(2)

 木馬野の本町と違って、ここは本当に小さな集落だ。駅前にある店は数軒だけ。そのささやかな家並みの一番奥に、僕の実家である雑貨屋がある。


 店の少し手前で、一度足を止めた。子供の頃からずっと見慣れている光景。それが今でも変わっていないかどうかを確かめようとして。店の軒先には、色褪せた長い暖簾が下がっている。紺地に大きく白く染め抜かれた文字は、今はすっかり煤けている。でも父さんは、この風情がいいんだと言って絶対に新調しようとしない。


 松木屋まつぎや。それがうちの店の屋号。うちの戸籍上の姓は松木まつきだけど、本来はまつぎ、と呼ぶのが正しいんだそうだ。父さんが、どこですり替わったのかとしきりに悔しがっている。

 うちの店は、かつては由緒ある大きな旅籠で、原井の駅前の集落はほとんどうちの続きだったそうだ。まつぎやという屋号は、うちが旅籠だった頃の名残だ。でも、曾祖父の代で客足が途絶えたのを機に宿を畳んで、代わりに雑貨屋を始めた。田舎で食いっぱぐれないのは間違いなく雑貨屋だろう、と。今で言えばコンビニだ。その読みは正しかった。時代の変化、経済の変化、地域の変化……。いろいろな変化をくぐり抜けて、うちの店はまだ続いてる。


 中に入ろうとして、一瞬立ち止まる。子供のころは、古ぼけた家の造りと客が寄り付きそうにない時代遅れの暖簾がすごくイヤで、学校が引けても家に帰りたくなかったこともある。不思議だなあ。ちょっと家を離れている間に、この風景は現実から憧憬に変わってしまって、とても懐かしく感じる。変なの。自分の家なのにね。


「……ただいまー」


 声を掛けて、店に入る。家を出てから一年以上経ってるけど、店は何も変わってないみたいだ。店内の造作は、さすがに古めかしい。でも母さんがきれい好きでまめなせいか、商品はきちんと整理され、きれいに並べられている。小汚さを感じることはない。父さんが出てくるかなと思って身構えたけど、はーいと言って出てきたのは母さんだった。


「あれー、随分早く着いたのね。夕方に着くのかと思ったのに」

「……ご無沙汰してます」

「なーに他人行儀なこと言ってるの。さっさと上がりなさい」


 母さんは呆れたように、僕を急かして居間へ上げた。居間の佇まいも、僕がここを発った時のままだ。懐かしいけど、僕がいなくなっても何も変わらない空間があるっていうのは、少し寂しい気もする。


「……父さんは?」

「公民館で寄り合いがあって、出かけてる」

「……ふーん、そうなんだ」

「こうちゃん、お昼は食べたの?」

「……いや、まだ。そういや、お腹が空いたかも」

「おそうめんでも茹でましょ。お父さんは、向こうで食べてくるって言ってたから」


 母さんは台所に消えた。居間はしんと静まり返っていて、時計の音と自分の心拍くらいしか聞こえない。なんとなく落ち着かない。十分くらいして、台所で大きな水音が響いた。そのあと、母さんが山盛りのそうめんと薬味とつゆ、ガラスの小鉢をお盆に載せて戻ってきた。


「さあ、伸びないうちに食べましょ」

「……うん」


 食べている間は、僕も母さんも無言だった。そうめんの山があらかたなくなった頃に、母さんが不意に口を開いた。


「菊ちゃんは元気にしてる?」


 菊ちゃんこと庄司しょうじ菊枝きくえさんは、向こうで僕が下宿させてもらっている叔母さん。母さんの妹にあたる。叔母さんは母さんともども、ここ木馬野の出身だ。母さんと叔母さんとはとても仲がいいので、よく電話で長話してた。叔母さんの近況を、母さんが知らないわけはない。僕との話のとっかかりが掴めなかったんだろう。


「……うん、元気だよ。僕のこともいろいろ気を遣ってくれる」

「そう。それは良かった。達樹たつきさんも元気?」

「……元気、元気。二人とも忙しくしてるけど、とっても仲いいし」


 達樹さんというのは叔母さんのご主人。叔母さんは、旅行者として来た叔父さんに見染められて恋愛結婚し、叔父さんと一緒になるためここを離れた。叔父さんは、木製家具の設計や製作をする工房のオーナーをしている。


 がここを離れて九州の大学へ行くと宣言した時、猛反対する父さんを説得するために母さんが出した条件が、庄司の家に下宿することだった。母さんは、無口で親でも考えが読めない僕の大学生活を心配し、僕を下宿させることを叔母さんに頼み込んだんだろう。叔母さんたちには子供がいない。僕は子供と言えるような年齢じゃないけど、実の息子が出来るみたいな楽しみがあったそうで、快く僕を引き受けてくれた。母さんと叔母さんの心遣いで、僕は気兼ねなく大学に通えるようになった。それには、とっても感謝してる。


