序章

(1)

 僕は。僕はどこにいるんだろう。どこへ行くんだろう……。


 日除けを下ろしていても窓から流れ込んでくる熱気が、ふっと途切れて目が覚める。真夏の光の洪水。その中を黙々と走っていた列車が、山あいに入り込んだらしい。


 僕は文庫本を持ったままの左手で、日除けを押し上げる。日差しは辛うじて車窓まで届いていたけれど、山の端でほとんど切り取られた光は弱々しくなり、そのうち気配しか感じられなくなる。


 さっきまでのうだるような暑さが嘘のようだ。窓の外は、深緑の海底のようにほの暗い。ことんことんという走行音が、谷合いを巡って戻ってくる。


 僕は小さなあくびを噛み潰す。それからゆっくり車内に目を戻す。


 登山客らしい年配の夫婦が、通路向こうの座席に並んで座っている。ご主人は窓にもたれかかかって、すっかり寝入っている。ずっと暇を持て余していたらしいおばさんが、すかさず僕の視線を捕まえた。ガイドブックを膝の上に置いて、話しかけてきた。


「大学生?」

「……はい。そうです」

「旅行ですか? それとも里帰り?」

「……里帰り、ですかね」

「ですかね、って。ふふ」


 笑われてしまった。


「ご実家はどちらなの?」

「……木馬野こまのの町外れで、原井はらいってところです」

「原井?」

「……この特急が次に停まる駅で普通に乗り換えて、すぐ次です」

「あら、そうなの」


 会話が途切れる。僕はずっと手にしていた本を畳んだ。


「ご両親は、あなたが帰って来るのを楽しみにしてらっしゃるんでしょう?」

「……さあ。どうでしょうね」


 僕の返事と苦笑いは意外だったらしい。おばさんはちょっと首を傾げた。


「……ここを出る時に、父とぶつかったので」


 なあんだ、という表情で、おばさんは笑顔に戻る。


「子供の独立は当然だとアタマでは分かっていても、ずっとこどもだと思っていた親からすればショックなのよ。でも親元を離れて成長したあなたの姿を見れば、納得するわよ」

「……そんなものですか」

「そうよ」


 おばさんが何かを言い足そうとした時、ご主人が目を覚まして大きく伸びをした。まだ話し足りなそうだったけど、僕がおばさんから目を反らしたのを見て続きを諦めたらしい。今度はご主人に向かって、しきりに何か話しかけている。


 僕は、取り戻した静けさの中で呟いた。


「……帰ってきた、のかあ」


 列車は蛇のように体をくねらせながら、緑の谷底を奥へ奥へと突き進んでいく。僕はしばらくの間、視界から流れ去っていく木立をぼんやりと見ていた。


 車内にアナウンスが流れる。


「間もなく木馬野、木馬野です。お降りの方は、今一度お手回り品をお確かめください。接続列車のご案内をいたします。上り、本田行き普通列車は12時10分の連絡です。御乗換えの方は、降りられたホームでそのままお待ちください」


 列車は短いトンネルを抜けるとすぐに減速し、ホームに滑り込んでいく。短いブレーキ音の後、列車が少しつんのめるようにして止まった。僕は席を立ってデイパックを肩にかけ、先ほどの御夫婦に会釈して列車を降りた。ホームで振り返ると、窓の向こうで、笑顔のおばさんがひらひら手を振っていた。


 ぴっ! 捨て台詞のように、気笛が鳴る。のんびりした駅員の確認動作に苛立つかのように、特急はそそくさとドアを閉めて走り去っていった。


「……さて、と」


 乗り換えの列車が来るまでに十五分くらいある。駅前の喫茶店で何か冷たいものを飲みたいけど、ちょっと時間が中途半端だな。それに、改札を出たら切符を買い直さないとならないし。まあ、いいか。ホームで時間を潰すことにしようっと。


 木製のベンチに腰を下ろし、車内で読んでいた本を開いて視線を落とす。少しして急にホームが騒々しくなったことに気づく。下りの普通列車が着いたらしい。腕時計で時間を確認しようとした時、突然呼びかけられた。


