一章 水菜とセイゲン

 列車を乗り継ぎ、駅から歩くこと三十分。田舎に「ど」がつくほど何もないその漁村のはずれに、こつ然とその施設は姿を現した。真夏の暑さを避けるため、鞄を頭にかざしながら、垂木(たるき)水菜(みずな)は小高い丘の上からそれを眺めていた。養殖場にも見える巨大なプールがいくつも並び、それらは水路を通じて海へとつながっている。

 水菜がプールへ目を凝らしていると、ぷかり、と黒っぽい岩のようなものが浮かび上がり、すぐに水中へと消えて行った。それを見た水菜の目が輝く。

 丘を足早に降りると、のんびりした漁村の雰囲気とは裏腹に、軍関係者以外立ち入り禁止、の掲示と、続くフェンスが物々しい。水菜は施設の入り口で浅黒い中年の衛兵に敬礼し、身分証を見せた。

 衛兵は、水菜、身分証、水菜、とゆっくり視線を移してから、

「どうぞ。」

 とだけ言って、水菜を通した。水菜は敬礼を返しながら、入り口のゲートを抜ける。無愛想な衛兵だったが、日焼けした顔といい、射るような眼差しといい、元は漁師ではないかと水菜は思った。

 事務所と思しき建物に入り、水菜は緊張した面持ちで言った。

「垂木水菜です。本日づけをもって、着任いたひました。」

 緊張のあまり、噛んでしまったことを悔いながら、敬礼した状態で直立していると、奥から五十代の温厚そうな男がのっそりと顔をのぞかせて言った。

「ああ、わりかし早かったな。暑かったろう。ま、入んなさい。」

「はい。」

 水菜は、男の優しそうな雰囲気にほっとしながら、案内されるまま奥の部屋へと入った。室内には机がいくつか並んでいるが、中には他に誰もいない。

 水菜の考えを察して男が言った。

「今日はみんな研究所と海洋訓練の方へ出払っててね。夕方頃帰ってくるだろうから、そのとき、皆に紹介する。ああ、私は佐伯(さえき)。ここの所長をやってるよ。」

 ゆる、と水菜に向かって敬礼する佐伯に対し、水菜も、ぴし、と敬礼を返す。

「垂木水菜少尉です。よろしくお願いします。」

「うん。よろしく、垂木君。麦茶、飲むかい?」

「あ、はい。いただきます。」

 佐伯は手ずから、麦茶をコップに注いでテーブルに置いた。佐伯のあまりに自然な態度につい流されてしまったが、上官にお茶を入れてもらっていることに気づいた水菜は、はっ、となって自分が麦茶を入れるべきだったかと思ったが、もう後の祭りだ。

「座りなさい。」

 そう言う佐伯の言葉に恐縮しながら、水菜はくたびれたソファーに腰を下ろした。佐伯もその対面に腰を下ろす。

「何もないところだろう、ここは。」

「ええ・・。でも海が近いのがいいと思います。」

「はは。そうだね。海さえ近ければ、か。その通りだ。海と彼らあってのこの施設だからね。垂木君は、入学当初からここを志望していたのかい?」

 正直に言うべきか、一瞬水菜は迷ったが、この佐伯相手には本心のまま話した方がよさそうな気がした。

「いえ・・・。実は、一般の獣医を志望していまして・・。ただ、家の事情もあって、士官学校の獣医課程へ進むことにしたんです。その後、こうした研究施設で応募があると聞き、志願しました。」

「うん、そうか。士官学校なら、学費はかからないから、そういう選択もあるだろう。一般の獣医とは、かなりおもむきは異なるが、まぁ、動物を扱うことに変わりはないから。動物を扱うことにはね・・・。」

