海羊の海

桜田駱砂(さくらだらくさ)

序章 静かの海

 新月だった。

 星以外に水面(みなも)を照らす光は一切なく、海は、澱んだ静けさをたたえている。

 海面下へ少し下るだけで、弱い星明かりはすぐに届かなくなり、漆黒の空間がそこには広がっている。さざ波の立てる音も聞こえず、ただ、静寂と闇が支配する夜の海中を、かき分けて進む巨大な人工物があった。

 高張力鋼材の外殻に覆われた潜水艦の発令所に立ち、グロシェクは懐中時計を取り出した。くすんだ金色の髪の下から、精悍な眼差しがのぞいている。学者のような風貌ではあったが、その鋭い目つきは、彼が根っからの軍人であることを物語っていた。

 祖父から譲り受けた古めかしい懐中時計は、深夜の二時過ぎを指している。潜航を続けて一週間、昼夜の感覚は艦内灯の色と時計を見つめて身体に思い出させるしかなかった。

「様子はどうだ?」

 グロシェクは、かたわらに立つ、ずんぐりとした赤ら顔の男へ言った。

「今のところ、変化はないようです。既に警戒水域へ入ってますからな。一隻や二隻いたところで不思議ではありませんが・・・。」

「・・・・。」

 赤ら顔の男は、ソナー手の肩へ手を置きながら、彼のヘッドホンへ自分も耳を寄せてみる。

「何か聞こえるか?」

「いえ、敵艦の気配はありません。」

 赤ら顔の男はグロシェクへ振り向いた。

「この静けさが逆に不気味ですね。待ち伏せでもされているんでしょうか。」

 グロシェクは、机上に広げられた海図へ目をやった。赤ら顔の男は海図を指し示しながら、首をかしげている。

「我々の現在地はここです。通商航路がここ。予測防衛網の間隙を縫ったつもりですが、うまく行ったんでしょうかね。敵艦との遭遇率が低すぎるようですが・・。」

 グロシェクは無言で、赤ら顔の男の指先を見つめていた。敵の防衛網をかいくぐりながら、商用船の航路までたどり着かなければならない。海洋国家である敵国にとって、船舶による物資の輸送はまさに生命線、これを断つことができれば、自ずと勝敗は決する。しかし、相手にとってそれは百も承知のことだった。だからこその防衛網であり、たやすく抜けられぬよう、警戒しているはずなのだ。それが、ここに至るまで敵の一隻とも遭遇していない。たまたま、なのだろうか。それとも、罠、なのか。だが、罠にしては、既に懐深くまで入り込んでいる。罠を仕掛けるタイミングとしては、遅すぎるのではないか。商用航路はもう目と鼻の先なのだ。

 ここは、うまく敵の防衛網を抜けることができた。そう考えるべきかとグロシェクが判断したとき、いきなり、艦を激しく揺さぶる衝撃が襲った。艦尾の方から耳障りな金属音が響いてくる。外殻の避けるような音にも聞こえた。

 発令所に赤い警告灯が灯り、乗員に鋭い緊張が走る。

「ファルスキー。状況確認。」

「は!」

 動揺を微塵も感じさせないグロシェクの声で、ファルスキーと呼ばれた赤ら顔の男は、艦内通話器を取った。艦の状態を表すステータスモニターは、機関室付近で浸水が発生していることを示していた。

 ファルスキーが機関室へコールすると、ほとんど間髪を入れずに緊迫した声が発令所内へ響く。

「こちら機関室!」

「状況を報告しろ。」

「右舷側機関室の内壁に金属性の刃のようなものが突き刺さっています! 内殻まで貫通しています!」

 大声で話す機関長の声へかぶさるように、水が激しく流れ込む音が聞こえてくる。

「突き刺さっている? 魚雷か?」

「いえ、魚雷には見えません。巨大な刃のようです!」

「刃だとぉ! 浸水の状況はどうだ。止められるか。」

「試みていますが、刺さった刃の中が空洞になっているようです。浸水が止まりません!」

 ファルスキーはグロシェクを見た。次の指示を目で乞うている。

「右舷機関室から退避させろ。退避後シール。」

 グロシェクの判断は早かった。機関室は右舷側と左舷側が隔壁で隔てられており、どちらかが浸水しても機関の稼働は継続できる。当然、出力は落ちるが今は浸水の影響を食い止めなければならない。

