第三章 迷いの中
(1)
年が明けた。園田さんは、いつものバイタリティ溢れる姿に戻った。いや、もっと加速した。山のようなファッション雑誌と資料を抱えて、わしわしと丸呑みする勢いでそれをチェックしていく。さすがに縫製の練習は一筋縄ではいかないようだけど、それでも飽くことなく試作を繰り返していく。クラスメートの女の子のファッションにも、目が行くようになったようだ。園田さん自身のラフなスタイルは変わらなかったけど……。
その頃から。僕は焦りを覚えるようになってきた。
木馬野を出て。ここへ来た。ずっと僕を押さえつけてた重圧からはかなり解放された。僕は、自分の宿命みたいなものに逆らうことだけをずーっと続けてきたけど、この先どうすればいいんだろう?
その焦りを煽っていたのは、他ならぬ園田さんだった。彼女は染めに自分の人生を賭ける勢いで、しっかりそれに集中している。じゃあ、僕は? 僕には何がある? 何ができる? 何もない。僕から僕を差し引いたら何も残らない。クリスマスの時。僕は園田さんにマイペースで、と言った。でも、僕のマイペースにはゴールがない。ただ生活の流れを緩めているだけだ。怠惰の言い訳にすぎない。
僕は読書に集中できなくなった。ぼーっとしていることが多くなった。叔母さんが、こうちゃん最近変よ、どうしたの、と心配してくれたけど、それに答えるすべはない。
◇ ◇ ◇
気の早い桜が咲き始めた三月下旬。叔母さんが、店番をしていた僕に声を掛けてきた。
「こうちゃん、ちょっと頼みがあるんだけど」
「……なんですか?」
「四月早々にね、私の入っているサークル恒例の展示会があるのよ。私も出品するんだけど。でね。この案内を水鳥ちゃんに渡してくれない?」
「……え? でも園田さんは日曜日にはこっちに来るから、その必要はないんじゃ……」
「ああ、私ね。明日からしばらく木馬野に里帰りする予定なの。水鳥ちゃんには直接会えないのよ。だから」
「……ええっ! それじゃご飯はどうすれば?」
「だんながまめだから、なんとかなるでしょ」
「……がーん!」
叔父さんは確かにまめだけど、料理はからっきしだ。僕も、料理に関しては似たり寄ったり。しばらくは、覚悟が要りそうだ。
二日後の日曜日。昼少し前に、園田さんが店にやってきた。叔母さんが不在にするのは事前に連絡を受けてたようで、店に入るとすぐ僕のところへ近寄ってきた。
「松木くん、ちわ。菊枝さんに展示会のパンフがあるって聞いてきたんだけど」
「……ああ、預かってる。これだよ」
案内と言っても粗末なものじゃない。作品のカラー写真が一覧で載ってる、立派なパンフレットだ。
「ありがとう」
園田さんは受け取ると、早速それをぱらぱらめくっていた。そして、あるページで視線が一点に釘付けになった。
「これ……」
「……え?」
園田さんが指さしたところに、鮮やかな赤紫色のショールが写っている。斎藤徳子さんという人の作品らしい。
「どうしたらこんな色が出るの?」
「……僕に聞かないでよ」
「
「……実物を見てみたら、もっとすごいかもよ」
「そうね、とても楽しみ」
園田さんは、その後もしばらくそのページを見つめていたけど、パンフレットをぱたんと畳んで僕の方を向いた。
「松木くん、今日ひま?」
「……あー。ひまと言えばひま。店番だけだから」
「抜けられる?」
「……叔父さんに聞いてみるけど、大丈夫だと思う」
「お昼食べに行かない?」
「……あ、嬉しいな。今食生活が悲惨なんだ」
僕はちょっと浮き浮きした気分で、叔父さんに店を抜けることを伝えた。
着替えて店の外に出ると、園田さんが何やら携帯で連絡を入れている。
「あ、ごめん。ちょっと予約を入れてた」
「……え? お昼の?」
「そう」
「……そんなすごいとこに行くの?」
「うち、よ」
えーっ? どういうことだ?
