ルート1 水鳥編
第一章 森を歩く
(1)
ふう。一つ息を吐き出して、目の前を見る。
ここから先は、かなり険しい山道だ。細い田舎道を運転し慣れている地元のタクシーの運転手ですら、あそこには行きたくないと言うくらい、道が細くて路面も悪い。園田さんは車の免許を持ってないから、レンタカーは借りられない。タクシーじゃ金がかかりすぎるし、たぶん悪路を理由に断られるだろう。
公共交通が使えないと分かった時点で諦めてくれてるといいんだけど、なんの十五キロくらいそのうち着くって、勢いで歩いていった可能性が高い。でも、彼女は『街の人』だ。山道のしんどさを知らないはず。たぶん、少し歩いたところでへばるだろう。そう見越して、僕はとりあえず、戸板の方へ歩いていってみることにした。
もちろん、戸板まで歩き続ける気はない。峠下のバス停跡までの約六キロ。その途中のどっかで、園田さんを捕まえられればいいんだけど。戸板までの道は、車で配達に出る父さんに同伴して何度か通っている。でも、歩いて行くのは初めてだ。
◇ ◇ ◇
咲良のバス停までは人の匂いがするけれど、その先は世界が一変する。
丘を越えて下りていくと急激に道が細くなる。小さい栗林を抜けると道は左に折れ曲がり、急にきつい上り道になる。そこから先は、森の胎内と言ってもいいかもしれない。果てしなく続く樹林を貫いて延びている細い道。覆い被さってくる緑の中を、とぼとぼと歩いていく。空気は湿った強い木香に包まれて、遠鳴きするセミと葉擦れの音が、時折沈み込んでくる。真夏のものとは思えない冷気が体を撫でまわす。
ここが整備されたハイキングルートで、大勢の人で賑わっていれば、森林浴を心から楽しめるかもしれない。でも、昼でも薄暗い森の中を独りで歩くのは、子供のころから森に慣れ親しんでいる僕でも苦痛だった。
「……そう言えば。僕は、なぜ帰らなきゃならないと思ったんだろう?」
ここに来る前から、ずっと疑問に思っていたこと。それを考えることにしよう……。
◇ ◇ ◇
僕は、小さい時からのんびり屋だった。
一人っ子だったから兄弟間の競争とは無縁だったし、子供が少ないのどかな田舎の環境では、友達にあえて強い自己主張をぶつける必要もなかった。ほとんどケンカらしいケンカをしたことがない。外を走り回るよりも、本を読むのが好きだった。外で遊ぶのがイヤなわけじゃない。単に、同じ年頃の子が少なくて、機会が多くなかっただけ。誰かに合わせるという必要がなかったから、こんなマイペース人間になってしまったんだろう。
僕は、自分では温和で普通の性格だと思ってる。人嫌いでも、シャイなわけでもない。でも……受け答えの間が悪くてぎくしゃくした会話。口数が少なくてノリの悪いやりとり。それに、僕には押し黙って考え込む癖があるので、陰気だと思われることが多い。無口で退屈な、分からない人っていうのが、一般的な僕への評価だろう。その割には、集団の中でひどく孤立したことはなかった。勉強もスポーツもそれなりにこなすし、頼まれごとはあまり断らない。便利な人、都合がいい人、というのも僕の看板の一つかもしれない。
もう一つ。僕の口が重いのには理由がある。僕には、人には言えない秘密がある。ある力を持っていること。
普通の人がそれを知れば、気味が悪いという印象しか受けないだろう。だから、僕はその力で得たもののほとんどを、封印する必要があった。自分では制御できない力。それを隠し通すために、僕はあえて、無口で、退屈な、分からない人という評価を受け入れることにしていた。その方がずっと気楽だったから。
◇ ◇ ◇
大曲りと呼ばれる長い上り道を登りつめると、峠に出る。峠といっても、道の両脇には大きな
道端の大きな切り株に腰を下ろして、一息つく。考え事をしながら登ってきたせいか、それほど疲れは感じない。あーあ、何か飲み物を持ってくればよかったなー。喉が渇いていたけど、どうしようもない。峠を抜けたら、しばらくは下り道だ。降り切ったところが
僕は立ち上がって、また歩き出す。
◇ ◇ ◇
僕が父さんと大喧嘩をしてまでここを出たのは、僕のことを知っている人たちの中で暮らし続けるのが辛かったから。わざわざ遠い九州の大学を選んで受験したのも、そこには同郷の友人が誰もいないから。僕は、自分ではどうすることもできない力に振り回されて、すごく疲れていたのかもしれない。
叔母さんのところに下宿というのは予定外だったけど、親の仕送りに頼らざるを得ない以上、他に選択肢はなかった。幸い、叔父さん、叔母さんともすごく忙しくて、僕に余計な詮索はしなかった。僕は本当に安心したんだ。
大学は新鮮だった。それに、誰も僕を知らないという安心感があった。僕の独特の話し方は個性と捉えられ、それをあげつらう人は誰もいなかった。僕はのびのびと羽を伸ばすことができた。僕はあまり人付き合いのいい方じゃなかったけど、大学に入ってからは飲み会にも時々出るようになった。人と触れ合う機会が欲しかったのかもしれない。僕は、徐々に自分の力への警戒心を緩めていった。
アルバイトで叔父さんの店の店員を始めたのは、向こうへ行ってすぐ。叔母さんからの提案は渡りに船だった。親の仕送り負担を減らしたい、と言えば聞こえはいいけど、実際は、アルバイトを口実にすれば帰らなくても済むという理由の方が大きかった。でも結局、去年は一度も親から帰って来いと言われなかった。親なりに僕に気を遣ってくれたのかもしれない。僕は正直ほっとしたのを覚えている。
そう。これは僕が帰りたくなかった理由。でも、帰らなければならない理由じゃないんだ。疑問は何も解決してない。
◇ ◇ ◇
下り道を降り切ると、大きな水音が響いてくる。柵止の沢だ。
沢の上にかかっている橋の前後からは、沢に降りられない。沢は両脇が鋭くえぐれたV字谷の底にあって、そこにあるのは見えるのに簡単には辿り着けない。でも水を飲むためにこの沢に下りる必要はない。この先少し歩けば、切り端から出ている湧水があるはずなんだ。前に父さんと一緒に、そこで一服した覚えがある。塩ビのパイプで少し道側に引き込んであって、近くに茶碗と柄杓が置いてあったはず……。
沢を通り越して、記憶にある場所まで辿り着く。岩陰から、ちょろちょろと小さな水音が聞こえてきた。
あった! ここだ。
以前と変わらずに、茶碗と柄杓が置いてある。ただ、随分と長い間使われていなかったらしくて、土と藻で汚れていた。パイプから出る水で茶碗と柄杓をきれいに洗い、細い水流を茶碗に集めて一気に飲み干す。
くーっ、うまいっ! 真夏でも冷たい湧水は、乾いた喉に音をたてて浸みる。
ふーっ。汗が引いて、頭の中がすっきりした。両手を組んで頭の上へ持ち上げ、大きく伸びをする。はあーあああ。
改めて、道の前後を見渡す。園田さんはこのあたりまでで諦めるかなと思ってたけど、思ったより根性があるのかもしれないな。もう少し奥まで行ってみよう。咲良のバス停からここまでが五キロ。ここから峠下のバス停までは、一キロ強のだらだらした上り坂だ。峠下から先は、これまでの道とは比べものにならないくらい難路になる。道行がどれだけハードかは見ればすぐに分かるから、気力が萎えるならそこだろう。
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