二章 Riding Whale
セイゲンの訓練が始まった。幸い、鯨達の飲み込んだ薬の効果が認められたのだ。個体識別タグの付けられた鯨達を一週間後に確認したところ、明らかに症状が改善していた。
訓練用の水槽へ移るわけだが、水菜の言うことにしかセイゲンが反応しないのには、腰水も閉口していた。
「よほど、気に入られたらしいな。」
皮肉にも聞こえる腰水の言葉へ、水菜は返した。
「解剖してやる、なんて言わなかったからだと思います。」
「ふん。まぁ、いい。垂木。訓練槽に移るようセイゲンに命じろ。」
「はい。」
一時はセイゲンを解剖すると断言していた腰水だが、水菜を介してという条件つきではあるにしろ、コミュニケーションが可能と判断した後の、腰水の対応は割り切ったものだった。実際の運用に必要な適性試験を含む、セイゲンの訓練を積極的に行おうとしている。
「セイゲン、訓練槽に移動して。」
「ああ。」
ぶっきらぼうな返事だったが、これまで、いわゆる「鯨語」でどんなに命じても動こうとしなかったセイゲンが、水菜の指示で訓練槽に移動する。
ほぉ、という感嘆にも似た声が、他の研究員の口からもれた。ロープで引きずりでもしない限り、訓練槽に移すこともままならないと思っていたセイゲンが、やすやすと指示に従ったからだ。
「音紋(おんもん)による艦種識別訓練を行う。よく聞いて覚えろ。」
腰水はそう言いながら、戦場各所で集めた敵艦のスクリュー音を、次々とスピーカーから流す。
「モゼドラク級・・・。ハイドラ級・・・。ヴルク級・・・。」
二十種以上のスクリュー音を、艦種名と共に一気に聞かせる腰水へ、水菜は口をとがらせて言った。
「そんな、いっぺんに流しても覚えきれませんよ。」
「お前に覚えてもらうつもりはないぞ、垂木。」
「そんなこと、分かってます。セイゲンが覚えられないって言ってるんです。」
「分かっている。一度に覚えさせるつもりはない。まずは通しで聞かせただけだ。」
少しの間沈黙していたセイゲンだが、水中での鳴き声を人間のものに変換した声が、スピーカーから聞こえてくる。地の声を反映する機能がついており、雌の鳴き声は女性らしく、雄の鳴き声は男性らしく聞こえる、芸の細かい変換装置だ。
「・・・分かった。」
太い、ハスキーな声でセイゲンは言った。
「よし。ではもう一度、今度は一つずつ聞かせるから、それぞれの特徴をよく─。」
「もう分かった。繰り返す必要はない。」
「・・・何だと?」
言葉を遮るように言うセイゲンに、腰水は眉をひそめた。水菜も一緒になってスクリュー音を聞いていたのだが、正直、特徴的な三種類程度が分かったくらいで、あとはどれも同じ音にしか聞こえなかった。
腰水はいぶかしむような表情をあからさまに浮かべながら言った。
「・・・いいだろう。言い当ててみろ。」
水中に、しゅん、しゅん、しゅん、というスクリューの回転音が響く。
「ブレスク級・・。」
腰水の片眉がぴくりと動く。
「・・では、これは?」
「ヴルク級・・・。」
「これは?」
腰水が鳴らすスクリュー音のことごとくを、セイゲンは正しく言い当てて行く。最初ははらはらしながら傍で聞いていた水菜だが、得意気な気分がむくむくと膨らんできた。
「・・・最後だ。」
腰水が音声ファイルをクリックし、スクリュー音が流れる。
「・・・・違う。」
ぽつりと言ったセイゲンに、水菜は思わず聞き返した。
「え? 何が違うの、セイゲン。」
「最初に流した二十種の音紋に、今のは含まれていない。」
「含まれてない・・・?」
水菜は腰水の横顔を見た。腰水は苦々しい笑みを口に浮かべているが、しかし、目だけは異常なほど、好奇心に輝いているように見えた。
「その通りだ。最後に流したのは退役した古い艦艇の音紋だ。最初の二十種には含まれていない。」
水菜は腰水のやり方を批判するように言った。
「今のはフェアじゃありませんよ、腰水さん。聞かせていないものを混ぜるなんて。」
「だが、奴はそれに気づいた。的中率は百パーセントだ。一度聞いただけで、ここまで聞き分けた鯨(やつ)は他にいない。」
「それは、まぁ、そうかも知れないですけど。」
自分のことをほめられているような気すらして、水菜は顔が勝手にほころびそうになるのを必死に我慢した。
「こんな能力を隠していたとは・・・。」
腰水はつぶやくように言った。
その後、数日に渡って行われた各種試験を、セイゲンはハイスコアでクリアしていった。音をたてずに泳ぐ静穏推進、低視界状況におけるクリックスでの障害物把握、大深度への急速ダイブから、果ては友軍潜水艦との連携作戦に関する机上理解まで、各分野における高い能力を、セイゲンは示していった。
数週間が瞬く間に過ぎ、その日、水菜は小型艦艇に乗り込み、不安気な面持ちで海面を見つめていた。通りがかった笹木が、ぽん、水菜の肩に手をやって言った。
「そんな心配そうな顔するな、垂木。」
「笹木さん。」
「使うのは模擬弾だ。実弾じゃねぇから、心配ないって。」
その日行われるのは、魚雷を使った回避訓練だった。海中での行動において、何より重要なのは敵に見つからないことであったが、しかし、見つかった場合には魚雷、爆雷をかいくぐりながら戦闘海域を離脱しなければならない。笹木の言うように、実弾を使用するわけではないことも水菜は知っていたが、それでも、不安をぬぐいきれないでいた。
「そう・・ですよね。模擬弾ですし・・・。」
確かに炸薬を搭載しているわけではないから、当たったとしても死にはしないだろうが、それでもあざの一つや二つ、できるかも知れない。ジルハ曰く、避け損ねて命中すると、息がつまるほど痛いらしい。
水菜は、ブリッジに立つ腰水を見上げた。双眼鏡で遠くの方を見つめている腰水がどんな顔をしているのかここからは見ることができなかったが、優れた能力をあえて隠していたセイゲンへの腹いせに、何かまた意地の悪いことをするのではないかと、そんな不安があるのだ。
笹木は、水菜の考えていることを見透かすように言った。
「腰水もあんな男だが、手ひどく鯨を傷つけるような真似はしねぇよ。」
「そうでしょうか・・・。眉ひとつ動かさず、大量の魚雷を発射しそうな気がしてならないですけど。」
「うーん。ま、そうしないという保証はないが。」
笹木は苦い笑いを浮かべながら言った。
「やっぱり・・。大丈夫かな、セイゲン。」
「でもな。」
真顔に戻りながら、笹木が続ける。
「それをやるのは、何もセイゲンをいじめるためじゃないんだぜ。実戦で生きるのは、生(なま)の経験だけだ。理屈抜きに、ある状況を経験したことがあるかないか、それが命運を分けるんだ。一度も経験したことがないような状況に置かれると、どんなベテランでもやっぱり身体は固まるからな。どうすればいいか。どうすれば正解か、迷う。迷いは遅れを生む。遅れは、ぎりぎりの状況下で致命的だ。どんなときにも迷わないようにするには、あらかじめ経験しておくしかねぇ。これはそういう訓練なんだよ。迷ったら、終わりなんだ。」
笹木は水菜に話しているのだが、目は、遠いどこかを見つめていた。
「笹木さん・・・?」
ふと我に返った笹木は、
「それにな。」
と、笑いながら付け足した。
「あの研究馬鹿が、大事な実験対象を訓練なんかで失うようなこと、すると思うか?」
「ああ。」
