(3)

 とりあえず、母さんは納得してくれたらしい。だけど、すぐに表情が曇った。


「でも、戸板はねえ……」

「……え?」


 今度は僕が疑問符を背負う番だった。


「あそこの集落は、もうほとんど人が住んでないの」

「……ええっ!?」


「あそこは若い人がいなくて、年寄りだけしか住んでなかったの。本当の山奥だからね。年寄りだけであそこに住むのは、とっても大変なのよ。買い物一つとっても、車がないとどうにもならないのに、車を持ってたのは酒井のおじいさんだけ。そのおじいさんも、おととし亡くなったから」

「……でも、おばさんはまだ若いんじゃないの?」

「若いと言ったって、もう還暦はとうに過ぎてる。徳子さんは早くにだんなさんを亡くしてるから、ずっと独り暮らしだし。かなりご苦労されてると思うわ」


 母さんは、やり切れないという表情でお茶をすすった。


「二年ほど前からね、町があそこの集落に残っていた人たちに移転を勧めたのよ。町の財政が厳しいので、わずか数軒のお年寄りのために充分な生活補助を続けるのは難しいって言って。本町なら町営住宅の空きはあるし、いろいろとケアもできるからって、ね」

「……うーん」

「それを機に引き払った人もいるし、徳子さんのようにまだ頑張って残ってる人もいるけど、最近ご家族も含めていろいろ人の出入りがあったから。戸板が今どうなっているのか、私は正確には分からないのよ。それにね……」

「……まだなんかあるの?」

「徳子さんのところには電話はあるけど、畑に出てらしてることが多くて、なかなかつながらないの」

「……そうかー。電話連絡も簡単じゃないんだね」

「そう」


 さあ、困った。さしあたって、母さんに聞けばなんとかなると思っていた情報が、母さんからもらえないことが分かってしまった。うーん。作次おじさんに聞くしかないか。どっちにしても、園田さんに無駄足を踏ませないように、急いで連絡を取らないと。僕はデイパックから携帯を取り出して唖然とする。……圏外だ。


 彼女はうちの家電の番号を知らない。困ったなあ。鉄砲玉の彼女のことだ。誰かに住所を聞いて、もう直接現地に向かってるかもしれない。どうやって足取りを掴んだらいいものやら。


 ぼーっと携帯を見つめていた僕に向かって、母さんがまた何やら話しかけてきた。


「そう言えば」

「……うん?」

「こうちゃんは、みどりちゃんを覚えてる?」

「……みどりちゃん、て?」

「そう、木下きのしたの」


 突然、懐かしい名前が母さんの口から飛び出してきた。僕の記憶が一瞬にしてずっと昔にまで引き戻される。それまで日常生活の下に畳み込まれていた思い出が、まるで記録映画のように脳裏に映し出されていく。


「……そりゃあ、ね。小さい時には一緒に遊んでたから」

「最後に会ったのは、いつ?」

「……いつだったかなあ。あ、そういや高二の秋くらいに帰り際に先生に呼ばれて」


 そう、思い出した。あの時、先生にこう言われたんだった。


「……木下が、お父さんの忌引きが終わったのにずっと休んでるから、見舞ってやってくれないかって」

「あれ? じゃあ、その時は会ってないの?」

「……うん。クラスは違ってたし。小さい時と違って、中学、高校の時はほとんど個人的な行き来はなかったからさ」

「そう……」


 母さんは、深い溜息をついて下を向いた。そして言いにくそうに、僕に頼み事を切り出した。


「こうちゃんは、みどりちゃんの家を知ってるのよね? もしこうちゃんに時間があるなら、みどりちゃんの様子を見に行ってくれない?」

「……どうしたの、彼女?」

「ここ数か月、ずっと音信が途絶えているのよ。みどりちゃんと」


 なんだって!? 僕の驚きの表情を見て、母さんが顔を伏せた。


「このあたりは、そんなにたくさんの人がいるわけじゃないから、世間話でだいたいの消息は分かるのよ。でも、最近みどりちゃんを見かけた人がいないの」

「……なんでそんなに長い間放っといたわけ?」


 辛そうな顔をして、母さんが答えた。


「みどりちゃんは、あんまりうちには来ないのよ。一、二か月空いてひょっこりっていうのはこれまでも何度かあったから、気がつくのが遅れたのは確かなの」

「……本当に誰も知らないの? 作次おじさんも?」

「知らないって言ってた」

「……誰か様子を見に行ってないの?」

「それがね」


 母さんは言い淀んだ。


「木下のお父さんとおじいちゃんが、筋金入りの偏屈だったことは、こうちゃんはよく知っているでしょ?」

「……そりゃあ、もう」

「私やお父さん、作次さんも含めて、誰もみどりちゃんの家がどこにあるのか分からないの。こうちゃん以外、だあれも」

「……!!」


 僕は言葉を失った。


 確かに、極端に無口で人嫌いだったみどりの父と祖父は、最低限の食料と生活必需品の買い出しに、ここや本町に出る時以外は姿を見せることはなかった。雇われの杣仕事で日銭を稼ぐ時も、飯場では一言も口を利かず、いつの間にか来ていつの間にか帰るという風だったらしい。だから、町の人たちからひどく煙たがられていた。