 ファルスキーはうなずき、通話器に向かってがなるように言った。

「機関長、右舷機関室から退避! 退避後、水密扉を閉鎖しろ!」

「了解!」

 命令を受けた機関長は通話器を掛けようとするが、手が震えてうまく掛けられない。もどかしそうにそれを放り出すと、背後の浸水部を見た。刺さった刃の先から海水が恐ろしい勢いで吹き出している。数人の機関科員が、吹き付けると即座に固まる、泡状の浸水防止剤でそれを食い止めようとしているが、水流の勢いが激しすぎて、効果がなかった。

「おい! ここは閉鎖する! すぐに出ろ!」

 機関長の言葉に全員が、はっ、と振り返り、すぐさま駆け出した。水位は既に腰ほどの高さまで達している。最後の一人が、シール用の水密扉まであと数メートルというところで、再び艦に衝撃が走った。艦体が大きく右舷側にかたむき、水密扉に達しかけていた機関科員がパイプにひどく頭を打ちつけ、動かなくなる。

「ヤクル!」

 機関科員の一人が叫びながら戻ろうとするのを、機関長が引き止めた。

「もう間に合わん! 閉めるぞ!」

「しかし、ヤクルがまだ・・!」

「これ以上浸水すると、浮上できなくなる! 艦が沈むぞ!」

「・・・・!」

 機関科員はその言葉を無視して、機関室へと飛び込んだ。

「くそっ!」

 機関長は水密扉のハンドルを回し始める。油圧式のそれは、浸水による激しい水の流れへ抗うように、扉を閉め始めた。ただし、閉めるスピードをわざと遅らせている。半分以上閉まりかかった扉から、機関科員達が大声で呼んでいる。

「早くしろ! 早く! まだ間に合う!」

 気を失ったヤクルの腕を自分の肩に回し、流れる水流へ半ば身を任せるようにして、ヤクルを助けた機関科員は水密扉へたどり着いた。他の機関科員達が無理矢理、二人を扉のこちら側へと引きずり込む。それを見届けた機関長は、全力でハンドルを回した。

 ごく、という鈍い音と共に、水密扉は完全に閉まり、水の流れは止まった。

 発令所に連絡が入った。

「右舷機関室を閉鎖しました。機関科員も全員無事です。」

 その報告に、ファルスキーはほっと胸をなでおろして、グロシェクを見た。だが、危機はまだ去っていない。一度目の衝撃により刃様のものが突き刺されたわけだが、何が、なぜ刺さったのか、判明していない。それと同じく、二度目の衝撃の原因も不明のままだ。

「敵の攻撃でしょうか? 二度目の衝撃も、原因は不明です。この深度に、衝突するような岩礁はありません。」

 不安気な視線を送るファルスキーを置いて、グロシェクはソナー手へ言った。

「ソナーに何かかかったか?」

「いえ。先ほどまで海水の流入音がありましたが、それも止まりました。右舷機関室は完全に水没したようです。それ以外の音はまだ・・・。」

 グロシェクの脳裏に、嫌な予感が走った。潜水艦にとって水中から得られる音の情報は、周囲の状況を把握する非常に重要なリソースだ。そこから何も得られないということは、この艦が今、どういう状況にあるのか、まったく把握できないということを意味している。不気味な圧迫感が周囲を押し包んでいるかのようだった。

 グロシェクはファルスキーに命じた。

「当該海域を離脱する。南東微南。前進全速。」

「了解。艦軸転向百四十六度。前進全速。」

 ファルスキーの声に対し、発令所内のクルー達は、身体に染み付いたほとんど反射的な動きでもって艦を転進させ始める。各所から命令の復唱が返る中、手負いの海獣のような艦体はゆるゆると方向を転じ、夜の海を進んで行った。

 

 翌早暁(そうぎょう)、右舷機関室の機能消失という重大な損傷を受けながらも、艦はどうにか警戒海域を離脱し海面へと浮上した。

 損傷状況を目視確認するため、艦の外殻上に登った士官達はその光景に絶句した。

「・・・やはり、魚雷、ではなさそうですね・・。」

「ああ・・・。」

 ファルスキーの言葉に、グロシェクはうなずく。艦体の船尾付近、右舷上方から斜めに巨大な金属塊が突き刺さっているのだ。内殻まで貫通していることから、全長は四メートルに達するだろう。

「スクリューなどの推進装置もついていませんね。銛(もり)を撃つように、敵艦から射出されたんでしょうか・・・。」

 だが、これほど大きな物体を、外殻、内殻を貫くほどの勢いで打ち出したのであれば、その発射音を捉えられないはずはない。

 艦体に寄せる波音以外、いっさいの音がない静かな朝だった。薄く曇った空から通る朝日に照らされ、その金属塊は鈍く不気味な照り返しを見せていた。

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