三章 海辺の休日

 セイゲンによる海上補給任務は、順調にその回を重ねていた。スクリュー音の発生しない鯨の航行は、隠密性において優れていたし、何より、海中を満たす様々なノイズに紛れることができた。秒速およそ千五百メートルで進む海中での音は、波や魚達のたてるものからイルカの鳴き声まで、様々なノイズを運んだ。決して、無音の世界ではないのだ。そうしたノイズの中から作戦行動中の鯨を見分けることは、大都市の雑踏で知人の足音を探り当てるのと同じ程度に難しかった。

 セイゲンは、小さな島の入り江をゆっくりと泳いでいた。もとは無人島だったその島は、補給物資の中継拠点として使用されている。水菜と研究所の一部のメンバーは、補給任務に都合のよいこの場所を拠点の一つとして移動していた。「第十七補給海堡(かいほ)」を軍内での正式呼称としている。

 中継拠点として軍事用途に利用されてはいるものの、しかし、周囲には手つかずの自然がそのまま残っていた。エメラルドグリーンの海と白い砂浜は、今が戦争中だということを忘れさせるに十分なほど、溢れる自然の美しさをたたえていた。

 水菜は入り江の砂浜でぼんやりとたたずみながら、セイゲンの背中を見つめていたのだが、不意に背後から川原がまとわりついてきた。

「垂木ちゃん、どしたのよぉ。」

「ぅわっ・・。びっくりした。川原さん。その格好・・・。」

 川原はフリルのある真っ赤な水着にパレオを付けた、まるでバカンス中の有閑階級といった格好だ。

「休暇を貰ったのよ。せっかくこんないいところに駐屯してるんだから、楽しまなきゃ損でしょ。垂木ちゃんも一緒に泳ごうよ。補給用の物資の到着も遅れて、どうせ、やることないんだし。」

 やることがないわけではなかったが、予定されていた補給物資の到着が遅れているのは確かだった。物資が届かない以上、基本、暇なのである。

「え、でも・・。腰水さんの許可もいりますし・・・。そんなことをしている場合じゃないだろー、とか言われそうな気がします。」

 腰水の真似をしながら口をとがらせて水菜は言うのだが、川原は、くい、と親指で司令室の方を指しながら言った。司令室といっても、木製の小屋みたいなものだったが。

「そうでもないんじゃない。腰水君だって、ほら、あの格好だし。」

 水菜が額に手をかざして見ると、腰水は窓辺に立って双眼鏡で何やら沖の方を見つめているのだが、その格好に水菜は吹き出しそうになった。ハイビスカスをあしらったアロハシャツを着ているのだ。

「・・・腰水さんて、白衣しか着ないものとばかり思ってましたけど、あんな格好もするんですね。」

 アロハ姿がまた、妙に板についているのがおかしかった。

「こう暑くては、思考がにぶる、とか言って脱いじゃったみたいよ。別に腰水君だって、白衣に自分のアイデンティティーを依存させているわけじゃないだろーしね。ほれほれ。垂木ちゃんも着替えた、着替えた。」

 川原の強引な押しを断りかねて、水菜も泳ぐことにした。セパレートの薄い水色の水着に着替え、一応許可をもらっておこうと、司令室の戸口から腰水に声を掛けた。

「あの、腰水さん。少し泳ぎます。」

「ああ。」

 と言ったきり、腰水は水菜を見て、というより、にらまれているようにしか思えなかったのだが、それから、

「・・・好きにしろ。」

 と、つっぱねるように言った。

「はい!」

 ウォータープルーフのサンオイルを身体に塗っていた川原は、水菜の姿を見るなり、にやりと笑った。

「垂木ちゃん、いいじゃない。・・結構、着痩せするのね。」

「そうですかね・・・。あの、あんまりじろじろ見ないでください。」

 足先から頭の先まで、二往復くらい川原の視線にスキャンされた気がする。

「腰水君、何か言ってた。」

「いえ、別に・・。泳ぎます、って言ったら、好きにしろ、って。」

「ふぅん・・。そんだけ?」

「? それだけですよ。」

「あいつはほんとにねぇ。唐変木(とうへんぼく)というか何と言うか・・。垂木ちゃんのその姿を見ても、無反応とはね。」

「無反応というか、むしろにらまれましたけど。規律がたるんでる、とか思われたんでしょうね。」

「にらまれた? ほぉ。それ、にらまれたんじゃなくてさぁ・・。まぁいいや。背中、塗ってもらっていい?」

「あ、はい。」

 川原の背に触れながら、きれいな背中だな、と水菜は思った。

「なんかさぁ・・。」

 海を見つめながら、川原はつぶやくように言った。

「平和だよね。戦争やってるのが嘘みたい。仕事(戦争)じゃなく、ほんとのバカンスで来たいわ。ほんと、何やってるんだろ、って思うよ。海はこんなにも綺麗なのにね。」

「そうですね・・・。でも、終わらない戦争なんてないです。いつかきっと、バカンスで来れますよ。」

「終わらない戦争なんてない、か。何で始めちゃったかなぁ、こんな戦争。勢いに任せて始めたはいいけど、どうやって終わらせるつもりで始めたんだろ。着地点を確認もせずに、パラシュートで飛び降りちゃったようなもんでしょ。」