 佐伯はそこまで言って、窓の外へ視線を移した。遠い目だった。

 沈黙が続くものだから、水菜は、何か、気に触ることでも言ってしまったのだろうかと、少し不安になった。

 佐伯は水菜に視線を戻すと言った。

「時勢がこんなときでなければ、いろいろと面白い研究もできるんだけどね。まぁ、必要が発明の母であることを、否定はしないが。」

「は・・・。」

 佐伯が何を言いたいのか、いまひとつ理解しかねている水菜の顔を見ながら、

「研究施設の方、見てみるかい?」

 と、佐伯は話題を変えて言った。

「はい。ぜひ!」

 水菜の顔が、ぱっと輝いた。

「うん。君にはここでお茶を飲むより、その方がいいようだ。あそこに小さな建物が見えるだろう。」

 佐伯の指す方向には、コンクリート造りの四角い建物が、四方をプールで囲まれるようにして立っている。

「あそこに腰水(こしみず)という男がいるはずだから、いろいろ聞いてみるといい。ここの技術士官だ。実際の作戦指揮も兼任している。」

「分かりました。行ってみます!」

「すまないが、私はまだまとめないといけないものがあるから、案内できないが、彼から詳しい話が聞けるだろう。」

「はい!」

 水菜はごくごくと麦茶を飲み干すと、

「麦茶、ありがとうございました!」

 ぺこりと頭を下げ、いそいそと出ていこうとする。

 その背後へ、佐伯が声を掛けた。

「ああ、それとね・・・。」

「は。」

 水菜が振り返り、佐伯の言葉を待つが、佐伯は少し考えてから言い直した。

「いや、行けば分かるだろう。いってらっしゃい。」

「?」

 にこ、と笑う佐伯に送り出され、水菜は部屋を後にした。

 プールとプールを区切る、田んぼの畦のような通路を通りながら、水菜は水の中をのぞいてみた。水槽はかなりの深さがあるようで、水底が見通せないほどだった。時折、気泡が浮かんでくることから、中に「いる」ことは確かなのだが、その姿が見えない。水菜は目を皿のようにしてしばらく水面を見つめていたが、何も姿を現さない。いつまでもそうしているわけにもいかないので、水菜は研究所の建物に入って行った。

 建物を入ってすぐのところにエレベーターがある。行き先ボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。

 エレベーターの扉が開いたとき、広がる光景に水菜は思わず息を吞んだ。

 巨大なアクリル張りの水槽が左右、壁のように続いているのだ。ぼんやりと淡い青色の光を放つ水中に、その姿を捉えられないか、額がくっつくほど近寄って水菜は目を凝らした。

 突然、ほの青い水の奥から、巨大な瞳が水菜の目の前に現れた。

「・・・わぁ・・! 大きい・・!」

 尾の方が視界に収まりきらないほどの巨体だ。二十メートル近くあるだろうか。

「マッコウクジラ・・・! 飼育してるんだ。」

 鯨は、静かな瞳でじっと水菜を凝視している。よく見ると、鯨の体表には傷痕が無数についている。シャチにでも襲われたのだろうか。鼻先の吸盤の痕は、ダイオウイカとの格闘でついたものかも知れない。

「君、野生だったの・・? すごい傷だよ。いつからここにいるの?」

 アクリル壁は厚すぎて、中に声が伝わるはずはないのだが、水菜はつい、話しかけてしまった。

 鯨は水菜を観察するように、じっとその挙動を見つめてから、再び、水槽の奥へと消えて行った。

「すごいな・・。本当に飼育するなんて。」

 水菜はあらためて、巨大な水槽をあおぎ見た。水槽が地下に埋まった状態となっているのだろう。地上から見えたのは、水槽の開口部分に違いない。話には聞いていたが、想像と実際に目にしたものでは大きな違いがあった。

 複雑に入り組んだ研究所内には、セキュリティ上の考慮からか、案内板や部屋を識別するいっさいの表示がなかった。広大な施設を、水菜はぐるぐると歩き続け、ようやく、人の気配を感じて水菜はひとつの部屋に入った。

 白衣を着たぼさぼさ頭の男が、パソコンに向かってしきりと打鍵している。

「本日付けでこちらに配属となりました、垂木水菜少尉です。よろしくお願いします!」

 部屋の入り口で姿勢を正し、敬礼する水菜だが、男は完全に無反応で、黙々と作業を続けている。

 聞こえなかったのかな・・?