「あれ? 話したことなかったっけ。わたしの父はレストランのオーナーなの。もっとも、料理はできないけどね。経営の方だけ」
「……はあ。ちっとも知らなかった」
「自慢するわけじゃないけど、おいしいよ。今日はわたしが奢る」
「……ええっ? いいの?」
「松木くんにはお世話になってるから」
「……なんか悪いなあ。でも、楽しみー」
「ふふ」
電車で街中まで出て、にぎやかな繁華街の路地を入る。お洒落な店が立ち並ぶ通りに十数人の列ができていた。その先頭に、園田さんの言うレストランがあった。
「シクロスっていうのが、うちの店。洋食だけど、そんなに堅い店じゃないから安心して」
並んでいるお客さんの横を抜けて店内に入る。若い男性のフロア係がゆっくりと近づいてきた。園田さんの顔を見ると、澄ました顔が崩れた。
「なんだ、水鳥さんか。予約って」
「あ、須藤さん、席はどこ?」
「奥です。案内しますよ」
「お願い。あ、先にオーダー出しとくね。ランチ二つ」
「かしこまりました」
店員に奥に案内される。白いテーブルクロスがかかった四人掛けの丸テーブルに、
『予約』と書かれた札が乗っている。引かれた椅子に腰を下ろす。
見回すと、店内は天井が高くて、しかもとても明るい。白い漆喰が基調の壁と、無塗装の木の調度との組み合わせ。小物や絵画の彩りと配置が工夫されていて、清潔だけど寒々しさを感じさせない。そして、店が年を取るごとに表情を変えることを、ちゃんと計算してある。店の天井には何か所も丸い明かり窓があって、室内なのに中庭にいるような開放的な雰囲気がある。おしゃれでありながら、それが鼻につかない。すごくリラックスできる。
「……へえ。すごいな」
思わず僕が呟いたのを見て、園田さんが聞き返した。
「なにが?」
「……うん。店舗デザインがね」
「そう?」
「……料理が出る前に、もう雰囲気に引き込まれる」
園田さんは嬉しそうに言った。
「これね。父の設計なの」
「……えっ?」
「経営といったって、お金のことだけじゃないもの。店舗の設計、料理のコンセプト作り、客層の調査と戦略展開。それを一手にやるの。トータルコーディネーター。それが父の仕事なの」
「……うーん、かっこいいね」
「そうね。でも厳しいの」
「……どんな風に?」
「中途半端なことはするなっていうのが口癖だから。わたしは一人娘だから、好きなことをさせてくれる。でも、それには必ず責任がついて回るから、覚悟しろって必ず念を押される。小さい時からずっとそう言われてるの。だからなんでも出来るけど、はめを外せないんだ」
そうか……。園田さんの抜群の行動力、意思を貫く強さ。奔放のようでいて、でも一線は踏み外さないこと。それらはお父さんの薫陶のなせるわざか。
しばらくして、小皿に盛り分けられた前菜が運ばれてきた。
「さあ、どんどん食べて」
「……じゃあ、遠慮なく。いただきまーす」
あ、おいしーい! お世辞抜きに、むっちゃおいしい。僕は何も言わなかったけど、僕の表情でそれは見て取れたらしい。園田さんは自分もおいしそうに料理を食べながら、僕がどんどん皿を空にしていくのを楽しそうに見ていた。
スープ、メイン、デザート。どれもけちのつけようがない。おいしいと言わせようという力みがなくて、とても自然。でも食後にちゃんと印象が残る。
食後にカプチーノを飲みながら、はーっと溜息をつく。
「どうしたの? 松木くん? おいしかった?」
「……もう、絶品。毎日来たい」
「なーに言ってんのよ、もう」
そう言いながらも、とても嬉しそうだ。
そこに、厨房にいたと思われるコックさんが帽子を取って現れた。中年の女性。その人に、にこやかに話しかけられた。
「ご満足いただけましたか?」
「……最高です。とってもおいしかったです」
「ありがとうございます。良かったわ。水鳥ちゃん」
「……え?」
僕はその女性と、園田さんを見比べた。あ!
「そう、お母さんなの」
「こんにちは。松木さんね。初めまして。娘がいろいろお世話かけているようで、すみませんね。娘からは常々お話を伺ってます」
「お母さんたら余計なことを!」
園田さんは真っ赤になって、手をぶんぶんと振った。
園田さんのお母さんは、物腰が低くて穏やかな感じの人だった。顔はお母さんに似ているけど、直球系の園田さんとはだいぶタイプが違う。
「……すみません、ご挨拶が遅れて。松木です。よろしくお願いします」
何をよろしく、なんだろう?自分でもおかしいと思いながら、緊張してそれ以上の言葉が浮かばなかった。
「あ、それじゃ失礼しますね。ごゆっくりなさっていってください」
優しい笑顔を残して、お母さんは厨房に戻っていった。お昼の書き入れ時に、わざわざ持ち場を離れて来てくれたのだろう。申し訳ないな、と後ろ姿を見送る。
「……すごいね。お父さんのレストランで、お母さんがシェフとして働く、か」
「違うよ」
目をくりくりさせた園田さんが、首を振って否定する。
「逆。お母さんの料理を、お父さんがどうやってみんなに食べさせるか、そういうコンセプトなの」
「……!!」
「わたしね。クリスマスの時に松木くんに言われたことを、もう一度考えてみたの」
微笑んだ園田さんが、いつもの強い視線で僕の目をじっと見つめる。
「父が厳しかったから、わたしは父のオーダーを満たすために無意識に無理をしてたんだと思う。菊枝さんのノルマもとても厳しいものだったし。でも……」
「……でも?」
「松木くんに言われて、誰のためにというところに気がついたの。父が母のためにこの店を考えたように、わたしも自分のためではなくて、誰かのために布を染めるんだなっていうことに」
「……うん」
「そしたら、吹っ切れたの」
園田さんは、これ以上ないという笑顔を見せた。
「だから。これはわたしのほんのささやかなお礼。ありがとう」
「……そんな。本当に僕は何もしてないよ」
「ううん。そんなことない。でも松木くんはこうでもしないと、お礼を受け取ってくれないと思ったから」
僕はちょっと苦笑いした。確かにそうかもしれない。
「それにね」
「……なに?」
「松木くん、最近元気なかったでしょ。どうしたのかな、と思って。マイペースだけどユーモアを忘れないのが松木くんなのに、ここんところ妙にギャグの切れが悪かったから」
ううう……。うっかり悩み事もできないなあ。
「……そうだね。ちょっと将来のことで悩んでいたかな。大学に入ったところで、僕のプロセスは全部止まっちゃったから」
「そうなの?」
「……もうちょっと時間がかかるかもしれない。いろんなことを整理して、自分の可能性を探す気になるまで」
「大丈夫」
「……え?」
「できるよ。松木くんなら」
園田さんは、僕の目を見つめたままきっぱり言い切った。
「松木くんは、それだけ自分自身を真剣に見ているから。大丈夫」
「……」
この時。僕は園田さんから、すごく大きなものをもらったような気がした。
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