(2)

 柵止から峠下までの道は、これまでより少し明るく感じる。背の高い木がなくて、木立の茂り方も控えめだ。このあたりには昔、中西という集落があった。段々畑と、わずかばかりの果樹と桑の木。農作業の間に山仕事をする、典型的な半農半林の生活が営なまれていた。だけどこの集落はもともとわずか数戸しかなくて、僕がまだ中学生の時に完全に無人になった。峠下のバス停は中西の集落のためのものだったけれど、無人になった時点で利用者はいなくなった。


 ……ただ一人、みどりを除いて。


◇ ◇ ◇


 ほどなく峠下のバス停に着く。ここから先、森の様相はがらりと変わる。山肌の傾斜は一層きつくなって、道以外はほとんど崖のようになる。山側からは古木が枝を伸ばして、常に道を塞ごうとしている。まるで人の出入りを拒絶するかのような、荒々しい姿。道の傾斜もくねり方もこれまで以上に激しくなり、先が全く見通せなくなる。戸板の集落は、このバス停からまだ八キロ以上先にある。僕がいくら山道に慣れてると言ったって、ここから先に徒歩で行く気はしない。


「……どうしよう」


 人影は見えない。もっと先に行ってしまったんだろうか。それとも本町で下調べをして、結局今日来るのは諦めたんだろうか。溜息をつきながら周囲を見渡すと、バス停から少し奥に入った木陰で、オレンジ色のものが小さく上下しているのが見えた。


「……やっぱりね」


 僕は、予想が当たって安堵した。やれやれ。


 オレンジ色のものは、園田さんのデイパックだった。いつも背負ってるやつ。それから目を離さないようにして、木陰に向かって歩いていく。園田さんは、大きな桂の木の下にしゃがみ込み、両手で顔を覆って俯いていた。僕が近くに来るまで全く気づかなかったみたいで、顔を上げた時に僕がいるのを見て、飛び上がらんばかりに驚いた。


「ま、松木くん!?」

「……全く。何やってるのさー」


 僕の一言めは文句だった。


「……戸板にはそう簡単に辿り着けないよって、あれっほど言ったのに」

「うん……」


 いつもはパワー全開の彼女なのに、すっかりしょげかえっている。羽をむしられて、これから料理されようとしてるニワトリみたいだ。僕は彼女の横に腰を下ろして、一つ息をついた。


「……大変だったでしょ。ここまで来るの」


 園田さんは、見られたくないというように僕から顔を背けて、ぽつりと言った。


「甘かったわ」


 思わず苦笑する。甘かったじゃないだろ。無鉄砲もいいとこだよ。


「……まあ、それが園田さんだから。何となく読めたけどね」

「そんな!」


 園田さんは、一転きつい表情になって僕に向きなおった。その時に、あっ、泣いてたんだなっていうのが分かった。

 無理もない。人気のない知らない山の中を、長時間一人きりでさまよえば、誰だって孤独と恐怖で気が狂いそうになる。いくら元気印の園田さんとはいえ、それには耐えられなかったと見える。ここまではなんとか辿り着いたけど、足がすくんでどうにもならなくなったんだろう。僕は、あえて園田さんが泣いていたことには触れなかった。


「……戻ろう」


 園田さんはすねたようにまた横を向いたけれど、ふーっと息を吐き出して、首を縦に振った。


「そうね。松木くんにこれ以上迷惑はかけられないし。出直すことにする」

「……ありがとう」


 礼を言った僕に驚いたのか、顔をくるっとこちらに向けた。


「え?」

「……いや、意地でも戸板まで行くって言われたら、どうやって引きずって帰ろうかと思ってたからさ」


 園田さんは、ばつが悪そうに小声ですねた。


「意地悪」

「……ははは」


 立ち上がり、大きく伸びをしてあたりを見回す。そしてある一点をしばらくじっと見つめる。これは大事な確認作業だ。記憶を今と擦り合わせなければならないから。


「どうしたの?」


 園田さんが、不安げに僕の視線の先を追う。


「……何でもない。ちょっと……ね」


 曖昧に返事をして、腕時計を見る。もう四時近い。やっぱり徒歩だと、思った以上に時間がかかるな。家に戻る頃には、すっかり暗くなっているかもしれない。できるだけ急いだ方が良さそうだ。


「……さ、急いで戻ろう」

「え? まだ明るいよ? 夏は日が長いんだし、そんなに慌てなくても」

「……園田さんは、山の怖さを知らないんだね。このあたりは山が切り立っているから、山間やまあいの道には日が届かない。日が落ちるのが本当に早いんだ」

「そうなの?」

「……森の中なら、真夏でも五時を回ると足元が危うくなる。六時過ぎたらもう真っ暗だよ。山の中には人家がないから灯りもない。日が落ちたら方向も何も分からなくなる」

 