「垂木です! よろしくお願いします!」

 一段声を大きくして、水菜はもう一度言った。

 男は、打鍵する右手を止めないまま、左手を面倒そうに上げて、聞いている、と合図を送ると、そのまま振り返りもしなかった。

 水菜は男の側まで近づくと、声を掛けた。

「あの、腰水さんでしょうか。所長の佐伯さんから、腰水さんに案内してもらえと言われてきたのですが・・・。」

 男の手がぴたりと止まった。ようやく相手をしてくれるものと水菜は期待したが、男はデスクの上にあるマイクに口を近づけて言った。

「ジルハ。クリックスの帯域をもう少し低周側に寄せられないか。」

 スピーカーから、女性の声が聞こえてきた。少し固い印象があるが、きびきびとした話し方をする。

「分かったわ。やってみる。」

 男はモニターに映し出されているグラフにぐっと顔を近づけ、凝視している。グラフの変化を見つめながら、さらに注文をつけているようだ。

「もう少し低く。」

「これが限度よ。無茶言わないで。オペラの低音域歌手にでもなれっていうの?」

「オペラとは関係ない。静粛性に関わることなんだ。もう少し練習してみてくれ。」

「はいはい。相変わらず注文の多い人ね。細かいこと気にしすぎる男って、嫌われるわよ。」

 男は、ふん、と鼻で返事を返しながらマイクのスイッチを切ると、立ち上がって水菜の方を向いた。意外と身長がある。小柄な水菜より頭二つ分くらい背が高かった。

「腰水だ。」

 男はそれだけ言って、ぬっ、と水菜に手を差し出した。握手、ということだろうか。

「垂木です。よろしくお願いします。」

 水菜は男の手を握る。細身の身体の割に、腰水の握力は万力みたいに力強くて、水菜は思わず顔をしかめた。

 そのまま無言で歩き出す腰水を、水菜は慌てて追った。

「随分広い研究所なんですね。ここに来るまで迷ってしまって・・・。」

「・・・・・。」

「外は暑いのに、ここは適温ですね。水槽があるせいでしょうか。」

「・・・・・。」

 無口なのだろうか。前を大股で歩く腰水へ遅れまいと、早足で歩く水菜は、その背中を見つめながら思った。かなり偏屈な人みたいだ。佐伯所長が言いかけたのは、こういう人柄だから、注意しろ、ということだったのかも知れない。

 水菜は話題を変えて話しかけてみた。

「あの、さっきのクリックスって、エコーロケーションのクリックスですよね。水中にある物体の位置を、発した音の反射音で特定するっていう・・・。」

「・・・・・。」

「なぜ低周波側に寄せるんですか?」

 腰水は、振り返らないまま話しだした。

「クリックスは潜水艦のピンガーのようなものだ。物体の位置を把握できるが、同時に自分の位置を相手に知らせることともなる。ヒトの可聴域外の音を出せれば位置特定をされずらくなるし、音域のバリエーションを増やすことで個体特定されにくくする効果も期待できる。」

 ビンゴだ、と水菜は思った。この人は、自分の興味が向くことになると、多弁になるタイプだ。

「でも、いきなり低周波を出せって言われても、難しいんじゃ・・・? 素人がいきなりオペラを歌えって言われるようなものですよね。さっきの飼育員の人も、困っていたようですし・・・。」

「飼育員?」

 腰水は足を止めて振り返った。

「何の話だ。」

「さっき、お話しされていたじゃないですか。ジルハさん、でしたっけ? 鯨の飼育担当の方ですよね。」

「ジルハは飼育担当ではない。」

「え? でも、クリックスについて指示を出されていたし、てっきりそうかと・・・。」

「飼育を担当しているわけではない。彼女が、ジルハだ。」

 腰水はそう言いながら、かたわらのアクリル壁を、こん、と拳で叩いた。

「あら、新任の人?」

 スピーカーを通じてさっきの声が聞こえた。アクリル壁の向こう側から、ぬっ、と姿を現したのは、巨大なシロナガスクジラだった。

「・・・! ま、さか・・。」

「初めての人はずいぶん驚くのよね。声の主が、私だってこと知ったら。」

 水菜は水槽に駆け寄り、ジルハ、と呼ばれた鯨と腰水を交互に見た。

 ジルハは、目を見開いたまま驚いている水菜に向かって続けた。

「もちろん、肉声ではないけれど、私の鳴き声の波長パターンを人間の声に変換しているのよ。最初は訓練が必要だけれど、慣れると、まるでヒトが喋ってるみたいでしょ。このシステムのおかげで、コミュニケーションがだいぶ楽になったわ。お腹が空いたわ、とか、ちょっとヒレが強ばる、とか、体調関連のことも正確に伝えられるし。一番ありがたかったのは、音楽の趣味を伝えられたことね。ブラームスが好きなんだけれど、もし、こうやって喋ることができなかったら、伝えようがないじゃない。ブラームスが好き、なんて。いくら飼育員の人と気心が通じているといっても、言葉で伝えなきゃ、そこまで察してくれないもの。あなたは好き? 音楽。」

「ジルハ。」

 腰水が、放っておけば延々と続きそうなジルハのおしゃべりを遮った。

「そのくらいにしておけ。お前のおしゃべりに付き合っているほどこっちは暇じゃない。」

「あら、失礼。つい。じゃあ、またね。」

 ジルハは、まるでウィンクするように一度まばたきすると、ゆっくり水面の方へ上がって行った。

 水菜は、ぽかんと口を開けながら、去って行くジルハに会釈をするのが精一杯だった。

 水菜が気がついたときには、既に腰水が歩き出していたものだから、慌てて、その後を追う。興奮を隠しきれないまま、水菜は腰水へ言った。

「す、すごい! あそこまでコミュニケーションが可能なんて・・・! 誰が、どこで、どんな状況にあるのか、を鳴き声で伝えているところまでは、学校でも習いましたけど、あんなにいろんなことを認識して、表現できるなんて・・! ブラームスが好きだと言う鯨、初めて見ました!」

