(2)

 四月に入って、キャンパスに新入生が溢れるようになった。一年くらいじゃ自分が成長したように思えなかったけど、僕は押し出されるように二年生になってしまった。


 あの日園田さんには励ましてもらったけど、僕の迷走状態はあまり変わっていなかった。やはり、けりをつけなければならないことが大きすぎる。山を登る前に、見上げる山の高さに足がすくんでいる状態。溜息のサイズだけが大きくなっていった。


 園田さんからは、叔母さんの展示会に一緒に行こうと誘われたけど、その日はどうしても外せない用事があると言って断った。上の空で作品を見て、園田さんの熱意に水を差すのはどうしても避けたかったから。


 翌日、例によって学食で園田さんに捉まった。


「松木くーん!」

「……あ、園田さん、こんちわ。昨日はどうだった?」

「もーう、大興奮! やっぱプロは凄いわ!」

「……あの斎藤さんって人のは、実物はどうだったの?」


 園田さんは、学食の椅子にどすんと体を投げ出すと……。


「ごめん、松木くん、その水もらうね!」


 そう言うが早いか、僕のトレイの上のコップをかっさらって、水を一気飲みした。


「ふひー」


 たぶん興奮を鎮めようとしたんだろうけど。相変わらずワイルドだなー。


「うー、実物はもっと凄かった! 菊枝さんに、会場に来てたサークルの人を何人も紹介してもらったんだけど、みんな斎藤さんの染めは次元が違うという評価をしてた」

「……ふーん」

「でもね、もっとびっくりしたのは、斎藤さんって方が松木くんと同郷だったってこと!」

「……え!?」


 僕もびっくり。


「松木くん、戸板ってとこ知ってる?」

「……あ、戸板ね。知ってるよ。うちに比較的近いところだけど、もっと山の中だ」

「そこに住んでおられるらしいの」

「……戸板の斎藤さん? うーん……」


 しばらく考える。どっかで……。


「……あ、そういや確かにいたなあ、そんな名前のおばさんが」

「松木くん、知ってるの?」

「……いや、面識はほとんどないけど、時々うちの店に来てたから、顔だけはなんとなく覚えてる、かな?」

「菊枝さんが、先月木馬野に帰ってたでしょ? その時に斎藤さんに会ったんだって」

「……へえ、それは知らなかった」

「それでね、菊枝さんが言うには、斎藤さんは経験の長いベテランさんだから、もし機会があるならお話を聞かせてもらった方がいいって」

「……そんなにすごい人なんだ」

「でもね」

「……ん?」

「斎藤さんって、ほとんど戸板を出ない人らしいの。だからお会いするには、向こうまで行かないといけないの」

「……そりゃまた、難儀な」

「でしょ? 菊枝さんとのつながりで展示会には作品を出品してくるけど、菊枝さん以外の方は誰も会ったことがないって言ってたから」

「……幻の天才、みたいな人?」

「そうかも」


 ここまで立て板に水の勢いでどおっとしゃべっていた園田さんは、ちょっと言葉を切って僕の正面に向き直った。


「松木くん、一つお願いがあるんだけど」


 なんだか嫌な予感がした。


「夏休みにさ、斎藤さんに会いにいってみたいの。松木くん、同行してくれない? 帰省するんでしょ?」


 うわー、やっぱり、だ! どうしよう……。僕は無意識に、目いっぱい嫌そうな顔をしてたようだ。


「だめ?」

「……うー」


 これまでのことがあるから、園田さんにはできるだけ協力したい。でも、僕の木馬野への拒絶反応はこれまたひどい。究極の板挟みだ。僕は、しばらく脂汗を流すヒキガエルみたいにうーうーとうなっていたけど、結局決断できなかった。


「……園田さん、ちょっと時間が欲しい。夏休みはまだだいぶ先だよね。それまで少し考えさせて」


 園田さんはその場で僕がノーと言わなかったことで、とりあえずほっとしたらしい。


「もちろん! また近くなったら、相談させてね。んじゃっ!」


 そう言い残して。すぱっと、姿を消した。……あんたは忍者か。


◇ ◇ ◇


 それからの三か月は、園田さんのお願いの重圧と、自分の将来への不安がのしかかって、悶々と過ごす日々になった。大学への行き来とバイトは、ロボットのようにこなしていたけど、魂だけが血の池地獄で溺れている状態。そして、約束の日は刻々と近づいてきていた……。