水菜は納得した。
「それはないですね。」
「だろ。心配ないって。」
笹木は、ははは、と笑いながら、歩き去って言った。笹木は迷ったことがあるのか、と水菜は尋ねようとしたが、なんだかそれは聞いてはいけないことのような気がして、水菜は言葉を飲み込んだ。
艦内放送にのって、腰水の声が聞こえてくる。
「これより、魚雷回避訓練を始める。発射準備、よいか。」
「準備できています。いつでもいけます。」
艦内放送の背後から火器管制官の返事が聞こえる。
水菜は慌ててブリッジに戻ると、超音波通信のインカムをつけてセイゲンに言った。半径数キロに渡り、水中を伝達する音波を介してコミュニケーションが取れるシステムだ。これを通じて、水中にいる鯨とも会話ができる。
「セイゲン、準備はいい?」
「いつでもいい。」
「気をつけてね。」
「言われるまでもない。」
腰水はセイゲンの返事を聞き終える間もなく、既に魚雷の発射を命じていた。
「一番発射。」
火器管制官が命令を復唱しつつ、魚雷を発射した。ごとん、という鈍い音と共に魚雷が海中に投入される。魚雷はまさに水を得た魚のごとく、その細長い胴を急速に加速させた。
「四番、五番、六番用意。発射から五十三秒後を基準に爆発秒差一でタイマーセット。」
え、というように、管制官は一瞬、腰水の方を見たが、すぐに復唱する。
「了解。・・・タイマー、セットしました。」
「発射。」
「発射!」
間髪を入れずに、腰水が命令する。
「七番、八番用意。」
管制官の見せた動揺が、水菜には気になって仕方がない。撃ち過ぎ、ではないだろうか。たまらずに、水菜が口を開きかけたが、横から声が飛んできた。笹木だ。
「おーい、腰水さんよ、ちょっと撃ち過ぎじゃねぇか。残弾数無視の、本気で沈めにかかる量だぞ、これは。実戦でもここまでばかばか撃つ艦はねぇよ。」
ちら、と笹木を横目で見ながら、腰水は命じる。
「七番発射。着水十二秒後に八番発射。」
「了解。七番発射します。」
腰水はゆっくりと笹木の方を振り向いて言った。
「今回の訓練の責任者は私です。考えうる最悪のシナリオを想定したものです。残弾数を考えれば確かに、現実的ではないかも知れませんが、しかし、実施が不可能な攻撃ではありません。」
「む・・・。」
「それにこれは、セイゲンの性能を図るテストでもあります。どこまで高負荷に耐えられるか、見極めるためにも必要なことです。」
水菜は思わず、腰水に食ってかかる。
「性能って・・・。セイゲンは機械じゃありません!」
「身体が金属でできていないからか? 同じことだ。神経系で統合制御された有機体であるかないかの違いだけで、目的を持った兵器であることに変わりはないんだ、垂木。」
「しかし・・・!」
「一番魚雷、到達します。」
ソナー手の言葉に、水菜は、はっ、となってモニターを見た。セイゲンを示す光点へ、魚雷が猛然と突っ込んで行く。
海中では、セイゲンが魚雷の投入される音を聞いていた。
「一・・・。」
続いて、かなり聞き取りにくかったが、三本の魚雷が同時に海中に落ちる音を聞いた。
「二、三、四・・・。」
セイゲンは魚雷の接近音に意識を集中する。一本目を回避したあと、扇状に網を張るような配置で広がる、三本の魚雷で追い込むつもりなのだろう。
セイゲンは勢いよく鼻道へ海水を取り入れた。海水によって冷えた脳油は比重を増し、おもりのようにセイゲンの体を海底へと引っぱり始めた。尾びれを力強く動かし、セイゲンは海底へと落ち込もうとする身体を支える。
「・・・来た。」
悲鳴のように甲高いスクリュー音をたてながら、一本目の魚雷がセイゲンに迫って来た。矢のように突き進む魚雷を、セイゲンは身をくねらせるようにしてかわした。
続く三本の魚雷が接近するのを見計らって、セイゲンは頭を海底側に、身体をほぼ垂直に立て、急速に深みへと潜り始めた。
ここは大陸棚だ。水深二百メートルまであっと言う間に潜りきると、セイゲンは柔らかい砂地へ腹這いになった。その頭上、はるか上を、目標を失った魚雷が通過して行く。その数秒後、海中に爆音が響いた。等間隔で三回、炸裂音が鳴り響く。
「タイマー・・・。」
時限式で爆発するようセットしていたのだろう。炸薬は少なくセットされているが、それでも凄まじい衝撃波にセイゲンの身体が揺すられる。
「派手に撃ったものだな。終わりか・・・?」
いや、まだだ、とセイゲンは思った。あの腰水という男。この手の訓練では容赦しないタイプだろう。爆音に紛れさせ、さらにだめ押しの魚雷を数本撃ってくるはず・・・。
セイゲンの予測は的中した。
爆音と気泡の音を隠れ蓑のようにしながら、さらに二本、近づく魚雷がある。
「ここは動かず、やり過ごした方がよさそうだな。」
セイゲンは息を潜め、海底の巨大な岩のごとく、みじろぎひとつせずに待った。
艦上では、水菜が青ざめた顔でモニターを見つめている。
「セイゲン、依然ロストしています。」
必死の形相でヘッドセットからの音を聞きながら、ソナー手が言った。
「初弾を回避するまでは反応があったのですが、扇状(せんじょう)に展開した三発が爆発する直前に見失いました。」
「七番、八番、目標ロスト。迷走しています。」
水菜は、腰水を非難すればいいのか、セイゲンを助けてやってほしいとお願いすればいいのか、自分でもよく分からないまま、ふるえる声で腰水に言った。
「こ、腰水さん・・・!」
「・・・・。」
腰水は無言のままだ。腰水はちょっと考えた後、ソナー手に命じた。
「海底をスキャンしろ。」
「了解。」
水菜は腰水を見上げながら言った。
「海底の起伏を示すデータは既にそろっています。なぜまた海底を・・・?」
腰水は水菜をじっと見つめた。言わなくても分かるだろう、という目で自分を見る腰水に、水菜はだんだん腹が立ってきたが、すぐに気がついた。
「セイゲンが海底にいるってことですか?」
「恐らくな。一発目の魚雷を回避した後、海底まで潜ったのだろう。あらかじめ水を吸い込んでおいて脳油を冷やし、一気に下降した・・・。しかも、七番と八番魚雷が来るのを見越して、そのまま海底に張り付いたんだ。」
腰水の言葉を裏付けるかのように、ソナー手が声を上げた。
「・・・海底に岩礁! 先ほどまでなかったものです。」
くっ、と腰水の顔が笑みで歪む。
「抜け目のない奴だ・・・。」
水菜はインカム越しにセイゲンを呼んだ。
「セイゲン! セイゲン、無事? 怪我は? 返事をして!」
「・・・耳元でがなりたてるな。うるさい。」
「セイゲン! よかった・・・! 無事なのね。」
「あの程度ではな。」
腰水がセイゲンに言った。
「急速下降した後、海底で身をひそめたな。上々だ。あれだけの魚雷をよくかわしきった。訓練は終了だ。上がって来い。」
ふん、という鼻息を残し、セイゲンはゆっくり海面へと浮上して行った。
研究所に戻ったセイゲンの背中に乗り、水菜は、がしがしとデッキブラシでその背中をこすっていた。きつい日差しを落としていた太陽は、ほとんど山の向こう側へと沈んでしまい、濃紺の空に星がちらつき始めていた。
「ほんとに、魚雷が爆発した後、君をロストして、ブリッジはちょっとしたパニックになったんだよ。作戦があるなら、あらかじめ言ってくれればよかったのに。」
「魚雷の発射パターンも知らされず、事前に作戦など伝えられるわけがない。」