「上層の人は、何か考えがあってのことなんでしょうけど・・。」

「さぁて、どうかね。考えがある人達なら、そもそも始めてなかったと思うよ。・・ま、そこで腐ってもしょうがない、と。ありがと。ちょっと行ってくるわ。」

 川原はそう言うなり、ぱっ、と駆け出すと、あっと言う間に海へ飛び込んでしまった。川原のしなやかなフォームを見て、イルカみたいに泳ぐ人だと水菜は思った。

 水菜もゆっくりと水の中に入ってみると、柔らかい海水の感触が、暑さにほてった身体には心地よかった。

 水菜はあまり泳ぎが得意ではない。ばちゃばちゃ音を立てながら、平泳ぎというよりむしろ犬かきみたいな格好で進んでいると、真下から、ぬ、と黒い影が浮かび上がってきた。セイゲンだ。

「セイゲン!」

 突然現れた、小島みたいなセイゲンの上へ腹這いになりながら、水菜は言った。

「一緒に泳いでくれるの?」

 最近では、間近にセイゲンの目を見つめると、何となく言いたいことが分かるようになっていた。セイゲンが残念そうな目で自分を見ていることに、水菜は気づいた。

「・・? もしかして、溺れてると思った? 私が?」

 ぶふ、と鼻から息を出して、セイゲンは返事をした。

「溺れてはいないよ。失礼ね。ちゃんと平泳ぎで泳いでたでしょ。」

 セイゲンは再び、ぶっ、と鼻から息を吹き上げる。まるで、鼻で笑ったみたいだ。

「ちょっと、笑わないでよね。それは、セイゲンに比べたら、泳ぎはうまくないわよ。・・川原さんよりも、だけど・・・。」

 水菜は、すいすいと滑るように泳いで行く川原をちらと見ながら、口ごもった。

 セイゲンはそのまま身震いすると、水菜を背中に乗せたまま、ぐんぐんスピードをつけて泳ぎ始めた。

「わぁ・・・!」

 セイゲンが力強く尾びれを上下させるたびに、大きな巨体が躍動する。水菜は、風を切るようにして海上を進むその速さに、思わず歓声を上げた。

 セイゲンはそのまま入り江を出ると、島の岸壁伝いに巡って岩だらけの場所に来た。海面から突き出る岩と岩の隙間へ滑り込むようにして入ると、そこには大きな洞窟があった。波の浸食によってできたものなのだろう。海面上に、アーチを描くようにして岩肌が続いている。入り口から差し込む太陽の光を海面が反射し、洞窟全体が薄い緑色に輝いて見えた。

「すごい・・! こんなところがあったんだ。きれいな場所・・。セイゲンのお気に入りなのね。」

 海面がゆらゆらと波打つたびに、天井の光が揺らいだ。さざめくエメラルドの王宮みたいだと、水菜は思った。

 セイゲンはそこで、ゆったりと浮力を保ちながら浮いていた。水菜は、セイゲンの背中でごろんと仰向けに寝転がると、天井を見つめた。川原に言った自分の言葉が、頭の中を行ったり来たりしている。

 終わらない戦争なんてない。そうだ。それは確かなのだけれど、じゃあ、その終わりはいったい「いつ」で、「どう」やって来るのだろう。今の状況が既に日常となっている水菜にとって、この戦争がどのように終わるのかなんて、うまく想像できない。どちらかの国が降伏すれば終わりとなるのかも知れないけれど、何のきっかけもなく降伏なんてしないだろう。これ以上、戦うことができない、何か致命的なダメージを負うか、あるいは、もう戦いなど無意味だ、と両者が悟るか。後者である可能性は、ほとんどない気がした。川原の言葉ではないが、そう悟るくらいだったら、戦争なんてそもそも始めていないだろう。

 いずれにしても、早く終わってくれたらいい。そうすれば、もうセイゲンや他の鯨を、戦場に導く必要もなくなる。父や母に会いたかった。飼い犬のヴァイシャが、ちぎれんばかりに尻尾を振りながら駆け寄って来る日常が、水菜にはずいぶん昔のことのように思えた。

 いつの間にか水菜は眠っていたみたいだ。

「はっくしゅ!」

 と、盛大な自分のくしゃみで目を覚ますと、思わず身震いした。身体が冷えている。射抜くように地上を照らしていた太陽は、すでにだいぶ傾いて、洞窟の中に長い影を落としていた。

