第四章 闇に追われて

(1)

 山道を吹き抜ける風が、少し冷たくなってくる。僕はそれに身震いして、回想から意識を戻した。二人で肩を並べて黙々と歩いているうちに、だんだん暮色が濃くなってきた。少し急がないと。


 さっきの僕の問い。園田さんは、どうして僕に声を掛けてくれたのか? 園田さんはすぐには答えず、しばらく無言だった。柵止からの坂を上りきれば、あとはほとんど下りになる。足取りは自然に軽く、早くなる。峠の楢林を抜けたところで、不意に園田さんが口を開いた。


「松木くん、いつも教室で本を読んでたでしょう?」

「……うん?」

「文学部の学生って言ったって、今時いつも本を読んでる人なんかいない。文系は遊ぶ所って割り切ってる子の方が多いもの」

「……そうだね」

「そう。まずそれが気になったの。それとね、本の読み方が変わってたの」

「……え?」


 僕は、自分がどのように本を読んでいるかなんて意識したことはない。それを見られていたのは、もしかしたら裸を見られるくらい恥ずかしいことなのかもしれない。


「……ど、どんな風に?」


「普通は文面を眼で追って、一気に読み進むでしょ? 松木くんは数ページ読むと、必ず目を閉じて瞑想するの。それを繰り返す。とっても変わった読み方」


 うわあ、なんてこった。自分では全く意識していなかったことが恐ろしい。


「それとね」

「……うん」

「松木くんは、これまで一度も漫画や雑誌を持ってきたことがない」

「……そうだね」


 そう……。確かに、僕は漫画や雑誌は苦手だ。


「今の学生って、字だけの本は読みたがらない。わたしもそうだけど。いくら専攻だからと言っても、文字だけの堅苦しい本ばかり読まされるのは辛い。わたしは、雑誌は好きでよく買って読むけど、文庫本や新書は自分じゃあまり買わないもの」

「……そうなんだ」


 ここまで話して、園田さんはふと歩みを止めた。


「何かね、違う雰囲気を感じたの」

「……違う?」

「そう。わたしたちとは違う何か。受け入れるでも、拒むでもなく、そこにある何か」

「……なに、それ」

「説明できない。わたしの勘としか言いようがない。それが気になって止まらなくなったの」


 なるほど。それを聞いて、半分納得し、半分は狐につままれた。僕は赤みが増してきた空を樹冠の隙間から見上げ、園田さんを促した。


「……急ごうか。暗くなってきた」

「うん」


 また、しばらく無言のままで歩き続けた。今度は僕が口を開く。


「……確かにね。僕の本の読み方は変かも知れない」

「え?」

「……僕は本の内容よりも、それを書いた人の意思に興味があるんだ。文章は記号として中身を伝えるだけでなく、それを編む人の心も表わしてる。それをね、読み解くのが好きなんだ」


 自分で編んだ言葉に違和感を覚えた。言い直す。


「……んー、いやちょっと違うか。読むっていうより、感じるっていうのが近いかも知れない」

「ふーん」


 園田さんは、興味深そうに僕の話に耳を傾けている。


「……だから、どんなに本をたくさん読んでも、その知識が僕に溜まるわけじゃない。あまり勉強には役に立たないんだよね」


 僕は苦笑してみせた。


「……それと。確かに僕は雑誌や漫画は苦手。なんか伝えようとする意図がはっきりしすぎていて、読み取る努力をしなくても全部イメージが流れ込んでしまう。結末が分かってる推理小説を読むみたいな感じかな」

「そうかあ……」


 どういうわけかは知らないけど、園田さんがすごく感心してる。


 大曲りの道も半ばを過ぎて、そろそろ目途が立ってきた。つるべ落としに暗くなってきたけど、まだ足元は見える。園田さんはゴールが近付いてきたことを察したのか、いつもの元気な口調で言った。


「それにね」

「……え?」

「松木くんだけなの。ずっとわたしのこと苗字で呼ぶの」

「……そうだっけ?」


 言われてみれば、クラスメートはみんな、園田さんのことをみどりと呼び捨てにしてる。


「だから、何としてもみどりって言わせてみたいって。意地みたいなものがあったの。友達にならないと、なかなか呼びかけられないでしょ?」

「……ああ、なるほど。それで、か」


 こだわるポイントがおもしろいなあ。ふふっ。


「園田って、なんか自分のイメージじゃないんだよね。だから最初の自己紹介の時に、みどりって名前の方で呼んでねってお願いしたのに。覚えてないの?」

「……うーん。そう言ってたような気もする、けど。でも、その頃僕は自分のことで頭がいっぱいで、気に留める余裕がなかったのかも」

「ふーん」

「……でもね。珍しい名前だなっていう印象はあったんだよ。水鳥と書いてみどりと読ませるなんて、素敵だなあと思ったんだ」

「わたしがこの字を嫌ってるって知ってて?」

「……うん、もったいないなあと思ってた。名前にもちゃんと力が、想いが詰まっているから、それをイメージできる名前っていいなってね」


 そう。園田さんは、名前の字の話をすると極端に不機嫌になる。小さい頃からずっとからかわれてきたのだろう。またその話になったのかと一瞬表情が曇ったけど、僕の解釈は意外だったらしい。不思議なものを見るような表情でこっちを向いた。