ブラシが気持ちいいのだろう。セイゲンはゆったりとした口ぶりで答えた。
「そうかも知れないけれど、心配する身にもなってよ。魚雷でやられちゃったのかと思ったじゃない。」
「訓練用の魚雷だ。死にはしない。」
「死にはしないだろうけれど、怪我とかさ。」
「・・・・水菜。」
「何?」
「俺が怪我をするのが心配なのか。」
「当たり前のこと聞かないで。そうに決まってるわ。」
「なぜだ?」
「なぜって・・・。」
「お前達は結局、兵器としての利用価値を俺に見出して使っているに過ぎない。」
「・・・・。」
「だとしたら、怪我をしたところで、また別の鯨を捕まえるなり、育てるなりすればいい。なぜ、心配などをする。予算をかけて訓練した個体を失う、金銭的損失を恐れてのことなのか。」
「金銭的損失って・・・。腰水さんみたいな言い方するのね。そんなんじゃないわ。何と言うか・・・、悲しいのよ。せっかくこうして、人間と鯨っていう隔たりを越えて仲良くなったのに、私達のせいで君が傷つくのはね。君だって、友達や家族が傷ついたら悲しむでしょう。私だってそう。だから、君にも傷ついてほしくない。それだけのことよ。」
水菜はうつむきながら、黙々とブラシを前後に動かしている。
「俺が友人という立場に準ずる、というのか。」
「準ずる、というか、君がどう思っているかは知らないけれど、私は、君を友達みたいなものだと思っているわ。友達、という言い方が変なら、同僚、といったところかしら。」
「水菜、お前は変わっているな・・・。」
「よく言われる。」
「・・・水菜。」
「何?」
「もっと強く磨いてくれ。」
「ええ? 今でもかなり力入れているのに、もっと?」
「強い方が気持ちいいんだ。」
「分かった、分かった。ほっ・・!」
水菜は、ブラシの柄が曲がらんばかりに力強く、セイゲンの背中をこすった。セイゲンは気持ちよさそうに大きく身震いをした。
訓練から数日後、水菜は廊下を曲がりかけたところで、川原とぶつかりそうになった。ぶつかりそうになったというより、川原の胸に半ば頭から突っ込んだかたちなわけだから、ぶつかった、が正しい。
「す、すいません、川原さん・・・。川原さん・・?」
水菜は慌てて頭を下げてから、川原を見た。さっぱりした性格の川原だが、今日は妙に鼻息が荒い。眉間にしわを寄せながら、水菜に言った。
「ああ、ごめん、垂木ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫ですけれど・・、あの、何かあったんですか?」
「え? ああ、顔に出てたか。ちょっとね・・・。・・・垂木ちゃん、今、手空いてる?」
「あ、はい。」
「ちょっとこっち来て。」
「あ、あの・・・。」
川原は水菜の腕をつかむと、ぐいぐいと引っ張るようにして休憩室の隅の方へ水菜を連れて行った。
自販機で紙カップ入りのコーヒーを二つ出すと、川原は一つを水菜に手渡した。ちょっと考えてから、川原はコーヒーにスティックシュガーを一本分、全て注ぐ。近頃では物価の高騰で、砂糖一本が煙草一箱分の値段もするようになっていた。くるくるとかき混ぜたコーヒーへミルクを入れ、複雑な螺旋模様を描きながら広がるミルクを、川原はしばらく見つめていた。
大きなため息をひとつついて、川原は口を開いた。
「あいつら・・・。まるで、使ってやるからありがたく思えって、そう言わんばかりの口振りなのよね。」
「あいつら?」
「そう。本部付きの参謀連中よ。近く、所長から通達があると思うけど、補給物資の輸送任務が命じられるはずよ。」
「輸送任務・・・。それに・・・。」
「鯨(うちの子)が使われるわ。通常艦より静音性に優れるって、散々上申(じょうしん)してきたのに、まるっきり無視だったのよ。獣(けだもの)ふぜいに重要な作戦を任せられるか、とか言ってね。挙げ句、腰水君が用意したデータも、信用できない、のひとことで検討すらされなかったし。」
「そうだったんですか・・・。でも、なぜ今、急にうちへ任務が回ってきたんでしょう?」
「大方、輸送船が足りなくなったんでしょうよ。商用航路に打撃を受けてるのは、自分達のせいだってのに、そのつけをうちに払わせようとしているのよ。腹立つなぁ。・・・でも、これでやっと参謀の連中を見返せるわ。うちの子達の活躍にびびりなさいってのよ。」
「・・・・・。」
「浮かない顔ね、垂木ちゃん。」
手にしたコーヒーを見つめたまま、黙ってしまった水菜をのぞきこむように、川原は言った。
「いえ・・・。今度は、実戦なんですよね。」
「・・・そうね。」
「訓練とは違って、彼らが無事に帰れる保証はないんですよね・・・。」
「無事に帰れる保証はないけれど、怪我をさせるつもりで送り出すんじゃないわ。大丈夫よ。そんなに、やわな鍛え方をしてきたわけじゃない。」
「そうですよね・・。」
「心配なのは分かるけれど、でも、ようやく準備してきたことを実践できるのよ。ここは、最善を尽くしましょ。」
「はい。」
ぐっ、と水菜の口元が引き締まった。川原はそこに、水菜の決意のようなものを見て取り、はっ、となってその顔を見つめた。
「垂木ちゃん。まさか・・・。」
「コーヒー、ごちそうさまでした。」
水菜はぺこりと頭を下げると、休憩室を後にした。
水菜の予想通り、研究所の電算室に片隅に腰水がいた。背中を丸めて、一心に何かを打鍵している。水菜は腰水の背後から話しかけた。
「腰水さん。」
「・・・・・。」
反応がなくても、腰水は話を聞いている。このことに、最近ようやく水菜も慣れてきた。腰水が振り向くのを待たないまま、水菜は続けた。
「今度の輸送任務、私を乗せてもらえませんか。」
外洋航行を伴う輸送任務となると、鯨達に同行する人間が必要となる。船で一緒に行動するのではない。鯨に搭載された、高水圧にも耐えられるポッドに入り、文字通り鯨の背中に「乗る」のだ。
「もしセイゲンに任せるのでしたら、彼とのコミュニケーション上、乗り手は私であることが望ましいはずです。」
腰水は、手を止めないまま言った。
「・・・・セイゲンを出すとはまだ決めていない。それに垂木。お前には経験が足りない。」
「経験は・・・、これから積みます。私にやらせてください。」
腰水は水菜の方を振り向いた。じっと見つめる視線は、まるで氷みたいだ、と水菜は思った。
「鯨を傷つけたくないからか?」
「・・・はい。」
「現場での判断に必要なのは感覚のバランスだ。消極と蛮勇、どちらに傾きすぎても作戦は失敗する。お前は奴らの側に寄り過ぎている。前へ進むことが必要なときに、お前は引き返そうとするだろう。それではだめだ。」
「しかし・・!」
「二度は言わない。」
話は終わった、といわんばかりに腰水は水菜へ背中を向けて、再び自分の世界へと没入しようとした。水菜はその背中へ、ぽつりと言った。
「・・・規格、合う人がいるんですか?」
腰水の手が止まる。鯨への負担を軽減するため、取り付けるポッドはかなり小型に作られているということを、水菜は笹木から聞いていた。乗り手は、小柄であればあるほどいいのだ。その点、水菜はチームの誰よりも有利だった。
「慎重さは、どんな作戦にも必要だと思います。迂遠であっても、無理に押し通ろうとすれば失敗する。彼らの側に立つからこそ、見える世界もあると思うんです。そもそも、ポッドに乗れる人、今さら外部から連れて来る時間なんてないんじゃないですか?」