「あいつは特に喋り好きだからな。気をつけろ。奴のおしゃべりにつきあうと、日が暮れるぞ。」

「はい・・・!」

 そうは言われながらも、日が暮れるまで彼女とおしゃべりをしてみたい。そう思う水菜だった。

 腰水は標識のない部屋を、ブリーフィングルーム、医務室、仮眠室、というように、単語を並べるだけで、機械的にそれぞれの場所を水菜に伝えていった。仮眠室というより、もうそこに誰か住んでるんじゃないか、というくらい、布団や着替え、専門書が散乱している部屋を水菜はのぞきこんだ。恐らく、というかほぼ間違いなく腰水がこの部屋を占有している。水菜はそんな気がした。

 前を行く腰水へ、水菜は気になっていたことを尋ねてみた。

「・・・あの子、ジルハは、この研究所の中で生まれたんですか?」

「そうだ。生まれたときからここで育った。人慣れしてるのはそのせいだろう。」

「ここへ来る途中で見たんですけど、あのマッコウクジラも、ですか?」

「・・・・。奴は違う。なぜそんなことを訊く?」

「いえ、あのマッコウクジラ、体中傷だらけだったから、もしかして野生だったのかな、と思ってたんですけど、やっぱり・・・。」

 腰水は歩みを止めないまま、まるで独り言のように続けた。

「・・・奴はだめだ。」

「だめって・・・?」

「コミュニケーションを取ろうとしない。行動も非協力的だ。近々、解剖に回す。」

 何の感情も読み取れない腰水の背中を見つめながら、水菜は言われた言葉を疑った。解剖、とこの人は言ったのか。

「解剖・・? あのマッコウクジラ、解剖するって、どういうことです?」

「難しいことを言ったつもりはないが。解体して体構造を精密に調査し、今後の研究に役立てる。」

「そんな・・・! それって、殺しちゃうってことですか?」

「殺さずに解剖することはできない。」

「そうじゃなくて、なぜです! 元野生なら、そのまま海に帰してあげればいいじゃないですか!」

「垂木。この研究所の目的は知っているだろう。水生(すいせい)ほ乳類の軍事利用に関する調査研究、およびその実践。奴の捕獲、維持、個体調査へ既に予算が使用されている。このまま何も得ることなく、海へ返すことなどできない。最期まで、有用な情報を提供してもらう。」

 水菜はお腹の底から頭のてっぺんまで熱くなるのを感じながら、腰水にくってかかった。

「でも! それなら、自然死した個体を探すなりすればいいと思います。野生の鯨をつかまえて、役に立たないから殺して解剖するなんて・・・!」

「身勝手だと?」

「・・・はい。」

「ヒトとは本来、身勝手なものだ。脅威となる生物を排除し、有用な生物のみを取捨選択しながら生き残ってきた。実験に供されて命を落とすマウスによって、もたらされている恩恵を考えてみたことはあるか。身勝手だからこそ、今の俺達がある。子供じみた理屈につきあうつもりはない。」

「・・・・・。」

 立ち尽くす水菜を残し、腰水はそれ以上何も言うことなく、もといた部屋へと戻ってしまった。


 その日は一日、水菜はなんだか上の空のまま過ごした。研究所のメンバー紹介もさっぱり頭に入らず、定刻と同時にとぼとぼと家に帰った。

 海を見下ろす山の中腹に、古い木造アパートが建っている。かなり年季は入っていたが、六畳一間の部屋から見渡せる景色が気に入ってここに決めたのだ。熱いシャワーを浴びて少し気分はよくなったが、しかし、腰水に言われた言葉が頭を離れない。

「子供じみた理屈って・・。」

 頭からしたたる水滴を目で追う。自分の言ったことは子供っぽいことだったのだろうか。

「子供とか大人とか、そんなんじゃない・・。」

 そういう問題ではない、と水菜は思う。身勝手だからこそ、ヒトは生き残ってきた。それは確かだったけれど、鯨からしてみれば、いい迷惑だろう。つかまえられて、勝手に協力を請われて、役に立たなければ解剖、だなんて。大人とか子供という話ではなく、結局、立場の問題なんだ。誰の視点から考えるかによって、一つの結末が、身勝手にも合理的にもなる。腰水は人間の側から、人間の立場からものを言った。そこに欠けている鯨側の論理というものを、水菜が指摘しただけなのだ。

「私は子供じゃない・・・。」

 水菜は自分の考えを、子供っぽいと断じてしまった腰水の冷たい視線を思い返していた。なんとかできないだろうか。新任の自分に決定を覆す力などないのは分かっていたが、それでも、水菜は納得できなかった。鯨の解剖に立ち会うために、獣医としてここに来たわけではないのだ。

