第二章 出会い
(1)
……五月中旬……
入学早々の長い休みが明けて、本格的に学生と講義との格闘が始まった。特に昼前のそれは、空腹と眠気のせめぎ合い。ぶっちゃけて言えば、かったるいけど腹が減って眠れない。教室全体が、何とも言えない虚無感に包まれている。終了のチャイムが鳴ると同時に、ほとんどの学生はそそくさと教室を出ていく。学生の流れが途切れて人影がまばらになった教室で、僕は座ったまま、筆記した講義のノートをぼんやりと眺めまわしていた。その時……。
「松木くん!」
突然頭の上から声が降ってきて、びっくりして後ろを見上げた。ラフな格好の細身の女の子が、いくつか上の席から身を乗り出すようにしてこっちを見ていた。誰だっけと考え込んでいると、その子がぷっと頬を膨らませた。
「園田です。んもう。この前自己紹介したのを、なんにも聞いてなかったの?」
「……んんー、あんなに大勢の名前と顔を、いっぺんに覚えることはできないかと」
「よくその記憶力でこの大学に入れたわね」
おー、言うねえ。普通はここで気分を害するところなんだろうけど、子供の頃からずっとぼけキャラで通していた僕は、この程度では全く堪えない。にやっと笑って受け流した。
「……そうは言っても、ねえ。人の名前を覚えるだけで大学に入れるんだったら、わざわざ勉強する必要ないでしょ?」
園田さんは、僕から変化球が返って来るとは思ってなかったみたいだ。しばらくじっと固まっていたけど、そのうちぷっと吹き出した。
「松木くんて、なんかおもしろいのね」
「……はあ」
「これからお昼でしょ? 一緒に食べない?」
うーむ。珍しいこともあるもんだ。とにかく、僕はこれまで女性に関心を持たれたことがない。ずっと恋愛とは無縁の生活を送ってきた。いわゆる、筋金入りのモテナイ君なのだ。それは容姿よりも、年寄りくさい性格のせいだと思う。趣味は読書。遊びやスポーツには不熱心。口数が少なく、考えは読めない。会話のノリが悪く、他人への積極的なアプローチもない。それはまさしく、偏屈老人そのものだわなー。
そんなことを考えながら、僕は園田さんに促されるまま、並んで学食に歩いていった。何人かのクラスメートが、奇異なものを見るような眼で僕らを見ている。
「……?」
僕は訳が分からず、首を傾げて振り返る。
「……なんか、見られているような」
「気にしないのっ!」
ぴしっと、たしなめるような言葉が飛んだ。無意識に首をすくめると、園田さんがくすくす笑って言った。
「取って食いやしないから」
「……それは勘弁してください。僕はまだ命が惜しいですぅ」
この返事も園田さんのツボにはまったようで、彼女は歩きながらげらげら笑い出した。そうこうしているうちに学食に着いた。定食をトレイに取ってレジで支払いを済ませ、空いていた席に向かい合って座った。
「松木くんて、地元じゃないよね」
不意に園田さんからそう切り出された。
「……うん。○○県の田舎。木馬野ってとこの出身」
「なんで、この大学を受けたの?」
「……さあ、どうしてだろ。この大学の雰囲気が好きだからってことじゃだめ?」
園田さんは困ったような笑いを浮かべた。僕の回答は、はぐらかしだと思ったらしい。その通りなんだけど。
「田舎が嫌いだったの?」
「……そんなことはないよ。都会志向は強くなかったから」
「じゃあ、なぜ?」
まっすぐに切り込んでくるような強い視線。ごまかし続けることはできたんだろうけど、それは園田さんにすごく失礼なことのような気がしたんだ。
「……逃げてきた、のかな。ここに」
僕の答えは予想外だったようだ。園田さんは口をつぐんだまま、じっと僕を見据えていた。また突っ込みが入るのかなと身構えたけど、それ以上の追及はなかった。
「食べましょ。冷めちゃう」
この一言で緊張がほぐれる。その後は、当たり障りのない会話をしながら昼食をとった。
「じゃあ、わたしは講義があるから。またね」
食事が終わると、園田さんは身を翻して走り去った。一人ぼっちになった席で僕は、何が起きたんだろうとしばらく考え込んでいた。
◇ ◇ ◇