「あ・・、寝てた? 戻らないと。セイゲン。セイゲン!」

 洞窟の中に水菜の声が反響する。

「そろそろ戻ろう。」

 セイゲンは億劫そうに尾びれを動かすと、ゆっくりUターンを始めた。

 入り江に戻ると、海岸の後背にある山のつくる影と、日差しの境目あたりの砂浜に、腰水が立っている。涼しくなったからか、既にアロハシャツ姿ではなく、士官服に身を包んでいた。腕を組んで仁王立ちになりながら、じっと水菜達を見ていた。水菜は思わずうめいた。

「うへぇ。腰水さんだ。何かすごい怒ってる、んだよね、きっと。」

 セイゲンはゆっくりと目をしばたたかせながら、そんなの知ったことではないといった顔だ。

「セイゲンも一緒に謝ってくれる・・・わけないか。ありがと、セイゲン。ここでいいよ、あとは泳ぐから。」

 水菜はそう言って、勢いよく水に飛び込んだ。冷たくなってきた大気に比べ、海水はまだ生暖かい。冷えた身体には嬉しい暖かさだった。

 派手に水しぶきがあがるものの、ほとんど前に進んでいない水菜の泳ぎを、腰水はへの字に口を結んだまま睨んでいる。腰水に見られていることを気にしながら、水菜はようやく浜辺に立つと、腰水の前まで走った。

「すいません、腰水さん。遅くなりました。」

「垂木。お前が泳ぐことに関しては、勝手にしろと言ったが、セイゲンを連れ出していいとは一言も言っていない。鯨は軍の所有物だ。私的な用途で使用するな。」

「・・はい。すいません。」

「着替えて司令室まで来い。話がある。」

「・・・分かりました。」

 急いで着替えてから、水菜は説教の続きでもされるのかと、恐る恐る司令室に入った。そこには既に、川原や笹木の顔がある。

 川原が振り向きながら言った。

「垂木ちゃん。どこ行ってたのよ。セイゲンと二人で逃避行にでも走ったのかと思っちゃった。」

「すいません。ちょっと、入り江から出た先の洞窟まで・・・。」

「へぇ。そんなところがあるんだ。今度、私も案内して。」

 川原は冗談めかしてそう言ったが、すぐ真顔に戻って、部屋の中央に置かれた海図に目を戻した。いつになく険しい表情だ。

 水菜が川原の隣に立つのを待って、腰水が口を開いた。

「先ほど話したように、補給船より連絡が入った。翌、払暁(ふつぎょう)には到着する見込みだ。なお、今回の作戦には追加の任務が加わる。」

 追加の任務? 水菜は腰水の顔を見た。補給以外に何をするというのだろう。

「目下、兵站からの補給用航路、および商用航路への厳しい攻撃が続いているが、その攻撃を防ぎきれていないのが現状だ。そこで、軍上層はこの状況を打開すべく、もとを断つ作戦を立案した。アベリア海峡を封鎖する。」

 笹木が、むぅ、と唸りながら顎をなでている。水菜は小声で笹木に尋ねてみた。

「笹木さん。アベリア海峡って・・?」

「ああ。今、俺達の警戒水域を浸食している敵さんの大半が、その海峡を通ってやって来てるんだ。そこを封鎖しちまえば、長距離の遠回りを余儀なくされるから、いわば、海上の要衝ってところだな。」

「じゃあ、そこを閉じてしまえば、敵の攻撃を防げる・・?」

「完全に、とはいかないだろうが、遠回りしなきゃならん分、進撃路が伸びる。やっかいな岩礁地帯も抜けなきゃならなくなるから、かなりの痛手になるだろうな、敵にとっては。だが・・・。」

 笹木はそこで、顔を曇らせた。

「そんなことは、俺達だけでなく敵だって、百も承知だ。機雷を設置しては除去され、お互い敵と見たら攻撃して追い返す、この近辺じゃ最激戦区だ。今んところ一進一退ってところだが、ここを完全に封鎖するとなると、相手も全力で攻撃してくるだろうし、こりゃ、相当きつい作戦になるぞ・・。」

「最激戦区・・・。追加の任務って・・。」

 腰水は説明を続けている。

「海峡封鎖にあたっては、第三艦隊の主力、および潜水艦隊が参加するが、そこに我々の部隊も加わる。」

「セイゲンもですか?」

 思わず、水菜は身を乗り出して腰水に聞いた。

「・・・そうだ。」

「で、でも、これまでは補給任務だけでしたし、実際の戦闘となると、経験なんて・・・。」

「垂木。それはセイゲン単体としての経験を言っているのか。それとも、部隊全体の経験のことか。」

「部隊全体のです。」

「そこはお前が心配することではないが、経験ならある。敵潜水艦を撃沈寸前まで追い込んだ。」

「え・・?」

 それは、水菜にとって初耳だった。セイゲンにしろ、他の鯨にしろ、補給任務を主として行っているばかりで、攻撃に参加したと聞いたことはない。

 川原の表情が暗く沈んだ。腰水は、まだ何か言いかける水菜の言葉を遮るように続けた。

「明日の物資到着後、積み荷を搭載し次第出発する。武装は最大積載としろ。今回の参加は、地道な物資補給任務の実績が評価されたものと言える。各自、気を引き締めて当たれ。以上だ。」