 翌日、早朝からの勤務は、水菜のそんな考え事を吹き飛ばすのに十分なほど、ハードな肉体労働となった。

「はい、あと五往復ね。」

 つなぎの作業着を着た女性所員が、水菜の押す手押し車にバケツの中身をあけた。大量のイカだった。

「は、はい・・・!」

「助かるわー。人手が足りなくてね。ほんとならもっと男手がほしいところだけど、贅沢言ってらんないし。重労働で悪いけど、頑張ってね。」

 女性所員は屈託のない笑顔を水菜に向けながら言った。きれいな人だと水菜は思ったが、なにより、てきぱきと働く立ち姿が印象的だった。

「はい。えと・・。」

 顔を見つめながら、言葉につまる水菜へ女性所員は言った。

「? ああ、私? 川原(かわはら)よ。そういえば昨日、挨拶できなかったもんね。あなたのこと所長から聞いてるわよ、垂木ちゃん。私はあの子ら(クジラ)の飼育統括やってるわ。さぁ、運んだ、運んだ。あの子ら、食事が遅いと機嫌悪くなるからね。」

「あ、はい!」

 水菜は川原に促され、手押し車を押した。川原は水菜の倍以上の量を満載した手押し車を、どこにそんな力があるのだろうと不思議に思うくらい軽々と運んでいる。水菜はちら、と奥の方で動いているトラックを見た。トラックは荷台がバスタブのように改装されており、荷台を傾けてばしゃばしゃと何かを水槽に放り込んでいる。

 水菜の言いたいことを察したのか、川原は言った。

「あっちはオキアミを運ぶので手一杯だからね。もっとトラックの台数増やしてって、散々言ってるんだけど、予算、なかなか厳しいみたいだから。軍上層のウケもあんまりよくないみたいだし。」

 ちょっと顔を曇らせた川原だが、すぐに明るい声で言った。

「ま、そういうわけだから、人力に頼らざるをえない部分もある、と。いいダイエットになるわよ、きっと。」

 ははっ、と笑いながら、川原はすいすいと手押し車を押して行く。

 プールの縁まで行くと川原は、水槽にイカを放り込んだ。ぬっ、と水面まで昇ってきた鯨が、一息にそれを飲み込んでしまう。もっとちょうだい、というように、大きく口を開けておねだりするような仕草を見せるその個体は、よく見るとジルハ、昨日、水菜が会話した鯨だった。低い、うなるような重低音が響くのに少し遅れて、スピーカーから声が聞こえてきた。

「遅いわよ。お腹空いちゃった。」

「悪かったわね、ジルハ。これだけの量、手配するだけでも難しくなってるご時勢なのよ。アオリイカ多めに入れてあるから、勘弁して。」

「あら。だったら許すわ。」

「・・・好きなんですか、アオリイカ。」

 水菜は川原に言ったつもりなのだが、ジルハが嬉しそうに答える。

「そりゃあもう。これだけ大量に食べてるんだったら、アオリイカだろうがスルメイカだろうが変わらないだろうって思うかも知れないけれど、そうじゃないのよね。何て言うの? 喉越し、っていうのかしら。それが全然違うのよ。アオリイカなら10トンいけるわ。オキアミ派とイカ派で別れるところなんだけど、私は絶対後者ね。だって、オキアミってお腹は膨れるけれど、食べた感じがしないんだもの。食事としてつまらないと思うのよ。あなた達だって、ゼリーとかスープばかりじゃ物足りないでしょ。それと同じよ。だから─。」

「はいはい。おしゃべりはいいから、食べた食べた。作業が終わらないでしょ。」

 川原はジルハが喋り続けるのを遮るように、追加のイカを放り込んだ。ジルハは会話、というより、一方的なおしゃべりを中断して美味しそうにイカを飲み込む。

「ジルハのおしゃべりにつきあってたら、日が暮れちゃうわ。」

「ああ、昨日も同じこと言われました・・・。」

 水菜はそう言いながら、腰水に子供っぽいと言われたこと、解剖待ちとなっているマッコウクジラのことを一気に思い出した。

 急に水菜の表情が暗くなったのを、川原は不思議そうに見つめていた。

 ようやく、餌やりの作業が終わって、地上のプール際でぼんやり水面を眺めている水菜のところへ、川原がやって来た。

「はい、お疲れー。ちょっと早いけど、お昼にしようか。お弁当、持ってきた?」

「あ、はい。おにぎりを持ってきました。」

 そう言って取り出す水菜のおにぎりは、赤ん坊の頭ほどの大きさがある。

「でか! それ、ちょっとおっきくない?」

「え? そうですか?」

 水菜は両手でその巨大おにぎりを持ちながら、首をかしげた。

「具もいっぱい入るし、一個握ればこれで済むし、いいかなと思ったんですけど・・。」

「そりゃ、一個で済むかも知れないけど、食べにくいんじゃない? 食べるというより、かじりつく必要がありそう。Rice Ball なんだか Bowl なんだか分かんないわね、そのサイズじゃ。」