懸念をずばりと指摘され、腰水は再び、水菜に目を向けた。そうなのだ。極限まで小型化されたポッドに誰を乗せるか、実はそこに腰水は頭を悩ませていた。設計段階から懸念の声はあったが、大出力のエンジンを積んでいるわけでもない鯨への負荷は、小さく押さえる必要がある。その結果が、「乗り手を選ぶ」仕様ということだった。
「本気で志願する、というのか、垂木。」
「本気じゃなければ、腰水さんにこんな話しません。」
腰水の視線が一瞬何もない宙空に注がれ、止まった。腰水は考え事をするとき、いつも斜め左上を睨む。数秒の間に、様々な条件と、もたらされる結果を羅列し頭の中で検証しているのだ。
水菜は、よし、と思った。二度は言わない、と言って話を打ち切った腰水が、再考している。腰水は、新たな条件が加味された場合に、一旦決めた事柄を平気でくつがえす柔軟さも持っているみたいだと、水菜は最近、そう思うようになっていた。これはいける、と水菜が思ったところで、腰水が視線を斜め左上から元に戻した。
「いいだろう、垂木。お前が乗れ。」
「ありがとうございます!」
腰水はうなずくと、今度こそ、自分の作業に戻った。水菜が部屋を出ようとしたところで、意外にも腰水がひとりごとみたいに声をかけてきた。
「気をつけて行け。訓練じゃない。」
「・・・はい!」
水菜は頭を下げて、駆けるように部屋を出た。準備しなければならないことは、山ほどある。
「作戦を説明する。」
インカムから聞こえる腰水の声を聞きながら、水菜は狭いポッド内で海図を開いた。ポッド内は小柄な水菜ですら頭をぶつけそうなほどの高さしかなく、左右にもほとんど身動きがとれない。流線型のポッドは前面がガラス張りになっていて、海中の様子を目で見ることができた。洋上から差し込む光により、海はどこまでも続く淡青色に満ちていた。
セイゲンの背中に設置されたポッドから、ナイロン製の太いロープが伸びている。その先にはこれも流線型の巨大なコンテナがあった。コンテナは、放っておくと浮きも沈みもしない中性浮力が保たれていた。
腰水の声が続く。この任務の発案から実施までの間、期間はわずかに二日しかなく、水菜はこうして移動しながら、初めてその作戦内容を伝えられていた。
「警戒任務中の友軍潜水艦に補給物資を届ける。艦の絶対数が不足している現在、警戒網に穴を開けるわけにはいかない。帰港回数を極力減らすために、洋上でランデヴーし、水、食料、燃料、弾薬その他の物資を送り届ける。敵艦艇も遊弋(ゆうよく)しているはずだ。移動中は海底を這うようにして進め。」
「了解。」
「最新の偵察情報を基に、敵艦のおおまかな予測位置を想定した。航路を現在地から南南西に取れ。オオガキ海道(かいどう)を南進し、合流地点に迎え。」
水菜は海図を見ながら、現在地より少し先にあるオオガキ海道を指でなぞった。左右を高い断崖に挟まれた、文字通り海の道だ。水深は千メートル近い箇所もあり、見つからないよう移動するには最適の地形だった。
「洋上からのサポートはここまでが限界だ。これから先は完全に単独行動となる。・・・武運を祈る。」
「了解。ありがとうございます。」
ぷつっ、という音と共に、インカムからの音声が途絶えた。腰水の、あまり感情を感じ取れない声であっても、聞こえなくなると、静寂に押し包まれるような寂しさを水菜は覚えた。
海の色は淡青色から少しずつ、濃紺に変わり始めている。夜が近い。
「セイゲン、調子はどう?」
水菜はインカムのモードを有線通信に切り替え、セイゲンに話しかけた。
「問題ない。コンテナが時々左右にぶれる感じはするがな。」
「ぶれる? 形状に問題があるのかしら・・? 分かった。研究所に戻ったら、報告しておくね。」
「ああ・・・。」
時折、大きな魚群とすれちがった。銀色にかがやく身体をすばやくひるがえし、それが群れ単位で行われるものだから、さながら、群れがひとつの巨大な生き物みたいに見える。海面は濃い青色の光を発しながら、ゆらゆらととめどなく揺らめいている。
「きれいね・・・。」
「ああ・・。」
「セイゲンはいっつもこんな世界にいるのね。」
「いる、じゃない。いた、だ。」
「あ・・・。」
人間からすれば巨大な水槽も、鯨(彼ら)にしてみれば狭苦しい檻にすぎない。無理矢理、檻の中に押し込めているのが、自分達であるということを思い出し、水菜の心は痛んだ。
セイゲンの身体が突然、傾いた気がした。少し水深を下げ、またすぐ元の深さに戻る。
「どうしたの?」
「道草だよ。」
「道草?」
「いや、道イカだな。」
「イカを食べてたの?」
「そうだ。この辺りのイカは味がいい。」
「へぇー。・・・セイゲンさ。もしかして、機嫌がいい?」
「機嫌の悪いわけがない。」
「だと思った。道イカって・・。セイゲンが冗談言うの、珍しいもん。」
水菜は笑いながら言った。
セイゲンの機嫌がいいことにほっとしながらも、水菜は透明なプラスチックに覆われた手元のボタンを見ると、暗い気持ちがよみがえった。腰水との会話が脳裏にこびりつくようにして離れなかった。
「垂木。敵艦との遭遇や事故によって、航行不能となるダメージを負った場合は、そのボタンを押せ。」
「何ですか、これ。緊急脱出用・・でしょうか。」
「ああ。ポッドが分離され、自動で海面まで浮上するようになっている。」
「分かりました。しかし、航行不能というのは・・・。」
「鯨が致命的な怪我をするか、死んだ時、ということだ。」
「・・・はい。」
「・・・その際、鯨の頭蓋付近に埋め込んでいる炸薬が爆発する。衝撃に注意しろ。」
「爆発って・・どういうことですか。」
「今言った通りだ。鯨を生きたまま鹵獲(ろかく)されるわけにはいかない。脳組織を吹き飛ばした上で、離脱するということだ。」
「そんな・・! 怪我をしているだけでも、ですか?」
「怪我だけじゃない。鯨が逃走を図った場合にも使え。俺達に協力するとなった以上、奴はただの鯨ではなく兵器だ。生きたまま捕まることも、逃走することも許されない。」
「しかし! 爆発なんて、あんまり・・! ・・・このこと、セイゲンは知ってるんですか。」
「伝えていない。伝える必要はないからな。」
「・・・分かりました。」
「押すときは躊躇をするな。お前まで死ぬぞ。」
「・・・はい。」
今、目の前にあるボタンの意味することは、セイゲンの生殺与奪を自分が握っているという事実だ。腰水の手前、分かりました、と口では言ったものの、水菜はそのボタンを押す気はなかった。炸薬が爆発し、ポッドを分離させるためのボタンだ、ということが「分かった」のであって、押すことを認めるものではなかった。
自分たちが、頭に炸薬を仕込んでいることをセイゲンが知ったら、いったいどう思うだろう。今まで、曲がりなりにも築いてきたセイゲンとの絆が、その一事ですべて台無しになる。信頼している振りをしながら、物陰から銃で狙い続けているようなものだ。それは、自分達とセイゲンとの関係性の根底にあるのが、不信と傲慢、従わなければ殺す、敵に捕まりそうになっても殺す、という隷属を強要する事実、それだけだということを示していた。これは何も、腰水だけの独断で行ったわけではないのだろう。しかし、だからこそ水菜は、研究所の、組織としての方針に空恐ろしさと怒りを感じた。結局、セイゲンを生きた鯨ではなく、生きた兵器としてしか見ていないのだと。