 腰水はその言葉を最後に、海図を見つめたまま微動だにしない。

 解散となった後、皆が司令室を後にしたが、水菜はそっと、引き返した。中をのぞくと、腰水は同じ姿勢のまま動かない。声を掛けられる雰囲気ではなかったが、それでも意を決すると水菜は腰水に近づいた。

「腰水さん。あの、ちょっといいですか。」

「何だ?」

 腰水は視線を動かさないまま言った。

「さっき腰水さんが言っていた、戦闘経験のことなんですけど、あれって、何があったんですか。私、これまで誰からもその話を聞いたことがなくて。」

「・・・・・。」

「潜水艦を撃沈しかけたって言ってましたけど・・・。」

「・・・・・。」

 お前に話す必要はない。腰水の沈黙が、そう言っているように思えたが、不意に腰水は口を開いた。

「・・・ミンク三頭で連携しての作戦だった。敵潜水艦への接近に成功し、頭部につけた人工の衝角(しょうかく)を相手の船腹に突き立てた。」

「そんな戦果が・・・。それって、どの子がやったんですか。」

「・・・今はもういない。」

「え・・? いないって・・。病気にでも・・・。」

「病気じゃない。戦死だ。」

「戦死・・・。みんな、ですか。」

「三頭ともだ。表向き、戦死ということで報告されている。」

「表向き・・?」

「鯨を教育して、軍事用途に使うという研究所の面目上、そう公表している。垂木。これは機密事項だから他言はするな。立場上、お前が知っておくべきことだから話しておくだけだということを忘れるな。戦死の理由だ。」

 水菜は、腰水の眉間のしわが深くなったのを見て、嫌な予感しかしなかった。

「三頭が作戦後、逃亡を試みた。奴らには、飼い慣らされる状況が我慢できなかったのかも知れない。作戦中は監視の目がゆるむから、その隙をつかれた。」

「逃亡を・・。それで・・?」

 水菜は続きを聞きたくなかった。聞きたくなかったが、しかし、その結末を水菜は知っておくべきだと直感した。

「三頭とも、リモートで頭部を爆砕した。説得しても聞かなかったからな。死体は作戦海域から十数キロ先の沖合で見つかった。たいして時間も経過していなかったから、きっと、必死に泳いだのだろう。」

 水菜は、はっ、として腰水の顔を見つめた。一瞬、腰水の顔に浮かんだ悲しみがすぐに消え去り、あとは感情の失われた無表情となった。悲しいという感情を押し殺し、忘れることでしか、乗り切れない現実が腰水にもあるんじゃないか。水菜はそう思った。

「そんな・・・。」

「鯨は生物とはいえ、ここでは一種の兵器として扱われる。軍の上層が期待するのは、生きていようが死んでいようが関係ない、作戦を忠実に実行してくれる兵器だ。その兵器が作戦終了後に「逃亡」した、などと話がおおやけになれば、研究そのものが頓挫(とんざ)し、下手をすればこれまでの成果すべてが白紙に戻る可能性もあった。だから、戦死として報告された。」

 水菜は、逃亡を図った三頭の気持ちが、痛いほど分かった。彼らは、誰の制約も受けずに、ただ、海を行きたかったのだ。人間などに縛られず、この海を、自分達の海だと感じながら生きたかった。それだけだったのだろう。

 悲しみを通り越して、感情のない表情となった腰水の顔を、水菜は見つめた。腰水もまた、水菜と同じように、鯨達が自由を求めて去ろうとしたのだと、そう理解しているのだろうか。

「逃亡したのには、逃亡したいだけの理由があった、ということですよね。彼らは束縛されたくなかったんじゃ・・・。」

「あるいはそうかも知れない。だが、俺達の研究の本質は、奴らに納得させ、協力した方が自分の身のためだと思い込ませて、目的を達成させることにある。そもそもここに、奴らの自由なんてない。奴らの自由を認めるということは、そのまま、俺達の存在意義を否定するということだ。逃げ出した奴らは、殺すしかなかった。それをどんなに身勝手なことだとそしられようとも、そうするしかなかった。死んだ奴らが可哀相だなんて、そんな言葉は聞き飽きた。」

 腰水は、水菜に、というよりもむしろ、自分自身に向かって言っているようだった。

 冷たい感情に色んなことを押しくるめて、冷徹に目標へ達しようとする腰水だったが、なんだか水菜には、彼が背中で泣いているような気がした。

 逃げ出した三頭を説得した、と腰水は言った。もしかすると、彼らの断末魔の叫び声を、腰水は通信越しに聞いたのかも知れない。自由を求め、必死になって泳ぐ彼らの最後の悲鳴を。