「おい、コウ!」

「……ん?」

「コウじゃないか! 久し振りだなあ! 帰省か? 帰ってくるんなら連絡くれればいいのに。水臭いやっちゃなあ」


 いきなりぽんぽんと話しかけられて驚いたけど、見当はついた。高校時代の友だちだ。


「……ああ。リョウか。久し振りだねぇ」

「むぅ。相変わらずのぼけっぷりだなー。感動薄すぎだぜ、二年ぶりだってのによぉ」


 ぼけてると言われるといい気はしないけど、この気質は生まれつきだからしょうがない。僕のワンテンポ遅い受け応えには、年季が入っている。


「……リョウも夏休みで戻ってきてるの?」

「いや、オレは今日、明日と実家で法事なんだ。だから必ず帰って来いと言われてて、しぶしぶだよ。夏休みはバイトで稼ぎ時なんだけどしゃあないなー」

「……ふーん。そうなんだ。明日向こうに戻るの?」

「そういうことになるかな。おまえは?」

「……とりあえず、しばらくはこっちにいると思う」

「思うって、なにそれ?」


 リョウは、わけ分かんねーという感じで呆れてる。


 そう。今回の帰省。そのわけは僕自身にも分からない。僕は帰るつもりはなかったんだから。去年は帰らなかったし、今年も帰るつもりはなかった。極端に言えば、もう二度と帰らないくらいの気持ちだった。親との考え方の食い違いのこともあったけれど、それ以前にどうしてもここに帰りたくないわけがあったから。でも今回は、理由は分からないけど、帰らなければならない『感じ』がしたんだ。そのことをぼんやり考え込んでいると、リョウの突っ込みが入った。


「おい、コウ! また自分の世界に入り込んでるぞ! オレを置いていくなってば」

「……ああ、すまん、すまん」

「大きな街の大学に行けば、ちょっとは若返るかと思ったのに。かえって、じじむさくなりやがってよー。ったく」


 ううう、反論できない。


「まあ、いいよ。変わってなくてかえって安心したかもな。こっちにしばらく居るならまた連絡するよ。飲みに行こうぜ。向こうの話も聞きたいし。高校のクラスの連中にも声をかけて、プチ同窓会でもやることにしようぜ。あ、携帯持ってんなら番号教えてくれ!」


 一気にまくしたてられてちょっと気圧されたけど、リョウは高校の時もこんな調子だったから、すぐに慣れる。携帯の番号とメルアドを転送し、二言三言話したところで乗り換えの列車が着いた。


「……じゃあ、僕はこれで行くから。また後でね」

「おう。じゃな」


◇ ◇ ◇


 通勤、通学時間以外の田舎の普通列車は、空気を運んでるんじゃないかと思うくらいがらがらに空いている。どこにでも座れるんだけど、先ほどの疑問が頭から離れなくて、立ったままやり過ごす。どうせ次の駅だし。


 使い古された感じの、録音テープのアナウンスが流れた。


「原井、原井です。お降りの方は、運転席側の扉からお降りください。切符は運転手にお渡しください」


 僕が降りると、普通列車はとことこと走り去った。無人駅には僕以外の人影はない。ふーっ。一息ついて、駅舎の階段を下りる。駅を出てすぐの丁字路を右に曲がり、ゆっくりと歩く。僕はまたぼんやりと考え事をしていたようで、話しかけられたことに、すぐには気が付かなかった。


「こうちゃん! こうちゃん!」

「……え?」

「こうちゃんやろ?」

「……あ、作次さくじおじさん」

「久しぶりやな。それにしてん、相変わらずぼけっ倒しとるのお」


 また言われた。ううー。


「……おじさんは元気にしてました?」

「おお、元気やで」


 作次おじさんは、島田モータースという自動車修理工場を切り盛りしている。田舎は車がないとすごく不便なので、人の数だけ車もある。おじさんの工場は、本町のディーラー系を除けば、このあたりでは唯一の修理施設だ。だから、田舎の工場にしてはとても繁盛しているし、とにかく忙しいらしい。


 でも、繁盛する理由はそれだけじゃない。飾らない陽気な性格と、手早く的確な仕事。そしてちょっとお節介が過ぎるくらいの、世話焼きぶり。おじさんを慕って、頼って、毎日たくさんの人が工場に立ち寄って、話し込んでいく。おじさんはどんなに忙しくても、決してそれを拒まない。


 人の輪ができるおじさんのところには、自然にいろいろな情報が集まってくる。インターネットなんか見たことも聞いたこともない田舎の年寄りにとっては、おじさんの工場は大事な情報収集の場所なんだ。工場がサロンだなんて、都会の人には理解できないかもしれないけど。


 おじさんは油まみれの手で額の汗を擦り上げ、人懐こそうに、にかっと笑った。


「親孝行かい?」

「……父さんが何て言うか」

「ははは。何があったかて、子供が帰ってくるんは嬉しいもんやて。あんま、考え過ぎなさんな」


 列車の中のおばさんと同じようなことを言ってるなあと思いながら、僕は夏空を仰いだ。僕が気になっていることは、おじさんの見立てとは違う。でも、それを今言ってもしょうがない。


「……まだ、家に顔を出してないので。また寄らせてもらいますね」

「おう。待っとるで」


 おじさんは麦茶の入ったコップを口元に持っていきながら、僕に目くばせして工場の奥に消えた。


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