水菜は暗い気持ちを振り払うようにして言った。
「・・・そろそろね。オオガキ海道に入るわ。深度を取ろう。」
「よし。」
セイゲンは言うなり、ぐぅ、と水を吸い込んだ。緩やかな角度で深みへと進んでいたが、少したつと、急激に潜り込むスピードが早まった。冷えきった脳油は比重が海水よりも高まり、おもりの役目を果たす。
ほとんど身体を垂直に立てながら、セイゲンはぐんぐん深いところへ潜り続ける。
「すごい・・・!」
水菜は軽い恐怖心すら感じていた。海面の光はあっと言う間に届かなくなり、濃青色の海は漆黒の闇へと変わった。何も見えない暗闇へと、潜る、というより落ちて行く感覚に、水菜は生唾を飲み込んだ。
「これが、君の住むもう一つの世界・・・。」
深度計はすでに九百メートルを越えていた。生身の人間には到達しえない深さであったが、これでも全海洋の平均深度にすら達していなかった。
サーチライトをつけると、海底がぼんやり見えてきた。灰色の砂と、ところどころに突き出している岩礁以外、何もない。まるで、水のない月の海のように、荒涼とした風景だった。
「海底に着いたみたいね。水深1121メートル・・。死の世界ね。」
「人間にとってはな。」
「え?」
「死の世界なんかじゃない。よく見てみろ。」
水菜が海底に目をこらすと、時折、海水が揺らめいている部分を通過した。その下に、何か動くものがある。
「何か、動いてる・・・!」
海老に似た甲殻類が海水の揺らぎに集まるようにして、動いていた。
「熱水が海底から吹き出している。海底火山の活動によるものだろう。奴らはその熱源に集まってきているんだ。死の世界ではない。」
セイゲンは、自分の潜る海が死の世界だなどと言われて、少し腹を立てているみたいだった。語尾にトゲがあるのを感じながら、水菜は海底を凝視した。
よく見ていると、見慣れない生物がそこかしこに見え隠れしている。目の前を、短いイカの胴体に耳と水かきをつけたみたいな、イカもどきとも呼べる奴がふらふらと泳いでいる。
水菜は口を開けたまま、正面の耐圧ガラスに鼻先がくっつくほど前のめりになって、それらの生物を眺めていた。
「色んな生き物がいるんだ・・・。見たことないのばっかり・・。」
「お前達人間をはじめ、太陽の光によって支えられている光合成生態系とは、別の系に属する奴らだ。見慣れなくて当然だろうな。奴らは生存のために太陽光を必要としない点で、俺達とは大きく異なる。闇の住人といったところだろう。」
「闇の住人か・・。何だかその響き、ちょっとカッコいいね。」
セイゲンは海底を這うように、ゆっくりと前に進んでいる。
「ヒトが到底住みえないような深海、酷寒の海、熱暑の砂漠、至るところに生命はある。多くは淘汰され、その種を断たれたが、生き残った者達は子孫を残した。その子らもまた、環境に適しきれなかった個体は種を残す前に命を落とし、より生存に適した者だけが、種を残す。淘汰の過程で生物学的形態は、特有の環境で生きるために特化し、また最適な習性を伝達していった。それぞれの環境で、最適化されつつある過程の中に、今の俺達はある。この過程は環境の変化に応じて、これからも進行するのだろう。お前達はこれを、進化と呼んでいる。」
「進化・・・。私達も進化しているのいえるのかな・・。同じことを繰り返している歴史に、進化の兆候はあるのかしら・・。」
「さぁな。より安全に、より豊かに、という指向性をお前達が維持してきたのは確かだろうがな。それは先史時代から変わらない。自分達の生命を守り、繁栄を享受するために他者を利用し、押し退けようとするのはヒト以外でも、植物にすら当てはまる。ある種の植物は、自らの根を伸ばすために、毒を出して他の根を腐らせると聞いたことがある。闘争は種の本質だ。だが、それも度を越せば自らの破滅を招く。自らの寄(よ)る辺(べ)となる社会的、自然的基盤を壊してしまえば、困るのは自分達だ。全体の調和というものを維持しているといえるのか、俺には分からない。」
「調和か・・。同種同士でこうして戦争なんかやっている時点で、調和とはほど遠いのもかも知れないね・・・。でも、こうやって私とセイゲンは、ある種の調和を果たしたわけだし、不可能なことじゃないと思うのよね。」
「調和というより、利害が一致しただけだがな。契約という方が、より近い。」
「それでもさ。お互いが反目するのではなく、同じ方向を向いて進んでいる現実っていうか。それは大事だと思う。」
「・・・・ふん。」
セイゲンは、笑っているのか、怒っているのかよく分からない声でそう言ったきり、黙った。
水菜とセイゲン、二人が口をつぐむと、途端に静寂が辺りを押し包んだ。海道の底は起伏に富んでおり、なだらかな登り斜面が続いたかと思うと、急に深みへ落ち込んだりした。時折、海底から突き出た岩礁を避けながら、セイゲンは泳ぎ続けた。
一時間ほどもそうして進んだ頃、セイゲンが言った。
「水菜。そろそろだ。」
「え? そろそろって・・? あ、ごめん! そうだった。」
セイゲンは頭をほぼ垂直に、海面方向へと向けた。水菜はセイゲンの潜水能力を目の当たりにし、すっかり忘れていたが、海生生物であるセイゲンといえど、肺呼吸をしているところは人間と変わらない。息継ぎのために、海面まで浮上しなければならない。
「息、大丈夫?」
「ああ。まだ余裕はあるが、早めに行っておく。」
セイゲンは海面に向かって、浮上を始めた。水深の浅い部分、まして海面まで浮上しなければならないこの息継ぎは、海上艦艇などに見つかる可能性を常にはらんでいた。なるべく素早く浮上し、再び海底まで潜らなければならない。
鼻道に空気を送り込み、温められた脳油は比重が低くなる。潜るときにはおもりとなったが、今度は逆に、浮きの役割を果たすのだ。ポッド内にある深度計は、セイゲンの海面へと向かうスピードが加速していることを示していた。
セイゲンのちょうど頭の先にある、上を向いた鼻が水面に達し、勢いよく肺の中の空気が吹き出された。空は降りおちてくるような星に満ちていた。
「すごい・・! 千メートルの深海から、一気に浮上しちゃった。これで減圧症にもならないんだから、生き物の力ってすごいよね。」
大きく深呼吸するように息を整えながら、セイゲンが言った。
「減圧症?」
「そう。人間が海中でタンクから呼吸して、その後、急浮上すると、血液中に気泡ができちゃうの。それが原因で関節痛から、重い時には脊椎内の気泡による麻痺症状まで、いろんな障害が出るのよ。」
「そうなのか。人間は不便だな。」
「陸上で生活する動物だからね、人間は。君がうらやましいよ。自由に深海と海面を行き来したり、世界中の海を泳ぎ回ってみたいって、いつも思うもの。」
「船や潜水艦があるだろう。」
「あるけれどさ。それはあくまでも乗り物を使ってのことで、自分自身の身体で泳いでいるわけじゃないわ。」
「・・・泳ぐ、潜るという原初の行動を身体的機能拡張として実現したにすぎないのだろう。そうした移動手段は。」
「機能拡張・・。実感を伴わないのは残念だけれど、そういうことかも知れないね。」