 鯨達の声が聞こえてくるような気がして、水菜は顔をしかめた。

「ひどいじゃないですか、そんなの・・・。」

「・・・知っている。だが、奴らを利用する研究を進める上で、必要な覚悟だ。垂木。お前にその覚悟がないのなら、ここを去れ。ここは動物園でも、水族館でもない。」

 腰水はそう言い残すと、重い足取りで部屋を出て行った。


 翌日、到着した補給物資と共に、セイゲンの背中には物々しい武装が装備された。頭部には衝角が取り付けられ、背には魚雷を背負っている。

 友軍との合流地点に向かいながら、セイゲンは不快そうに身をくねらせて水菜に言った。

「いろいろと武装させられたが、動きにくいな。」

「・・・・。」

「これを使って、敵艦を沈めろ、ということか。ただの輸送から、ずいぶんと攻撃的な任務になったものだな。よほど手が足りないのか。」

「・・・・。」

「おい、聞いているのか。」

「あ・・、うん。ごめん。そうだね。輸送任務から、ずいぶん様変わりしたよね・・・。」

 水菜は、目の下にくまのできた顔で、セイゲンに言った。ポッドから見えるセイゲンの武装を、水菜は複雑な思いで見ていた。

「ねぇ、セイゲン。」

「何だ。」

「セイゲンは、嫌じゃない? こんなものを背負わされて、戦場に行かされて、危険な任務につけられて。」

「・・・嫌だと言ったら、どうなる。」

 水菜は、ぎくりと身体を強ばらせた。脱出用のボタンが視界に入る。セイゲンを、殺すためのボタンだ。

「それは・・・。」

 言い淀む水菜へ、セイゲンは続けた。

「軍の命令がそれで変わるとは思えない。お前は仲間の命を救ってくれた。だから、お前が命じればどこへだって俺は行く。」

「セイゲン・・・。」

 水菜は言葉を続けられなかった。セイゲンは、軍の命令で動いているのではない。水菜の命令で動いているのだ。水菜に行けと言われるから、行くのだ。セイゲンの深い信頼を水菜は嬉しく思う反面、セイゲンを死地へと向かわせているのが、他の誰でもない、自分自身だということに、水菜は恐怖した。

 セイゲンは、ゆさりと身体を振るわせてから言った。

「何も死にに行くわけじゃない。お前を背中に乗せてもいるんだからな。今は無事に帰ることだけを考えろ。」

「うん・・・。そうだね。」

 涙声になりそうなのを必死に我慢しながら、水菜は返事をした。

 合流地点に到達すると、いくつかの友軍艦艇がぽつぽつと水平線上に見え始めた。一旦、引いて来た物資で海上補給させなければならない。浮上後、水菜がポッドの中から周囲を見回していると、セイゲンが言った。

「近づいて来る艦がある。」

「どこ?」

「水中からだ。知っている奴だ。」

「知っている奴?」

 水菜がそう言う間に、海面へ浮上する艦があった。司令塔のシルエットには見覚えがある。鷲水だ。鷲水の司令塔に信号旗が上がった。補給を求めるものと、友軍への謝意を現している。セイゲンがゆっくり鷲水に近づくと、司令塔に人影が立った。

 人影を見た途端、水菜の顔が曇る。国岡だ。

「補給、感謝する。」

 鷲水の艦上に飛ぶ移った水菜へ国岡が言うのに対し、水菜は憮然と、

「いえ、任務ですから。」

 と答えた。

 水菜のあからさまに不機嫌な態度へ、国岡も少しばつの悪そうな顔をした。邪魔だから、さっさと去れ、などと言ったことを後悔しているようにも見え、水菜はますます腹が立ってきた。後悔するくらいなら、最初から言わなければいいのに、と。