「ボール・・?」

「ジョークよ、ジョーク。それより、これ、試してみる?」

 そう言って川原が差し出したのは、皿に盛られたイカ刺しだ。細く切られた半透明のままの身が、新鮮さを物語っていた。

「あの子達(クジラ)の餌代とはちゃんと予算分けてるから、大丈夫よ。私達の餌代としてね。こうやって醤油をたらして、っと。」

 川原は大きな口を開けて、箸でつかめるだけつかんだイカ刺しを頬張った。

「んー、最高ー。漁師並の役得よね。新鮮なイカが食べられるなんて。ほら、垂木ちゃんも食べて、食べて。」

「ありがとうございます。いただきます。」

 勧められた水菜も、イカを口に入れてみた。ぷるぷると柔らかい身の味が口中に広がった。

「美味しい・・・!」

「でしょ。あー、仕事明けならこれで一杯やれるのにな〜。・・・一杯ぐらいなら、ばれないかな?」

 そう水菜に尋ねる川原の顔があまりに真剣なものだから、水菜は驚いて言った。

「だ、だめですよ。ばれますって。」

「だよね〜。我慢するしかないかぁ。」

 川原はそう言いながら、ひょいひょいとイカを口に運び続けている。鯨みたいに食べる人だな、と水菜は思った。

 川原はイカ刺しを食べきると、満足そうに足を投げ出して座りなおした。

「あー、美味しかった。・・・それで、垂木ちゃんはうまくやっていけそう? ここで。」

「あ・・はい。」

「まぁ、来たばっかりだし、まだなんとも言えないか。」

「・・・あの、川原さん。」

「何?」

「野生のマッコウクジラを捕獲、・・・してますよね。」

「ああ、セイゲンね。」

「セイゲン・・・?」

「捕獲した雄のマッコウクジラの名前。通しナンバーだけじゃ覚えにくいから、通称としてつけてる名前よ。」

「その・・・セイゲンは、解剖されてしまうんですか?」

 川原の顔が、ふっ、と曇った。

「それ、誰に聞いたの、って、あれか。腰水あたりに聞いたのか。」

「・・はい。」

「そうね。解剖行きは、ほぼ確定してるわ。」

「確定・・・。川原さんは、反対じゃないんですか。元野生の鯨なら、海に帰せばいいのに・・。解剖なんて・・・。」

「もちろん、反対はしたわ。それぞれ個性がある、かわいい子達だもの。でも、研究所(ここ)の目的からすれば、仕方のないことでもあるのよ。さっきの餌の量、身をもって感じたと思うけれど、ただここに彼らが居る、というだけで、莫大な予算がかかるのよ。有用性を証明できなければ、何らかの対処をするしかない・・・。」

「対処って、殺すってことですよね。腰水さんも同じようなこと言ってましたけど、でも、いきなり連れて来られた彼にしてみれば、理不尽じゃないですか。何もしてないのにつかまって、有用性がないから殺すとか決めつけられて・・・。なんとかできないんでしょうか。」

 川原は、水菜と目を合わせなかった。

「慈善事業じゃないのよ。無理なものは無理だわ。」

 川原の言葉は固く、冷たかった。冷たい言葉で言い切ってしまわないと、川原自身、やりきれない思いの行き場を失いかねなかった。自分がつぶれないための、自分をつぶさないための意図した冷徹であることを、水菜に分かってもらう余裕は、川原にもなかった。

 水菜は、悲しい気持ちで川原の横顔を見つめていた。

「さて。」

 川原は重い沈黙を振り払うかのように立ち上がりながら言った。

「午後からは検診よ。一頭、頭痛を訴えている子がいるの。手伝ってくれる?」

「あ、はい・・・。」

「ありがと。じゃ、またあとでね。」

 川原が去ってからも、水菜の沈鬱なまなざしが晴れることはなかった。

 

 所員がぽつぽつと帰宅し、ひとけの少なくなった研究所内を、水菜は足早に歩いていた。後ろめたいことをしているわけではなかったが、何となく他の所員に見られるのを避けたかった。目指しているのは、セイゲンの槽(そう)だ。