「・・・潜るぞ。」
「うん。お願い。」
セイゲンは頭を下にすると、再び暗い水底へと潜って行った。
潜水艦、鷲水(しゅうすい)の副長、国岡(くにおか)誠司(せいじ)は発令所内でほのかに漂う匂いに、整った眉をひそめた。
「艦長。発令所で干し柿はやめてくださいと言っておりましたが。」
口ひげをもじゃもじゃと生やした男は、乾燥しきった干し柿を名残惜しそうにかじりながら、国岡を見た。
「干し柿くらい、いいだろう。煙草を吞んでるわけじゃあないんだからなぁ。」
伝声管なしでも艦内に響き渡りそうなくらい、大きな声だ。背は低い。だが、着古して色褪せた制服の上からでも、みっちりとした腕の筋肉の形がわかる、岩のような男だった。これでも少佐であったが、どちらかといえば、海賊の親玉みたいな風貌をしている。
「しかし、隊の者にも示しがつきません。食事はちゃんと取っておられるでしょう。」
「分かった、分かった。そううるさく言うな。あまり細かいことを言っていると、息がつまるぞ。」
発令所の下士官が、彼らから顔をそむけながらにやにやしている。
「規律は規律です。小さなルールなら破ってもよいというたるみが、大きな事故につながるのです。」
「この艦(ふね)に、ミスで事故を起こすようなぼんくらはおらん。」
艦長、飯島(いいじま)はぎろりと国岡を睨んだ。鋭い眼光に一瞬気押された国岡だが、睨み返すようにして言った。
「それは分かっております。規律を絞め直すのが、上官の役割だと言っているのです。」
しばらく睨み合った二人だが、飯島はふと、表情を緩めた。
「航海は長い。お前の言うように絞めることは必要だが、絞め過ぎても本末転倒だ。適度にな。」
ぽん、と肩を叩かれた国岡だが、納得しきっていない顔だった。
それどころか、国岡はいまだに、この鷲水着任を命じられたこと自体、納得できないでいた。士官学校を上位で卒業し、末は軍の上層部へと嘱望(しょくぼう)された身だ。天狗になっていたわけではないが、海軍の中核を担う艦へ乗るものとばかり思っていたところ、鷲水付き副長を命じられた。鷲水は常時、退役候補に上るほどの老朽艦であるのだが、いつもなぜかぎりぎりのところで、退役から除外されるのである。鷲水より新しい年式の艦が、廃艦となったことすらある。
この不思議なおんぼろ艦に着任した当初から国岡は感じていたが、乗員に緊張感というものが欠けていた。ひとことで言えば、たるんでいるのだ。電子機器に影響するから干すなと言ってあるのに、機関室付近はぶら下がったシャツや下着でジャングルのような状態だ。温度が高いものだから、洗濯済みのものを皆、そこへ干すのだ。食料保管室からは乾燥させた果物や飴などの嗜好品がちょくちょく消える。これはどうにも、食料担当の士官が意図的に裏で流している風すらある。
そうした規律違反が見えるものだから、国岡が口を酸っぱくして絞め直そうとしているところへ、艦長の干し柿だった。
この艦は大丈夫だろうか、という国岡の不安は、日増しにつのるばかりであった。
「国岡、そろそろか。」
飯島がひげもじゃの顔を国岡に向けながら言った。
「あ、はい。合流地点には間もなく到着します。到着予定時刻にはまだ早いですが。」
「補給艦を警戒水域内で待たせるよりはいいだろう。浮上用意。」
「了解、浮上用意。」
航海に必要な物資を海上で補給する、というのがこの頃の通例となりつつあった。警戒する艦船の数が絶対的に不足しているのだ。
「しかし、帰れんなぁ。」
飯島がぼやくのを聞いて、国岡は言った。
「警戒網に穴を開けることはできません。水上補給も致し方ないでしょう。」
「艦船の数が、致命的に足りていないんだ。この戦争もそろそろ終わりだ。」
「終わり、とは・・?」
「負けるってことだよ。」
司令部でも、士官学校でも耳にしたことがないその言葉を、飯島が平然と言うものだから、国岡は焦った。
「そのようなことを軽々に口にしないでください。士気に関わります。」
「事実だ。俺が口にしようがしまいが、乗員(他の奴ら)はそのことを肌で感じ取っている。艦が補給のために帰港すらできないようじゃ、完全にじり貧ってことなんだよ。」
「そんなことはありません。最後まで戦い抜くことこそ、私達の義務です。状況は必ず好転します。」
「・・・国岡。本気で言ってんのか? ・・・まぁ、いい。潜望鏡深度まで浮上。周囲を探る。」
「・・・了解。」
鷲水は海面付近まで浮上すると、潜望鏡を上げた。波の穏やかな夜だった。
「・・・艦影なし。まだ早いか・・?」
飯島は潜望鏡を覗き込みながら言った。月明かりに照らされた海面に、他艦の影は見えない。補給艦との合流地点については事前に情報を受けていたが、やってくる艦の詳細までは聞いていない。商用船を改装した、足の遅い補給艦が来るものと思っていた飯島は胸中に不安を感じた。
警戒網を抜いた敵艦が、商用航路だけでなく、補給線をも攻撃する頻度が、このところ高くなっているのだ。ここで補給を受けられないのは痛い。最悪の場合、帰投する前に燃料切れで漂流、などということにもなりかねなかった。
「艦長、接近してくるものがあります。」
ソナー手の言葉で、発令所内に、さっ、と緊張が走った。
「第二種戦闘配備。」
飯島の言葉に、発令所の乗員(クルー)はまるで精密機械のように動き始める。いちぶの無駄もないその動きに、国岡は唖然とした。この艦の戦闘配備を目の当たりにするのはこれが初めてだったが、普段、鼻をほじりながらぼんやりとモニターを見つめるソナー手が、別人のように鋭い顔つきでヘッドセットからの音紋に集中している。
「敵艦か?」
飯島の問いに、ソナー手が答えた。
「いえ、・・・スクリュー音はしません。ただ、金属のきしむような音がわずかに聞こえます。」
「スクリュー音がしない? 鯨か何かではないのか。」
国岡の疑問を、飯島が否定した。
「鯨なら、金属音など出さんだろう。」
「・・・潜航してかわしますか?」
「いや、静音維持のまま相手を見極める。補給艦は来ているか? 場合によっては援護しなくてはならん。」
国岡は、正直、飯島の対応は過敏なのではないかと思った。スクリュー音すら出していないのだ。大型の魚類か鯨の類いである可能性が高いのに、なぜ飯島はここまで警戒するのだろうか。
「艦長、お言葉ですが、本当に敵艦でしょうか? 艦船以外へ、ここまで過剰に対応しなくてもよいのでは・・・。」
飯島が国岡を睨んだ。さっきまでとは打って変わって、その目はぎらぎらと異様な光を放っている。
「過剰と言うか、国岡。状況を判断しなければならない段階で、過剰な対応など存在しない。過剰なくらいがちょうどいい。状況が味方へ有利に働くか、それとも不利に働くのか、どちらに転ぶか分からないんだからな。安易で都合のよい推測は身を滅ぼすぞ。」
「は・・・。」
獣がうなるような低い声で言われた国岡は、そう返事をするのがやっとだった。
飯島はソナー手に近づいて言った。
「金属音の正体は分かるか。」
「・・・何かが漂流しているようでもありますが・・・、ただ、水中を移動しているようです。」
「海面ではなく、か?」
「はい。」
おかしい。漂流物であれば海面を漂っているはずだし、さもなくば、海底に沈むかのどちらかだ。水中を「移動」しているということは、なんらかの人工物である可能性が高かった。