「今回は、セイゲンも攻撃作戦に参加するのだな。」

「ええ。この艦の邪魔にならなければ、いいと思っています。」

「む・・・。」

 国岡は、叱られた中学生みたいな顔をして制帽を脱ぐと、頭をひと撫でしてから水菜に言った。

「その・・・。前回はすまなかった。邪魔だなどと言って。」

 国岡が意外と素直に謝ってきたことに驚いて、水菜はその顔を見た。国岡みたいなタイプは、自分に非があっても、絶対に謝らないものと思っていたからだ。

 急に謝られたものだから、水菜は怒りの矛先をどこへも向けあぐね、トゲのある口調のまま、国岡へ言った。

「別に謝られても、困ります。私も怒っているわけじゃありませんから。」

 その言い方に、国岡もかちんときたのだろう。語気を荒げて言った。

「怒っていないと言いながら、その態度はなんだ。明らかに怒っているだろう。人が下手に出て謝っているのに、偉そうな。」

「偉そうになんてしていませんよ。初めに失礼なことを言い出したのは、あなたじゃないですか。謝るんなら、私じゃなくセイゲンに謝ってください。」

「何を・・!」

「何ですか。」

 睨み合う二人へ、司令塔から顔を出した飯島が言った。

「何だ。さっそく、痴話喧嘩か? 仲がいいのもほどほどにな。」

「違います、艦長! 垂木少尉が素直に人の謝罪を受けないのが悪いのです!」

 水菜は横から、

「謝ったんだから許して当然という態度でいる国岡さんが傲岸なんです。」

 と、口をとがらせて言った。

「誰が傲岸な態度を取った。あくまでも真摯に謝ったではないか。」

「私にはそうは見えませんでしたけど。」

「なら、どうしろと・・・!」

 飯島は、にやにやと面白がって見ていたのだが、おもむろに二人の会話へ割って入った。

「おーい、国岡。喧嘩もいいが、さっさと補給を受けろ。作戦開始まで、そう間もないぞ。」

「・・は! 申し訳ありません、艦長。すぐ作業に取りかかります。」

 ふん、と鼻息も荒く水菜へ一瞥をくれると、国岡は物資の搬入作業を指示し始めた。

 水菜もぷりぷりと怒りながらポッドの席につくと、セイゲンが話かける。

「仲がいいみたいだな。」

「よくないよ! 聞いてたの?」

 そういえば、インカムのスイッチを入れたままだった。セイゲンに会話が筒抜けになっていたのだろう。

「ああ。何が気に食わない。」

「だって、あの人、私達のこと、邪魔だとか言うのよ。補給を受けているのは誰のおかげかって話よ。」

「なぜ、邪魔者扱いされる。」

「戦闘には加わらない、補給任務のみについていたからよ。」

「では、今回は邪魔者扱いされないということだな。よかったな、水菜。」

 水菜は、はっとなってセイゲンの黒い背中を見つめた。邪魔者扱いされるくらいが、実はちょうどよかったんじゃないか。国岡の言い方へ腹を立てていた水菜だが、そもそも、セイゲンはもっと役に立つ存在だという国岡への反目が、腹を立てさせていた。しかし、もっと役に立つ、とは、結局のところ、戦場で水菜の言いなりになって、セイゲンがその身を危険にさらすこと、そのものに他ならない。

 傲岸なのは国岡ではなく、自分を指して言うべきものかも知れない。水菜はそう思った。セイゲンの自由を奪い、恩を売って服従させている事実を傲岸と呼ばず、いったい何と呼べばいいのか。

「うん・・・。」

 水菜はそれだけ返すのが精一杯だった。よかった、と手放しで喜べない状況にあることを、今さらながら実感している自分が恥ずかしかった。

 補給作業が終了すると、セイゲンはすぐに鷲水を離れた。作戦開始の時間が近い。鷲水艦上でまだ作業していたクルー達が、手を振って見送ってくれている。国岡だけは、口をへの字に結んで律儀に敬礼をしていた。

 戦艦二、重巡洋艦四、軽巡洋艦十、駆逐艦十二、潜水艦五、という大規模な味方陣容が、戦艦を先頭とした鋒矢(ほうし)状の陣形を取った。矢の先端にあたる戦艦には当然、敵の集中攻撃が予想されるが、その防御力でもって切り抜けるつもりなのだろう。潜水艦群は、海上艦艇の形成する鋒矢のやや前面に、横一直線で並んでいる。

 潜水艦のやや後方、戦艦の前面で海上に鼻先を出していたセイゲンへ、連続する重低音が聞こえてきた。水菜のインカムからも、機械翻訳された声が聞こえてくる。

「セイゲン、ミズナ、元気? あなた達も参加してたのね。」

 聞き慣れた声に、緊張でこわばっていた水菜の顔が明るくなった。

「ジルハ! 来てたの。」

「そうよ。毎回毎回、補給任務ばっかりでちょっと退屈してたから、こういう刺激も悪くないわ。ミズナはセイゲンと仲良くやってる?」

「ええ、大丈夫よ。」

「そう。あの無口で無愛想なセイゲンも、ずいぶん丸くなったわよねぇ。私達、研究所生まれの鯨がいっくら話しかけても、ろくすっぽ返事をしなかったあなたが、今じゃすっかりミズナと仲良しだもの。孤独な一匹狼がお姫様にだけはなつくってところかしら。狼じゃなくて鯨だけど。ミズナはちょっとおっちょこちょいなところがあるから、じゃじゃ馬姫ってところね。それにしても、集まったわよねぇ。まだこんなに船がいたのね。最近じゃ、うちらの陣営、劣勢だっていうじゃない。そろそろ負けが込んできたのかと思ったけど、まだまだ、温存してたってわけよね。これならあと一年は戦えるかしら。ま、そう長くは持たないだろうけれど。あ、そうそう、セイゲン。オオガキ海道を脇にそれたところで、イカの群棲地を見つけたの。今度行ってみなさいよ。それと、ミズナ─。」