 これまでのことがあるから、僕が指摘はすぐに理解できたんだろう。園田さんの顔から、さっと血の気が引いた。僕はできるだけのんびりとした口調で言った。

 

「……大丈夫さ。今度は二人だからね。行くよー」

「うん……」


 園田さんも立ち上がって、並んで山道を歩き始める。僕は一つ気になっていたことを尋ねた。

 

「……園田さん、ここに来る時に、何か飲むものを持ってきた?」

「え? いや、何も持ってこなかったけど」

「……喉乾いたでしょ。もう少し行くと水場があるから、そこで水分補給して行こうよ」

「そんなところ、あったっけ?」

「……沢の近くに湧き水が出ているところがあるんだ。このあたりの唯一の給水ポイント」

「それは助かるわー」


 園田さんは、少し落ち着いて余裕が出てきたようだ。表情にいつもの明るさが戻ってきた。


 来る時に立ち寄った水場に着いた。園田さんは、さっき僕がそうしたように、茶椀に水を溜めて一気にごくごくと飲み干した。


「うあー、たまんない! おいしいわああ!」


 頭を左右にぶんぶんと振って、大げさに喜びを表現する。


「……でしょう。運動のごほうび」


 きっと睨みつけられたが、その眼は笑っている。僕は構わず言い継いだ。


「……園田さん、花を摘みに行くなら今のうちに済ませておいて」


 園田さんが、きょとんとした表情になった。通じなかったか。


「……この先、最低でも二時間はかかる。その間、トイレに行くことはできないから。平地があるこのあたりで済ませておいた方がいいと思って」


 今度は、一瞬にして顔が真っ赤になった。うーん、おもしろいなあ。もじもじしながら園田さんが言った。


「ごめん。松木くん、紙がないの」


 言いにくいことを言わせてしまったらしい。でも、我慢したまま歩き続けるよりはずっとましだ。僕はデイパックを探ると、未開封のポケットティッシュを二つ取り出して園田さんに渡した。


「……園田さん、できるだけ傾斜のないところで用を足すといいよ。僕は少し先まで歩いて行ってるから」


 そう言い残して、僕はゆっくり歩き出す。すでに、日差しは赤みを帯び始めている。夕暮れ特有の少し焦げくさいような空気が、微かに流れ始めた。百メートルくらい歩いたところで、後ろからぱたぱたと走り寄る音が聞こえてきた。


「松木くん、置いてかないでー!」

「……ああ、ごめん、ごめん」


 園田さんは歩みを緩めると、僕と肩を並べるようにして歩き出した。僕は、横目でこっそり園田さんを見る。


 園田さんは細身だけど、華奢というよりは筋肉質かもしれない。ちょっと少年を思わせるようなイメージがある。顔つきは端正だけど、とにかく眼力が強い。気弱な人は、見つめられただけですくんでしまうだろう。


 足元を見ると、さすがに靴はトレッキングシューズだ。着古したストレートのジーンズに、薄い萌黄色のTシャツ。ちょっと彼女には地味な感じがするけど、きっと自分で染めたんだろう。その上に、長袖の白い綿シャツを羽織っている。


 肩下まである豊かな髪を、裁ち落とした端布で無造作に束ねて、工員帽のような形の藍染めの帽子をかぶっている。首元が寒かったのか、草木染めらしい黄色のスカーフを緩く巻いて、背中には例のデイパックを背負っている。


 このデイパックは園田さんのお気に入り。帆布で作られた白無地のデイパックを買って、自分で鮮やかなオレンジ色に染め変えたそうだ。こうして見ると、園田さんがどんなに染色にはまっているかがよく分かる。


 僕は園田さんから目を逸らす。


 裏表のないはっきりした物言い。からっとした性格。好奇心が強く、物おじしない。行動力は凄まじい、の一言。思い込んだら、何かにぶち当たって止まるまで突き進む。


 僕には園田さんが眩しかったんだ。僕が自分の中で葛藤してもがいている間、園田さんは自分のしたいことに向かって、躊躇なく走り出していたのだから。外向きの彼女。生命力溢れる彼女。恋愛感情とは別の次元で、僕は彼女に強い憧れを持っていたのかもしれない。


 僕は、もう一度園田さんに視線を戻す。同時に彼女が僕の方を向いたので、目と目がばったり合った。


「わたしに何かついてる?」


 どぎまぎしたのは僕の方だった。言い訳するのはしゃくだったので、ずっと疑問に思っていたことを園田さんにぶつけてみた。


「……えーとね。なんで園田さんは、僕に声をかけてくれたのかなあと思ってさ」


 そう。僕は大学に進学しても、最初は相変わらずだったんだ。教室でも学食でも、クラスメートと話すことはあまりなくって、ほとんど本を読んで過ごしていた。僕は場所こそ違え、高校生活の延長線上にそのまま居続けていた。それが変わるきっかけは、彼女だった……。


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