それから……。園田さんは時折、僕に話しかけてくるようになった。
園田さんには、独特の雰囲気がある。物言いがはっきりしていて、淀みがない。とても明るいんだけど、集団の中に自分を無条件に埋めてしまうのを良しとしない。きりりとシャープな感じがする。いつもラフな服装で、くるくるとよく動き回り、気さくで好奇心が強い。
クラスメートの多くは、そんな彼女の周辺に自然に吸い寄せられていった。だから園田さんには、すでに友達がたくさんいた。園田さんが僕に話しかけるということは、僕が園田さん以外の人にも話をする機会が増えるということ。外向的ではない僕も、否応なしに会話の輪の中に引きずり込まれることになる。そうこうするうちに。僕は、園田さんも含めたクラスメートに少々のことでは動じないおっとりしたボケキャラの人として受け入れられるようになった。僕の周りは少し賑やかになった。
◇ ◇ ◇
六月の末くらいだったろうか。学食で昼食を食べようとしていたら、向いにぽんと園田さんが座った。
「松木くん、これからご飯?」
「……この状態を見て、もう食事が終ったっていう人はいないでしょー?」
「ぷぷっ」
この頃園田さんは、僕がよく会話を混ぜっ返すことに気が付いてくれるようになった。
「そうだ。松木くんて下宿なんだって?」
「……うん、叔父さんのところに世話になってる」
「叔父さん?」
「……そう。叔父さんの奥さん、つまり叔母さんが、母の妹なんだ。木馬野からこっちに嫁いできたってわけ。その縁を頼ってるんだ」
「叔父さんて、何してる人なの?」
「……庄司アーボルって聞いたことない?」
「しょうじあーぼる? ううん、知らない」
「……オリジナルの木製家具の設計や製作をしてるんだ。店舗も持ってて、僕はそこで店員のバイトをしてる」
「ああ、それでいつも講義が終わると直帰するのかあ」
「……うん。叔父さんのデザインした家具はかっこいいよ。値段は、とても僕らの手に負えないけどね」
「そうなんだ。一度見てみたいなあ」
「……夕方と土日はだいたい僕が店番してるから、気軽に見にきて。それと最近は、叔母さんが草木染めの小物を店に出してる。なかなか味があっていいよ。値段も手ごろだし」
「ふうん?」
園田さんは好奇心を剥き出しにして、顔を突き出してきた。
「その店、えっと庄司アーボルって言ったっけ。どこにあるの?」
「……えーとね」
僕はデイパックの中をごそごそ掻き回して、一枚の名刺を引っ張り出した。
「……叔父さんの名刺だけど、ここに住所や簡単な地図が載ってる。大学からそんなに遠くないよ。電車を使えば、だけど」
僕が渡した名刺をしばらくじっと見ていた園田さんは、ぱっと顔を上げると、勢い込んで言った。
「ねえ、松木くん。今日は講義は最後まであるの?」
「……いや、午後一のだけ。三時前には終わるよ」
「その後は何か予定が入ってる?」
「……何もないよ。店に戻ってすぐ手伝おうかと思ってる。時給制だからね」
「ふーん、意外にがっちりしてるんだ」
「……親に無理を言ってこっちに来たからね。できるだけ負担は減らしたいんだ」
園田さんは、はっとしたような表情を見せた後で、今度はばつが悪そうに俯いた。
「松木くん、ごめん。無神経なことを言ったね。ごめん」
「……いや、気にしなくていいよ。で、なに? 今日店に来たいの?」
「うん。高級家具の店って、ちょっと一人じゃ入りにくいじゃない。へへ」
「……高級家具ってのはちょっと違うと思うけど。僕が店番するくらいだからね」
「でも、一緒に行ってくれると嬉しいな。手をつないでいってとは言わないからさあ」
「……ふっふーん。お駄賃は何かなー?」
「ぶー」
むくれる。からかい甲斐があるなあ。
「……じゃあ、三時に南門のところのコンビニで待ち合わせしようか。それでいい?」
「悪いね。お願いできるかな」
「……ほい」
僕はその時、園田さんが僕の話のどのポイントに食いついたのか分からなかった。まあ、店に行ってみれば分かるな。そう思って、教室に戻った。
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