 相変わらず、延々と続くジルハのおしゃべりに、いったいいつ息継ぎをしてるのだろうと圧倒されていた水菜だが、放っておいたら日が暮れても喋り続けそうな勢いだったものだから、さすがに水菜もジルハを遮って言った。

「あの、ジルハ。話の途中でごめんだけれど、もう艦隊が動き出すわ。また、帰ったら続き、話そう。」

「あら、そうね。ごめんなさい。久々に顔を合わせたものだから、つい。セイゲン、ミズナ、あなた達も気をつけなさいよ。」

「分かってる。あなたもね、ジルハ。」

 ジルハは、ぶは、と鼻から息を吐くと、ゆっくり、艦隊右翼側へと泳いで行った。

 そういえば、ジルハの背中には、人が乗るポッドが付いていない。研究所生まれのジルハに、人間による指示や監視は不要と判断されているのだろうか。それでも、やっぱり頭部に炸薬が埋められているのだろうと思うと、水菜はジルハの明るいおしゃべりにいたたまれない思いがした。

 艦隊がゆっくりと前進し始めた。

「私達も行こう、セイゲン。」

「ああ。」

 このアベリア海峡は、幅約二十キロと非常に狭いが、しかし、最大水深が九百メートル近くもあり、海底で切り立った断崖のような地形的特色を持つ。

 深さは、セイゲンにとって最大の武器となる。

「潜ろう。」

 水菜の合図を待つまでもなく、セイゲンは海峡の深みへと潜り始めた。水中では敵、味方含め、様々なスクリュー音、造波抵抗を軽減する球状船首、バルバスバウの水を切る音など、雑多な音が入り乱れていたが、セイゲンが深く潜れば潜るほど、それらの音は遠のいて行った。

 水菜は懐中時計と深度計、速度計を順に見つめながら、タイミングを計っている。

 遠くから、鈍い反響音が響いてきた。戦艦からの長距離艦砲射撃が始まったのだろう。だが、まだだ。まだ早い。深度計は九百十二メートルを指した。この深度まで潜れる攻撃型潜水艦はいないから、敵がここまでやって来る恐れはなかった。だが、お腹に響くような艦砲の射撃音だけが聞こえてくる青黒い水底は不気味だった。

 緊張した面持ちで頭上を見上げる水菜へ、セイゲンが言った。

「そろそろ直上に差しかかるぞ。モルスキヴァネク級。敵の主力潜水艦だ。」

「もうちょっと・・・。」

 できれば、敵の真下から攻撃を仕掛けたい。

「セイゲン、身体を垂直に起こせる?」

「よし。」

 セイゲンは胸びれをゆっくり動かすと、器用にその身体を立てた。

「音紋入力・・・。」

 規則正しいスクリュー音が、はるか直上を通過する。

「今・・!」

 水菜が魚雷発射ボタンを押す。魚雷のスクリューが猛然と回転を始め、懸架(けんか)していたフックが外れると同時に、魚雷は垂直方向へ上昇し始める。

「セイゲン、離脱する。」

「分かった。」

 魚雷の発射と同時に、場所を変えなければならない。上方のモルスキヴァネク級やその他の艦艇も、魚雷の発射音を捉えたはずだ。

 直線距離にして七百メートル弱。音紋追尾機能を備えた誘導魚雷が到達するまで、三十秒もない。敵に回避する余裕はないはずだ。

 どこん、という大音響と共に、大量の気泡が湧き立ち、金属のきしむ悲鳴のような音が水菜にも聞こえてきた。

「命中した・・!」

 緊張の中で、水菜の顔が青ざめている。敵を撃沈したという実感が、きしむ金属音によって、現実のものとして水菜を襲ったからだ。沈み行く潜水艦のクルー達はもう助からないだろう。この手で人を殺(あや)めたという激しい罪悪感に、水菜は吐き気を覚えたが、必死にこらえた。

「戦争なんだ・・! やらなきゃ、やられる・・!」

 そう自分にいい聞かせる言葉が、むなしく感じられた。

 撃沈されたモルスキヴァネク級の僚艦、モゼドラクの発令所では、大混乱に陥っていた。

「ビゼタがやられました! 直下からの魚雷が命中したようです!」

「下だと! 敵の水深は?」

 副長のファルスキーががなり声でソナー手に言った。

「およそ九百メートル。ほぼ、海底付近です。」

「そんなところから・・。敵はどこにいった。」

「恐らく、まだ同じ場所にいます。機関音が聞こえません。」

「同じ場所に・・?」

 おかしい。魚雷を発射するという行動は、攻撃であると同時に、自艦の位置を周囲に知らしめてしまうことも意味している。潜水艦最大のアドバンテージである隠密性を自ら破ることになる、いわば、諸刃の剣だった。