「国岡。一番と二番、魚雷発射用意。」
「・・は?」
国岡は、一気に変容する状況へついて行けない状態だった。思わず、間の抜けた声で聞き返してしまったことを後悔する間もなく、飯島は押し殺した声で怒鳴った。
「魚雷だ! ぼやぼやするな!」
「は、はい! 魚雷発射用意、一番から二番、注水。」
「艦首を接近する物体に向けろ。」
「了解。艦軸転向、左百五十二度。」
「発射口開け。」
「発射口開きます。」
次々と出される指令を、クルーは的確に実行していく。補給艦が近づいていないか、潜望鏡で監視していた下士官が言った。
「浮上するものがあります。艦正面、距離およそ二千五百。」
「敵か。」
国岡がうわずった声で聞く。
「・・・いえ、潜水艦ではないようですが・・、この距離では・・。」
ソナー手が飯島と国岡に向かって言った。
「金属音の音源が、浮上した物体の位置とちょうど重なります。」
「なんなんだ、いったい。」
飯島は、退(の)け、というように下士官をどけると、自身で潜望鏡をのぞいた。確かに、黒い小さな塊のようなものが波間に浮かんでいるが、夜間ということもあり、それが何なのか分からない。
しばらく凝視していると、不意に、ちかちかと物体が光り始めた。発光信号だ。信号のメッセージを読み取った飯島は、にやりと笑いながら言った。
「味方だ。補給物資を受け渡すと言っている。」
国岡が眉をひそめながら言った。
「敵の罠という可能性はないでしょうか・・?」
「それはないだろう。夜間、あんなにチカチカやったんじゃ、味方、敵含め、誰に見つかるか分かったもんじゃない。今日、この場所にいるのが俺達味方だと判断した上で、信号を送ってるんだ。前進半速。目標に接近する。」
鷲水は、星明かりの下、浮上すると、ゆっくり波を切りながら、謎の物体に接近した。
十分に接近したところで、飯島は司令塔上部のハッチを開けて、外に出た。国岡も後に続いて艦上に出る。艦内の蒸し暑くかび臭い空気から解放され、外の新鮮な潮風がたまらなくうまかった。
黒々とした、小さな岩礁のようなものが波間にぷかぷかと浮いている。岩礁の上には魚雷のように流線型をした物体が載っていた。
魚雷様の物体が開いて、中から小柄な人影が出てくる。こちらを見上げて敬礼しながら、人影は言った。
「垂木少尉であります! 鷲水艦長の飯島少佐とお見受けします! 補給物資を届けに参りました!」
夜の海に響く大声で飯島が言った。
「おぅ! 飯島だぁ! 物資輸送、ご苦労! 垂木少尉、乗っているその岩みたいなもんは何だ?」
「鯨であります、少佐!」
「鯨ぁ?」
わっははは、と豪快に飯島は笑った。
「商船を改装した輸送艦が来るものとばかり思っていたが、まさか、鯨に物資をくくりつけてやって来るとはな。」
鯨だって? 国岡は目を見張った。鯨を軍の輸送任務に使うなど、聞いたこともない。鯨に物資を引かせるとは、理屈では分からないでもないが、そもそも、鯨はちゃんと言うことを聞くのだろうか。
「甲板に上がれぃ、垂木!」
飯島はそう言いながら、岩のような身体に似合わぬ素早さで司令塔の梯子を降り、甲板に立った。水菜も、ぴょん、と軽やかに潜水艦の上へと飛び移る。
国岡は水菜を見て驚いた。声からして若いと思っていたが、目の前にいるのは、いかにも大学を出て間もないといった感じの、小柄な若者だった。自分も人のことが言えるほどおとなびているわけではないが、この若さで、一人でここまで任務を担当したのだろうか。
飯島は水菜を見ながら嬉しそうに言った。
「よく来てくれた。危うく、正体不明の艦として沈めちまうところだったがな。」
がはは、と笑うごつい外見の飯島に物怖じするでもなく、むしろ水菜は、こういう人が前線にいるのかと、興味深そうに見つめている。
「識別用のビーコンを出そうかとも思いましたが、音紋が鷲水のものと一致しましたし、浮上して接近すれば友軍であることに気づいてもらえると判断しました。」
「ああ。なかなか度胸が据わってるな。友軍であろうと思ってはいても、あそこまで無警戒に近づけるものじゃあない。」
「おかしな挙動を取れば、怪しまれると思いましたから・・・。」
水菜は、古めかしい海賊のような風貌の飯島にどういうわけか、親近感のようなものを抱き、ちょっとはにかんだ。どことなく、父と雰囲気が似ていたからかも知れない。飯島の背後にいる国岡からは、どうにも腰水と同じ匂いがする。苦手なタイプかも、と水菜は思った。
国岡は、ちら、と腕時計を見て飯島に囁いた。
「艦長。あまり時間が・・・。」
「ん? ああ、そうだな。垂木。搬入の細かい指示はこいつに聞いてくれ。俺は一旦発令所に戻る。」
後は頼んだ、というように国岡の肩をぽん、と叩くと、飯島は艦内に戻って行った。他のクルーが何人か艦上に出て来て、物資搬入口となる大型のハッチを開けにかかっている。中には乗降用に小型のエレベーターがついていて、そこから荷を運び入れるのだ。
「国岡です。この艦の副長を任されています。」
学生みたいな水菜に敬語を使わなければならないことへ抵抗を感じながらも、国岡は礼儀上、あらためて水菜へ敬礼しながら言った。
水菜も背筋をぴっと伸ばし、返礼する。
「垂木です。物資の搬入口はこの一カ所ですか?」
「ええ。ここだけです。早速搬入を始めたいのですが・・。」
国岡はそう言って、黒い水面を見回した。補給艦からの物資搬入は訓練も含め、何度かやったことがあるのだが、水中からの搬入は初めてで、勝手がよく分からない。まして相手は鯨だ。国岡は思わず、心に浮かんだ考えをそのまま言葉にしてしまった。
「口の中にでも入れてるんですか・・?」
「口? というのは、鯨の口、のことですか? 物資をそこに?」
水菜は、続々と水や食料を口の中から出す鯨の絵を思わず想像して、笑ってしまった。
「はははっ。口には入れませんよ。たいして入りませんし、そもそも鯨も嫌がりますしね。」
笑われた国岡は、我ながら馬鹿なことを言ってしまったと後悔した。赤くなった顔を暗闇がごまかしてくれたのが、せめてもの救いだった。
「では、どう運んで来たというんだ。」
腹立ちまぎれに、敬語もどこかへ吹き飛んでしまった。国岡の言葉に、水菜は視線を海面に移した。
「カーゴを引っ張って来たんです。セイゲン、もう少し前進してもらえる? カーゴを接舷する。」
水菜がインカムに向かって言うと、了解、という渋い声が漏れて聞こえた。
「他にもクルーがいるのか?」
「クルーというか、運んでくれた当人というか・・。」
「当人?」
何のことを言っているのか、理解できないといった顔で国岡は聞き返した。目の前の水菜がここまで物資を運んできたはずなのに、当人、という言い方の意味が分からない。
「君が鯨を繰(く)ってここまで来たんじゃないのか。」
「まぁ、そうとも言えるけど、操って、というよりは、セイゲンにお願いして、という方が正しいかも。」
セイゲンの身体がゆっくりと前に進み、引いてきたカーゴが水上に現れた。水菜はカーゴの上に飛び移ると、縦に長いハッチを開いた。ハッチはそのまま鷲水の艦上へ渡す橋代わりとなり、そこにはベルトコンベアがついている。
「コンベアに積み荷を上げるの、手伝ってもらっていいですか? こっちの人手は私しかいないので。」
