


 ふうん……。


「私も菊ちゃんも、若いころ徳子さんに何度か方法を尋ねたことがあるけど、微笑むだけで教えてくれないのよ。拒むっていうより、探してみてって謎かけみたいに」


 園田さんはまた気合いが入ったみたいで、両拳がぐーになっている。だーめだ、こりゃ。


「んんんんんーーーーー、燃えますねっ。是非ともお会いしなければ!」

「でもね」


 母さんが、今度はやんわりと釘を刺した。


「徳子さんは若い頃にご主人を亡くされてから、ずっと独り暮らしなの。今日、途中まで行かれて分かったと思うけど、生活するのもやっとのところに住んでおられるの。くれぐれもご迷惑にならないようにね」

「う……」

「それに、戸板の集落は今大きな問題を抱えているの。徳子さんもそれに巻き込まれているから、ちゃんと連絡を取って、ご都合を聞いてから行くようにしてね」


 見事な火消しだ。園田さん。さっきまでの勢いはどこへやら、またしゅんとして俯いてしまった。赤くなったり、青くなったり、忙しい。


 父さんは、じっと彼女を観察していたようだ。父さんのように長く客商売をしていると、ちょっとした会話の間に、その人となりを見抜いてしまうようになる。父さんは、都会人にありがちな気どりや裏表がなくて、直情で、表情豊かな園田さんが気に入ったらしい。


「おい、幸助」

「……なに、父さん?」

「母さんから聞いてると思うが、徳子さんに連絡を取るのは私たちでも難しいんだ。それに、面識のないおまえたちでは、もし電話がつながっても会ってもらえないと思うぞ。だから私が都合を聞いて、何とか頼み込んでやろう」


 ひゃあ!び、びっくりしたあ。父さんが協力を申し出るなんて。父さんは園田さんの方に向き直ると、またもや思いがけないことを言った。


「園田さんは、本町の方に泊ってるのかい?」

「そうですけど、昨日一旦チェックアウトしたので、これから戻って別の宿を探すつもりです。昨日泊ったところは高かったので」

「そう。このあたりは田舎のくせに宿代が高いからね。うちに泊りなさいな」


 どわっ! いくら母さんに言ってあったとはいえ、父さんの口からその提案が出るとは思わなかった。園田さんは口をぽかんと開けて、父さんの方を見た。


「いいんですか? お世話になっても?」

「構わんよ。その代り、旅館じゃないので客扱いはしないけど。それでいいね?」

「うわあ、嬉しい! 助かります! 家事やお店は手伝いますので、なんでも言いつけてください!」

「まあ、そう気張らんと。まずは徳子さんを掴まえんとな」


 父さんは笑顔で立ち上がった。


「園田さん、慣れない山歩きでくたくたでしょう。風呂に浸かって、ゆっくり温まって、早く休みなさい。母さん、風呂の支度を頼む。幸助、奥の客間に布団を敷いておくから、案内してあげてな」


 そして園田さんに聞いた。


「園田さんは、名前はなんというのかな?」

水鳥みどりです。水鳥と書いて、みどりと言います」

「みどり?」


 それを聞いて、僕ら一家は全員微妙な表情になった。それぞれがもう一つの問題に気がついたからだ。父さんはその表情を隠すようにして、園田さんに言った。


「じゃあ、水鳥さん、ゆっくり休んでください。明日は早起きしないで、体を労わってな。戸板に出向くことになれば、いずれ体力勝負になるはずだから。私はこれで休ませてもらいます。お先に」


 早寝の父さんは園田さんの床をしつらえると、早々に寝室に消えた。僕は園田さんを風呂に案内して、風呂から出たら居間に戻ってくるように伝えた。


◇ ◇ ◇


 園田さんが風呂に行ったあと、居間には僕と母さんが残された。母さんがにやりと笑って、僕を横目で見た。


「こうちゃん、いいじゃない。あんたにはもったいないわ」

「……母さん、菊枝叔母さんと同じようなこと言わないでよ」

「しょうがないじゃない、姉妹なんだから」


 母さんは嬉しそうにうんうんと頷いていたけど、すぐ真顔になって僕に問い質した。


「で、木下の方はどう?」


 僕もその問いは予想していた。


「……一応戸板に向かう途中で道を思い出してたんだけど、なんとかなると思う。いつ様子を見に行くかが問題だけど」

「そうなのよね……」


 しばらく二人して、あらぬ方向に視線を泳がせていた。二十分ほどして、ぽっぽと体中から湯気を立てながら、浴衣に着替えた園田さんが戻ってきた。


「ふいー。いいお湯でしたー。すっごく大きな湯船なんですねー。感動しましたー」

「うちはかつて旅館だったから、造作にそれが残ってるところがあるのよ」

「そうか、だからなんか宿っぽく感じたんだあ。素敵ですね」

「ただ古いだけよ」


 にっこり笑いながら母さんが受け流す。


「さあ水鳥さん、今日は早く休んでくださいね。こうちゃんもお風呂使って早く寝たらいいわ。水鳥さんの部屋は、一番奥の客間だから案内してあげて。こうちゃんは自分の部屋ね」


 そしていたずらっぽく、こう付け加えた。


「こうちゃん、水鳥さんに夜這いをかけないようにね」


 実の親の言うことかい! 憮然とした表情の僕を残して、母さんは台所に去った。園田さんを見ると、やはりリアクションに困っている。


「……あー、とりあえず客間に案内するよ。こっち」


 無言で僕の後をついてきた園田さんは、案内された部屋の襖を開けてびっくりした表情を見せた。そこは純和風の高級旅館のようなたたずまい。僕は見慣れてるけど、初めて見た園田さんは驚いただろう。


「ここに泊っていいの?」

「……さっき母さんが言ったと思うけど、うちは曾祖父の代まで旅館だったから、どの部屋もみんなこんな感じなんだよ。気にしないで休んで」


 僕は襖を閉めて、お休みなさいと外から声をかけた。お休みなさいという返事と、大きな欠伸の音。今日はいろいろなことがあって疲れただろうなあ。僕も疲れたよ。


 風呂に入って早く休もう……。


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