「大学にはちゃんと通ってるの? 友達はできた?」

「……ちゃんとサボらずに行ってるよ。楽しいもん。友達も、まあそれなりにできたかな」


 母さんは、それを聞いてほっとしたようだ。去年僕が帰省しなかったのは、大学で何かあったせいだと思い込んでいたらしいから。逆に、僕はさっきまで考え込んでいた疑問にまたはまりかけていた。なぜ、今年は帰省する気になったんだろう、と。眉根に皺を寄せて考え込んだ僕の顔を見て、母さんはまた不安になったようだ。僕はそれに気付いて、慌てて話題を変えた。


「……あ、そうだ。母さんに一つお願いがあるんだ」

「え?」

「……僕のクラスメートが一人、こっちに遊びに来たいって言ってるんだ。もし泊めてって言われたら、泊めたげてもいいよね?」


 僕が小さな頃から、家に誰かが遊びに来たり、僕がよその家に遊びに行ったりということはとても珍しかった。だから母さんにとってこの申し出は、意外なだけじゃなくて、僕の成長を見るようで嬉しかったらしい。すぐにオーケーが出た。


「もちろん、かまわないわよ。でも、できれば日程を先に教えてくれると嬉しいな」

「……あー、ごめん。そいつ、もうこっちに来てるはずなんだ」


 母さんが絶句した。慌ててフォローする。


「……いや、そいつは今日は本町のホテルに泊まると思う。明日以降、そいつのスケジュール次第ということで」


 ほっとした様子で、母さんが探りを入れてきた。


「お友達って、どんな子なの?」

「……うん、女の子」


 今度はさっきとは比べものにならないくらい、母さんが慌てふためいた。


「え、えー!? か、か、かかっ、彼女なの!?」

「……違うよ。友だち」


 僕には、百パーセント誤解されるって確信があった。田舎では、年頃の男女に色恋抜きの異性の友達がいるってことは、なかなか理解してもらえない。


「なんていう方なの?」


 少し冷静さを取り戻した母さんが、小さな声で聞いた。


「……んんー、園田さんっていう人」

「園田さん?」

「……そう」

「本当にお友達なの?」

「……そうだよ」


 母さんの尋問は長くなるなーと思ったので、面倒だけど最初から説明しておくことにしよう。


「……母さんは、戸板といたの斎藤さんって人、知ってるでしょ?」

「え? 徳子のりこさんのこと?」

「……そう。僕は向こうに行って初めて知ったんだけど、あのおばさん、実は結構な有名人だったんだね」

「はああ?」


 母さんはあんぐりと口を開けて、僕を見やった。いきなり何を話し始めるんだか、と言わんばかりに。


「……園田さんは、叔父さんの店に来て草木染めに興味を持ったみたいで、店に通いつめてるんだ。叔母さんは、自分で染めた布を使った小物を店に並べてるから」

「そういえば菊ちゃんが、こっちでしてた染めを久しぶりに試してるって言ってたような」

「……うん。それがすっごく評判がいいみたいで。園田さんは、草木染めの方法やコツを叔母さんから教わってるの」

「へえー」

「……でも、叔母さんが言うには、もっとすごい人がいるから、本格的にやるつもりなら一度その人に会ってみたらって」

「もしかして、それが徳子さん?」

「……ぴんぽーん」


 僕の間の抜けたぴんぽーんに、母さんが溜息をつく。


「……園田さんは、実際に展示会で斎藤さんの作品を見て、すごくショックを受けたらしいんだ。こんな作品を作れるのはどんな人だろうってね」

「徳子さんがそんなに名が通っているなんて、初めて聞いたわ」

「……僕だってそうだよ。そんで、僕も後から知ったんだけど、斎藤さんは戸板を離れることはないんだって」

「そうね」

「……草木染めのアートサークルに加入しているんだけど、会合には一切来ないし、グループ展にも作品しか送られてこない。謎の天才ってことらしいんだ」

「それはまた、随分な持ち上げられようね」

「……僕もびっくりしたもん」


 母さんは、まだ腕組みして首をひねってる。どうしても徳子さんのイメージと合わないらしい。


「……でね。園田さんは、そういうのに燃える人なんだよ。うちの実家からそう遠くないって言ったら、こっちに来たいって言い出したんだ」


 僕の苦笑いの意図を、母さんは汲んでくれたようだ。のんびり屋の僕は、昔からいろいろとお願いを押し付けられることが多かった。それは今になっても変わってないのねー、やーれやれっていう風情で。


「……でも、僕は斎藤さんには数えるくらいしか会ったことがないし、面識もないでしょ? それに、斎藤さんが今どうしてるか分からないから、ちゃんと確認を取るまで待ってって、再三言ったんだけどさ」

「それで?」

「……思い立ったらなんとやらで、ブレーキが利かないんだよ、彼女。どうしてもすぐに会ってみたいって」

「ふーん」

「……で、もう来ちゃってるってわけ」


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