 七月の下旬。梅雨が明け、副丘は一気に真夏の暑さの中に放り込まれた。夏でも涼しい山育ちの僕には、この暑さはひどく堪える。


 園田さんからは何度か木馬野行きについて聞かれたけれど、その都度返答を引き伸ばしてきた。でも、それも限界だ。明日は日曜日。園田さんは叔母さんのところに、そして僕のところにも来る。最終回答をしなければならない。


 その夜。僕は、暑くて寝苦しいベッドの上を転げまわっていた。返事をどうしようか迷っていたせいじゃない。ひどい頭痛が一時間近く続いたからだ。頭痛というより、頭の中でずっと警笛が鳴っている感じ。頭の中で響くので、耳を塞いでもどうにもならない。脂汗を流しながら歯を食いしばって耐えていたけど、突然ふっと楽になった。


 その途端に、深い森の中の小屋の映像が眼前に現れた。寂れた、人気のない古い小屋。


 一瞬の映像。でも、僕ははっきりそれを覚えている。


「……帰らないと。木馬野に」


 まるで帰巣本能に突き動かされる動物みたいに、僕の決意は一瞬で固まった。


◇ ◇ ◇


 日曜日。園田さんは朝早くから店に来た。僕が店舗に出るが早いか、駆け寄ってきて聞いた。


「松木くん、どう? なんとかなりそう?」

「……うん。帰省するよ。八月一日に向こうに行く」


 園田さんは、僕があっさり帰省を決めたことに驚いていたけど、希望が適って嬉しかったのか、すぐに具体的なスケジュールを立てようとした。


「じゃ、もう一日には動けるの?」

「……いや、一日は木馬野入りするだけ。戸板に行くなら、少し情報収集しないと」

「えー? 菊枝さんは問題なく会ってるのにぃ」

「……叔母さんに聞いてみたけど、叔母さんが斎藤さんに会ったところは戸板じゃないよ。斎藤さんが原井にあるうちの実家の店に寄った時に立ち話した程度だって」

「え? 戸板へ行ったんじゃないの?」

「……あそこはね。そんなに簡単に行けるところじゃない。うちから十五キロくらいのところだけど、交通の便も良くないし、すごい悪路だからアクセスも大変なんだ」

「うーん……」

「……あそこに住んでいる人以外はほとんど人の出入りのないところだから、僕は戸板が今どういう状況なのか全く知らないんだよ。だから斎藤さんの現況をちゃんと確認して、アポ取ってから行かないと」

「でもぉ」

「……なにか問題があるの?」

「斎藤さんって、会ってもらえないって噂なんだよね」

「……え?」

「戸板まで出向くって言うと、まず確実に会うことを断られるんだって」

「……そこまで分かっているなら、無理に戸板に行くことはないじゃない?」

「でも、わたしはどうしても染めの現場を見せてもらいたいの。土下座でもなんでもするから」


 よほど展示会で見た斎藤さんの染めが強烈な印象だったんだろう。ひどく思いつめている感じがあった。


「……とにかく。いろいろ確認を取ってから動こうよ。田舎はいろいろ制約が多い。こっちみたいに、スケジュール通りにはなかなか運ばないよ」

「うん。分かった」


 でも僕は確信していた。園田さんは絶対納得してない。これは厄介なことになったなあ、と。


 叔母さんに帰省のことを伝える。僕と父さんとの確執が薄らいだと単純に解釈したようで、素直に喜んでくれた。僕は一日の早朝の飛行機で発って、向こうで特急に乗り換えることにした。園田さんにもそのスケジュールを勧めたけど、木馬野で少し情報を漁りたいから前日入りする、と言われた。


 思い込んだら突っ走る彼女のことだ。保険はかけておくに越したことはない。携帯の電話番号を交換して、一日には必ず何度か僕に連絡を入れるよう念を押した。これでもまだ不安たっぷりなんだけど……。とりあえず、できるだけサポートするしかない。


 園田さんが足取り軽く帰っていった後、僕は逆に憂鬱な気分になっていた。


「……木馬野か。帰らないといけないんだな……」


 そう。なぜ僕は帰りたくないところに帰るんだろう? この時から、その疑問は僕の頭の中に貼り付いて、取れなくなっていた。


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