 山奥にぽつんと建ってるみどりの家には、電気も、ガスも、水道も、もちろん電話もなかった。新聞や郵便の出入りもなかった。住所が公になることを拒んでいたと勘繰られるくらい、世間から隔絶してたんだ。人付き合いを拒絶していたんだから、その家を訪れる人なんか誰もいなかったんだろう。


 みどりの祖父と同じ年格好の何人かの年寄りだけが、家の場所を知っていたらしい。でも、今はみんな亡くなってしまってるそうだ。町役場でも昔から厄介者の相手は避けていたようで、住民票の戸番はあってもそれがどこか、どうやったら家に辿りつけるのか誰も知らないんだとか。言われてみれば、確かに。僕だけが、みどりの家を知っているのかも。


 再び記憶を巻き戻す。そう、僕はあの時先生に頼まれたことを無視したんだ。確かに同じ年頃の子供の中では、僕が一番みどりの家の近くに住んでいた。小さい頃は時々一緒に遊ぶこともあった。買い出しに来るお父さんについて山から下りてくる時。その短い時間だけが、幼いみどりにとって唯一子供らしく遊べる機会だったんだ。そしてその頃のみどりには、僕くらいしか遊び相手がいなかったと思う。


 でも高校の時はみどりとはクラスが違っていたし、すでにそれぞれの友達、それぞれの世界があって、ほとんど言葉を交わすことはなかった。それに、家が遠いみどりは帰りが異様に早くて、放課後に顔を合わせることもなかったんだ。たいして付き合いもないのになぜ僕が、と先生の言葉に反発して、結局その頼みを反故にした。


 今から思えば。先生は、今の母さんと同じ心配をしたんだろう。自分でみどりの家に出向ければいいんだけど、誰も家がどこにあるのか知らないのだから。そこまで記憶を辿って、ふと疑問を覚えたことがある。


「……あれえ? どうして僕はみどりの家の場所を覚えてるんだろう?」


 母さんは、僕の独り言を聞き逃さなかった。


「こうちゃん、何回も行ったことがあるんじゃないの?」

「……いや、一回だけだよ。それも小学校の一年か、二年の時」

「え? それじゃ、もう場所なんか忘れてるんじゃ……」

「……たぶん、大丈夫だと思う。どうしてか分かんないけど、はっきり道筋を覚えてるんだ」


 ほっとした顔で母さんが聞いた。


「これから行くの?」

「……どうしようかな。園田さんにも連絡を取らないとなんないし」


 僕は、これからどう行動するかを決めあぐねていた。


「……そうだなー。ちょっと作次おじさんのところに寄ってから考えるよ。まだ、日も高いしね」


 ぽんと膝を叩いて立ち上がる。


「……お昼ごちそうさま」

「お粗末様」

「……出かけるね」

「夕食作っておくから、あまり遅くならないようにね」

「……うん」


 念のために、店の電話を借りて園田さんの携帯にかけてみたけど、つながらなかった。登録番号以外、着信拒否にしてるのかな。それとも……。


 なんにせよ、彼女が戸板まで自力で行こうとしているなら、携帯が使えない以上、連絡の手段はない。とりあえずバスに乗って、道々人影を確かめながら戸板まで行くしかない。みどりの家にいくなら、その途中で下車する必要がある。時間がかかることを考えると、作次おじさんと話し込んでる暇はなさそうだな。


◇ ◇ ◇


 店を出ると、外はそれなりに暑くなっていた。僕は駅とは反対方向の、集落の切れ目に向かって歩き出す。一番近い戸板行きのバス停は小高い丘の上にあって、ここからは一キロちょっと離れている。てくてく歩いていくうちに、街暮らしでなまった体が悲鳴をあげ始めた。足が重くなり、汗が容赦なく噴き出してくる。二十分くらいかかってようやく坂を登りきったところで、錆びたバス停が見えてきた。


 バス停の赤茶けたポールを掴んで、やれやれと思いながら時刻表を確認しようとすると……時刻表がない。というより、バス停自体使われている形跡がなかった。母さんの言葉がフラッシュバックした。


『買い物一つとっても、車がないとどうにもならないのに』


 そうか。僕が覚えている交通網はずいぶん昔のものだ。咲良さくらから乗車して、戸板までは四十分くらい。距離にしたら十五キロ弱なんだけれど、細くて険しい山道を縫っていく必要があるので、運転手への負担が大きい。利用者が減った時点で、すぐに廃線になってしまったんだろう。


 僕は、その場にしゃがみ込んでしまった。


「……どうしよう」

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