 一番奥まったそこへ着くと、水菜は水中スピーカーのスイッチを入れた。とんとん、と軽くヘッドセットのマイクを叩き、スイッチが入っていることを確認する。

「・・・セイゲン。セイゲン。聞こえてる? 私、垂木よ。初日に一度だけ顔を合わせたかも知れないけど、新しくここに着任したの。・・・・。いきなり連れてこられて、強制的に協力しろと言われても納得できないかも知れないけど、協力しなかったら、君、解剖されちゃうかもって話はもう聞いてる? 私、こんな理不尽な話、ありえないと思ってるんだけど、私の力じゃどうしようもできないの。でも、もし君が協力してくれて、私達とうまくやっていけるのなら、解剖とか、そんなひどい話、白紙に戻るかも知れない。ねぇ、セイゲン。私達とコミュニケーションを取ろうとしない気持ちも分かるけど、せめて、君が何を考えているのか、教えてくれない? 私にも何かできることがあるかも知れない。」

 水菜は一気にそこまで言って、セイゲンの反応を待った。水槽の中は薄暗く、そこにセイゲンがいるのかすら定かではなかった。

「もし聞こえてたら、返事をして。君が何を考えているのか、何をしたいのか分からないと、君の力になれないの。お願いセイゲン。」

 しかし、返ってくるのは冷たい沈黙だけだった。

 人の足音が近づくのが聞こえる。誰か来そうだ。

「セイゲン。また来るわ。」

 水菜は急いでそう言うと、スピーカーのスイッチを切って、その場を離れた。

 二日目も、セイゲンの反応はなかった。青黒い水中に動く気配はない。

 三日目。いくら呼びかけても、話しかけても反応のないセイゲンに、やはり駄目なのか、と水菜の背筋を無力感が這い上ってきたときだった。

 す、と水槽のアクリル壁に巨大な影が浮かび上がった。静かな目をまっすぐに水菜へ向けながら、ヘッドセット越しに声が聞こえる。

「・・・お前、獣医といったな。」

 セイゲンに呼びかけていたとき、その話をした気もする。水菜はこくこくとうなずいて言った。

「うん。そうよ。まだ新米だけど、獣医課程を出てるわ。やっと・・・、話してくれたね。」

「勘違いするな。お前達の種を信用したわけじゃない。」

「・・・・。」

「だが、お前は他の人間とは少し違うようだ。馬鹿馬鹿しい実験をやらせようとする奴ばかりだったが、自分の身の上話をする奴はお前が初めてだ。」

 セイゲンに続けてきた壮大な独り言を思い出して、ちょっと顔を赤らめながら、水菜は言った。

「お互いの理解が必要だって思ったの。だから・・・。ねぇ、セイゲン。私に何か、できることってないかな。たいしたことはできないかも知れないけど、この状況を変えるきっかけくらいにはなるかも知れない。」

「お前はなぜ、俺に肩入れする。何の益があって、俺の死を食い止めようとする。」

「え・・? なぜって・・。」

 なぜなのか、とあらためて言われ、水菜は言葉につまった。なぜか、など考えたことはなかった。

「ただ・・・、おかしいと思ったから。君みたいに、病気や天敵、いろんな危険をくぐり抜けてやっと大きくなった鯨を、まるでもてあそぶみたいに利用しようとするやり方、好きじゃない・・・。」

「ふん。好きじゃない、か。・・・変わった人間だ。」

「あ、よく言われる。」

「・・・・いいだろう。お前に免じて、協力してやる。」

「ほんとに!」

「だが、条件がある。」

「条件・・?」

「俺のいた群れに、病気が蔓延している。」

「病気が・・? どんな症状なの。」

「どこも怪我をしていないのに、突然出血しだす。胸ビレの付け根や目尻のあたりからだ。その症状が出た奴は、数週間で死んでしまう。それまで健康で、どこも悪くなかった奴がだ。老若には関係ない。身体のまだ小さい子供は、出血につられたサメの餌食になることもある。」

「突然出血が・・・。なんだろ・・。」

 外傷もないのに出血し始めるということは、内因性の問題があるということだ。ウィルス性の疾患だろうか。水菜は自分の記憶を必死に探った。鯨の医療という点では、人間のそれと比べてはるかに劣っている。症例自体、集めることが難しいからだ。まして治療法という点で、確立されていないものは多かった。

「・・・あ。鯨、とは違うけれど、ハンドウイルカに似たようなケースがあった気が・・・。確かそのときは・・・。」

 水菜の頭の中で、記憶の糸がつながっていく。そうだ。水族館で飼育下にあったイルカが、やはり同じ症状を見せたケースがある。そのときは、なんと牛用に開発された薬が効いたのだ。畜産対象となる動物の治療法は、他の野生動物に比べて先行している。当然といえば当然のことだが、人間の食生活や経済活動に影響を及ぼす恐れがある以上、大量死させるわけにはいかないからだ。