「……ほら。僕の名前は、平凡な上に古くさいからさ。幸助、なんてね。子供心にも、もうちょっと何とかならなかったのかなあと思ったもの」

「名前はお父さんが考えたの?」

「……いや、おじいちゃんらしい。田舎では年長者の意見は尊重されるから、父さんは何も言えなかったのかもね」

「そっか。いろいろあるんだね」

「……うん。でも、今はこの名前は嫌いじゃない。幸せを助ける、なんていい感じでしょ? それが自分の幸せか、他の人のかは分からんけどさ」

「松木くんらしい、楽観主義ね」

「……それが僕のモットーだもん。人を羨まない。人と比べない。マイペース、マイペース。ずっと自分自身に言い聞かせてきたこと」


 もうこの頃には、お互いの顔が見えないくらいに暗くなっていた。足元がおぼつかない。もう少しで咲良のバス停に着きそうだけど、バス停から下に降りる道もたぶん真っ暗だろう。田舎では、住宅地以外は本当に灯りが少ないんだ。


「……園田さん、ちょっと待って」


 僕は園田さんの袖をちょいと引っ張って、制止した。


「……さすがに足元がよく見えないから、ライトを用意する。転んで怪我したら元も子もないからね」

「へー、松木くん、準備いいんだね」

「……いや、鍵に付けてるおもちゃみたいなもんだよ。それでもないよりはマシだろ」


 僕はデイパックから鍵束を引っ張り出すと、それに付いているキーライトを点けた。暗い山道にぽっと小さく、青白い光の輪が滲む。


「……園田さん、山側に寄って。道幅が分かりにくいから、谷側にいると落っこちるかもしれない」


 灯りは道しか照らしていなかったから、園田さんの動きは僕には分からなかった。声を掛けてすぐに、僕の左手が園田さんの手で塞がった。少し震えている、でも暖かくて柔らかい感触。


「手」

「……えっ??」

「つないで、いい?」

「……って、もうつないでるし」

「いいでしょ?」

「……」


 小さい頃に、遊び友達の女の子と手をつないだことがあったかもしれない。でも、思春期以降はそうした機会は皆無だった。僕の心臓は、破裂しそうなくらいばくばくしていた。園田さんの行動は心細さゆえか、それとも好意によるのか。でも、そんなことを考えている余裕はない。


「……行くよ。もう少しで集落が見える所まで出られる。僕の真横じゃなくて、少し後ろを歩いて。足早に行くから、転ばないようにね」

「うん」


 園田さんの手を引きながら、青白い光の輪を頼りに、無言で山道を降りる。暗闇は僕の邪念を踏みつぶすかのように、ずんずん辺りを埋め尽くしていく。最後は少し駆け足に近いくらい。木立が途切れて、バス停の黒いシルエットが丘の上に見えた。


「はあ、はあ、はあ」


 二人とも、息が上がっていた。そのまま小走りに丘に上がると、原井の集落のささやかな灯りが眼下に広がった。人の気配を灯りに感じて、心底ほっとする。


「……まだ六時過ぎなのにこの暗さだもんなあ」


 僕が立ち止まって呟くと、後ろを歩いていた園田さんが僕の背中に顔をつけて泣き始めた。本当に怖かったんだろう。


「……大丈夫?」


 十分くらいはずっとそうして立ってただろうか。背中から彼女が離れる気配がしたので、僕は声をかけた。


「ごめんね」

「……謝ることなんかないよ。さあ、さっさと町まで降りちゃおう」


 僕が手を差し出すと、今度は恥ずかしそうにおずおずと手を出してきた。


 不思議なもので、道が暗いのはさっきと同じなのに、灯りがある方へ向かっているという安心感だけで、すっかり心に余裕ができる。山の端に滲んでいた夕映えが完全に消え去る頃には、空には無数の星が瞬きだした。


 畑の畔道を並んでゆっくり歩いて行く。横にいた園田さんが、ふと声をかけてきた。


「ねえ、松木くん」

「……なに?」

「こうちゃん、って呼んでいいかな」

「……」


 それをどう解釈したものか。暗闇の中で園田さんの表情は読み取れない。僕も園田さんも足を止める。


「迷惑?」

「……。いや、なんでかなと思って」

「気になるの」

「……え?」

「こうちゃんがすごく気になるの。好きかどうか分からないけど、近くにいたいの。もっと近くで見てみたいの」

「……」

「こうちゃん。きっとこうちゃんが自分で思ってる以上に、こうちゃんは大きいよ。すっごく強い引力を持ってる。わたしはそれに惹かれてる。だから、確かめたいの。自分の気持ちを。この気持ちが何なのかを」


 園田さんは溜まっていたものを全部吐き出すように、一気に畳みかけてきた。


「わたしがすごくわがままを言ってることは分かってる。でも止められないの。自分の感情が抑えられないの!」


 園田さんは僕の正面に向き直って、どすんと抱きついてきた。髪から香るかすかな草の匂い。くらくらする。


「ごめんね。変なこと言って……」


 僕の頭はほとんどパンクしていた。


「……とりあえず。戻ろうか」


 僕は園田さんの肩を持って正面に戻した。


「……僕のうちに寄ろう。ご飯を食べて。それから考えよう」


 なんて間抜けな返事だろう。でも、僕の思考能力は限界だった。


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