「ああ、それは構わないが・・。」
国岡は、鷲水上で作業していた数名に合図をして、カーゴの積み荷をコンベアに乗せるよう指示した。クルー達は、セイゲンを物珍しそうに見ながら、カーゴに乗り移った。
「人手は君しかいないだって? 今、そのインカムで会話をした相手がいるじゃないか。」
「「人手」ではないんですよ。だって、この子ですから、会話の相手。」
水菜はそう言って、黒々とした背中を見せているセイゲンを指差した。
「なに・・?」
国岡はセイゲンの背を皿のように見開いた目で見ながら、絶句した。鯨と会話し、軍の任務に当たらせるなど初めて見た。ごく不確かな噂で、鯨を軍用に利用する研究が進められている「らしい」ということを伝え聞いてはいたが、まさか実用化されているとは思ってもみなかった。しかも、隣にいる若い少尉は、普通に鯨とコミュニケーションを取れている様子だ。
慌ただしく食料や水、燃料の搬入作業が進められる中、国岡は水菜に訊いてみた。
「君は話せるのか、鯨と。」
「ええ。翻訳装置を介してですけれど。」
「あの鯨・・、彼、と呼ぶべきか分からないが、彼は自分の携わっている任務の目的も、意味も理解している・・・?」
「はい、理解しています。この潜水艦、鷲水の音紋を聞いて、味方だと判断したのも彼です。」
「まさか、そこまで高度なコミュニケーションが可能になっていたとは・・・。私も彼と会話ができるのか。」
「できますよ。ちょっと人見知りするので、愛想良く、とはいかないかも知れませんけど。」
水菜はそう言いながら、はい、とインカムを国岡に渡した。
国岡は、インカムを受け取りながら、
「名は?」
と訊いた。
「あ、はい。垂木水菜と言います。」
「いや、君ではなく、鯨の。」
自分の名を答えてしまった水菜は、恥ずかしさで顔から火が出そうになりながら、慌てて言い直した。
「ああ。し、失礼しました。セイゲンです。」
「セイゲン・・・。」
国岡はつぶやいてから、インカムのマイクへ語りかけた。
「セイゲン、聞こえるか。この艦の副長をしている国岡だ。ここまでの任務、ご苦労だった。」
「・・・・・。」
「ここは警戒水域のど真ん中だ。遊弋(ゆうよく)する敵艦と遭遇する確率も高い。復路も気をつけてくれ。」
「・・・・・・・。」
「聞こえているのか?」
国岡が、首をかしげながら水菜に向かってそう言った時、インカムから低い声が聞こえてきた。
「・・・聞こえている。言われなくても、気をつける。」
「あ、ああ。鷲水を代表し、礼を言う。」
ぶは、と鼻から潮を吹き、セイゲンは返事の代わりとしたみたいだった。
セイゲンのぞんざいな反応に、水菜はなんだか申し訳ない気持ちになった。
それと。インカムを返す国岡の顔を見ながら、目の前の青年への印象が変わっていることに気づいた。鯨に向かって大真面目に礼を言うところなど、案外、腰水と違っていい人なのかも知れない。
「しかし。」
と国岡は水菜へ言った。
「機械と違い、生物が相手ではいろいろと気苦労も多いだろう。」
「それはありますけれど、でも、私達人間だって体調を管理しなければならないところは同じです。機械だって、メンテナンスを怠れば正常に機能しなくなるんじゃないですか。」
「・・・・我々はいわば、こうした箱の中に身をひそめて、彼らのテリトリーのうわべへ足を踏み入れているだけにすぎないのかもしれん。」
国岡は、鷲水を指しながらそう言った。
「それでも、生物には生物としての限界がある。生物には獲得しえない力を、俺達人間は手にしたんだ。戦場(ここ)は鯨の出る幕じゃあない。」
水菜は、はっ、と身を強ばらせた。鯨は結局、肝心なところで役には立たない、という考えを国岡の言外に感じたからだ。
「出る幕はないとおっしゃいますが、でも、セイゲンはここまでやって来れました。」
「たかが輸送任務だろう。積み荷を引くだけならウミガメにだってできる。」
国岡をちょっと見直してしまったことを、水菜は心底後悔した。水菜は自分でも驚くほどかっとなって、国岡へ言い返した。
「ただ物資を引いただけじゃないんです。敵に見つからないよう海道を通ったり、いろいろと厳しい訓練を受けて、敵の見分け方を覚えたり、役に立つんです、絶対!」
「ほう。ならば、艦艇や潜水艦を撃沈する能力もある、というのか。そのセイゲンに。」
「そ、それは・・・。」
水菜は口ごもった。セイゲンに鋼鉄の艦を撃沈するような能力はない。
「敵を倒せなくては意味がないんだ。上層部の連中も何を考えているか知らないが、鯨の研究なんかに予算を回す余裕があるのなら、新しい艦を一隻でも多く建造すればいいんだ。」
水菜は国岡の顔を見上げながら、歯ぎしりする思いでにらんだ。
物資の搬入作業を行っていたクルーの一人が、国岡に向かっていった。
「副長! 搬入作業、終了しました!」
「ご苦労。潜航準備に入る。搬入ハッチを閉め次第、お前達は艦内に戻れ!」
「了解しました!」
国岡は水菜に向き直って言った。
「物資輸送の任、感謝する。が、さっさとこの海域から離れろ。お前達がうろうろしても、邪魔なだけだ。」
ぴっ、と敬礼をすると、あとは脇目もふらず、国岡は司令塔へと登って行ってしまった。
水菜は、
「邪魔って何よ、邪魔って!」
と、お腹の底が煮えくり返るような思いでカーゴのハッチを閉めにかかった。
水菜の剣幕に、何事かとセイゲンが話しかけてきた。
「どうした、何を怒っている。」
「何でもない!」
司令塔には、再び飯島が姿を見せていた。搬入用のハッチは閉められ、艦上にいたクルーは全員艦内に移動している。潜航の準備は整っていた。
「潜航準備、整いました。」
と、背後の国岡は言った。
「よし。」
飯島はうなずいて、水菜に向かって敬礼をした。
「垂木! 気をつけて戻れよ!」
飯島の声に、水菜はこくりと首を縦に振ってから返礼すると、乱暴にハッチを閉めた。
「何かあったのか・・?」
飯島は首をかしげて、国岡を振り向いた。
「いえ、特に何も・・・。ただ・・。」
「ただ?」
言い淀む国岡へ、飯島はぎろりと目を光らせながら、先を促した。
「・・・鯨などを任務に使う余裕があるのなら、新造艦を造った方がよほどましだと・・。」
「言ったのか?」
「はい。しかし、たかが補給任務ですし、だから鯨程度でもできたのだと・・。」
「補給をないがしろにする軍に勝ち目はないぞ、国岡。その「たかが」補給を受けられなければ、前線は戦わずして腐る。お前は士官学校でいったい何を学んだ。」
「は・・・。」
飯島の圧力に圧倒されるように、国岡は頭を垂れた。
「ふん。鯨程度、か・・。」
波間に消えて行くセイゲンの背中を見つめながら、佐伯も苦労しているのだろうな、と飯島は思った。国岡が今、口にしたような認識は、決して特別なものではない。やはり軍上層部の連中にも、同じような考えを持っている人間がいることは想像に難くなかった。たかが鯨、と。鯨の軍用研究に携わっているという話を伝え聞いていた、かつての戦友の顔を思い浮かべながら、飯島はつぶやいた。
「うまく立ち回らんとつぶされるぞ、佐伯・・・。」
鷲水もまた、星明かりの落ちる海面からゆっくりと、漆黒の水中へその身を沈めて行った。
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