「あのね、セイゲン。その病気のこと、詳しく調べてみないと何とも言えないけど、ひとつ治療の可能性があるの。薬もあるわ。それを試せれば・・・。」

 士官学校時代の先輩が製薬会社につてがあると言っていた。その線をたどれば、薬の入手が可能かも知れない。そう考えを巡らせていたとき、すぐそばから声が聞こえた。

「垂木。何をしている。」

 身体を強ばらせて声の主を見ると、腰水だ。セイゲンとの会話に夢中になったばかりに、近づいて来るのに気がつかなかったのだ。

「腰水さん・・・。」

 ヘッドセットを外しながら、水菜は意を決して、考えていたプランを腰水に話し始めた。


 水菜が舳先(へさき)に立つ、小さな漁船ほどの大きさの小型船が、波涛を切り裂くようにして進んでいる。盛り上がる波に揺られる船は、まるで嵐の中の木の葉のようだった。

 背後の操舵室から顔をのぞかせた男の顔は、漁師のように日焼けしている。

「よう。垂木! よくあの偏屈を説得できたなぁ!」

 海の男特有の、潮風に負けない大きな声で言うのに水菜は応えた。

「あの人、有用な情報、とか、利益がどうとか、二言目にはそんなことばかり言うんですよ。だから、そこをとっかかりにして説得したんです。」

 セイゲンが協力する条件を提示してきたあのとき、水菜は必死に考えていた。セイゲンの仲間を助けてあげてください、などと腰水に言ったところで、そんなことをする意味はない、と言下に拒否されるのは目に見えていた。だから、話のもって行き方を工夫したのだ。

「セイゲンのいたグループが集団で何かの病気にかかっているみたいだから、そのグループに新しい薬の投与を試してみたいって、そう言ったんですよ。鯨の集団感染ともなると、研究所にとっても他人事(ひとごと)じゃありません。時間と経費をかけて調整した鯨達が、もし同じ病気にでもなれば、大きな損失になるはずです。だから、その野生グループで、新薬の実験をさせてほしいとお願いしたんです。」

 操舵室の男、研究所の鯨訓練担当、笹木(ささき)は日焼けした顔にしわを寄せ、笑いながら言った。

「なるほどな。腰水(あいつ)も、実験って言葉を持ち出されると、うなずかざるを得なかったんだろう。垂木。腰水(あいつ)のこと、よく分かってんじゃねぇか。」

 笹木は豪快に笑って、舵をきった。セイゲンに教えられたグループのたまり場まで、もう間もなくだ。

 水菜は海中にコード付きのスピーカーを落とし、録音してあった音を再生し始める。セイゲンの声を録ってきたのだ。これで、彼の仲間に事情を伝えることができる。

 しばらくすると、数頭の立派な鯨が船から数十メートルのところに浮上してきた。セイゲンの声はするものの、警戒しているのだろう。それ以上、近寄ってはこない。一頭から、糸のようにたなびく赤い筋が出ているのが見える。出血しているのだろう。

「笹木さん! あれ!」

「ああ。あいつだな。」

 笹木は水菜の指差す鯨に素早く狙いをつけると、個体識別用のタグを銃から撃ち出した。弾頭に特殊な接着剤が仕込まれており、鯨の体表にタグをくっつけるのだ。これを追うことで、どの鯨が病気にかかっているか、判断できる。同じように血を流している、他の数頭にもタグをつけていく。

「結構な数が病気にかかっているみたいだな。なんなんだ、こりゃ。」

 笹木の問いに、水菜が答えた。

「詳しいことはまだよく分かっていないんですけれど、同じ範囲の海域で長く過ごした鯨同士でうつるみたいなんです。」

「人間の風邪やウィルス性の疾患がうつるみたいにか?」

「ええ。恐らく、海水を媒介して感染してるんだと思うんですけど・・・。」

「もともとは、牛用の薬なんだろ。それが効くもんなのか?」

「たぶん。それに、その牛用の薬も、さらに元をたどれば、人間用に開発されたものなんですよ。」

「へぇ。同じほ乳類同士、効く範囲は人から牛、鯨まで、か。」

 水菜は掛け声を掛けて、一抱えもある巨大なカプセルを海に放り込み始めた。

「よ・・・っと!」

 鯨用の薬だ。かなり長い時間、タグを付けられた鯨はその薬を飲み込むべきかどうか迷っているようだったが、やがて、最初の一頭がカプセルを飲み込むと、他の鯨もそれに続いて次々と飲み込んで行く。

「これが効いてくれればいいけどなぁ。」

 鯨達の作る、波間の気泡を見ながら、笹木は目を細める。

「効くと思います。きっと・・・。」

 水菜は、祈るような気持ちで、いつまでも海面を見つめていた。

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