 それなのに、同じ場所から動こうとしないのは、いったいどういうことだろうか。餌食にしてくれと言っているようなものだ。

 敵の意図がまったく読みとれず、ファルスキーはグロシェクの顔を見た。

「動いていないようです。」

 発令所の浮き足立った空気は、しかし、グロシェクの石のような沈黙で徐々に冷静さを取り戻していた。

 おもむろにグロシェクが言った。

「いや、すでに動いている。以前も似たような攻撃にあった。あれと同じだ。」

「衝角みたいなもので突き刺された、あれですな。すでに動いている、とは・・・?」

「どのような手段をもっているか知らないが、相手は静音性の高い移動手段を持っているということだ。海底へ静かに潜んで待ち伏せし、真下から攻撃した。」

「静音性が高い・・。そんな新兵器を、すでに投入していると。」

 ファルスキーは、背筋に冷たいものが走った。潜水艦にとって、音は動物にとっての視覚情報と同じだ。周囲の状況を把握し、補食し、ときに危険から身を守る。海中で音のしない兵器に狙われるということは、密室の暗闇で、ナイフを持った相手に命を狙われているに等しい。周囲の海水に押し包まれるような恐怖感を抑えながら、ファルスキーはグロシェクを見つめた。

 副官として長くこの男と行動を共にしてきたが、常に感じることがある。グロシェクは、何というか、底が知れない。少し視線を落とし、黙考した後に出る判断は、いつだって正しかった。突然の命令が突拍子もないものと思えても、後になるとそれが結局、最善だったということも一度や二度ではない。敵の得体が知れない今だからこそ、自分はグロシェクを信じるしかない。そう心に決めると、部下に悟られぬよう心の中に押し込んでいた動揺が、いつのまにか消えていた。

 グロシェクが視線を上げて命じた。

「・・ピンガーを打て。同時に、海底も走査(スキャン)。六十秒ごとだ。地形物に変化があればすぐに報告しろ。」

「了解。」

 ソナー手が即座に応じた。ピンガーを打ちながら海底走査も行うとなると、銅鑼(ドラ)を打ち鳴らしながら、街中を練り歩くようなものだ。眠り子も起きるほどの騒々しさだが、見えない敵を探るにはこれしかない。

「祭りですな。」

「奴の居所をあぶり出す。メインタンク注水。80パーセントで止めろ。」

「潜りますか。」

 ファルスキーの問いに、グロシェクは首を横に振った。

「いや。アップ十五度、前進微速。」

 メインタンクの注水により、浮力の減少した艦へ下方向のベクトルがかかるが、潜舵を上向きに角度をつけた状態で推進することにより、艦体は沈むことなく前へ進む。

 ほどなくして、ソナー手が緊張した面持ちでグロシェクへ振り返った。

「前方に何かいます。距離二千五百。水深八百から浮上しているようです。」

「一番、二番注水。アクティブモード。有線で発射用意。」

「了解。」

 魚雷発射官に海水が入る音を、セイゲンは耳にした。先ほどから、やかましいほどにピンガーの音が響いている中、それはごくわずかな音に過ぎなかったが、それでも、セイゲンは聞き漏らさなかった。

「見つかったらしい。魚雷が来るぞ。」

 水菜も、こーん、という甲高い金属音のようなピンガーが鳴るたびに冷や汗が出る思いだったが、セイゲンの言葉に、緊張感がさらに高まる。

「とにかく、海面まで一旦浮上しよう。」

「いや、だめだ。それでは格好の標的となる。」

「でも、セイゲン・・! 息が・・。」

 既に潜航開始から四十分以上経過している。いかな潜水能力に優れた鯨とはいえ、いつまでも無呼吸でいるわけにはいかなかった。

「まだ、もつ。」

 セイゲンは言って、垂直に浮上中の身体を水平に戻した。

「相手の距離、およそ二千五百。水深二百メートル付近をこちらに向かっている。一発放って牽制しろ。」

「わ、分かった。」

 水菜は、セイゲンに言われたデータを入力すると、魚雷を発射した。魚雷が矢のように飛び出すのを確認してから、セイゲンは再び潜り始めた。

 モゼドラクでは、セイゲンから発射された魚雷の航走音を捉えていた。

「前方の標的物から魚雷! こちらに来ます!」

「一番、二番発射。」

「一番、二番、発射!」

「ダウン四十五度。前進全速。メインタンク、全注水。」

 魚雷を発射すると同時に、モゼドラクの艦体は下方を向き始める。潜舵が下方向に向けられ、最初の注水により浮力の減少していた艦は瞬く間に沈降を開始した。

「デコイ、打ちますか!」

 前方へ落ち込むように傾斜する発令所で身体を支えながら、ファルスキーがグロシェクへ言った。

「まだだ。」

 冷たい汗が全身から吹き出すのを感じながら、ファルスキーは次の命令を待つ。

「深度三百・・・三百二十・・・!」

「敵魚雷、距離二千をきります! ・・・千八百・・・千六百・・!」

 まだか・・? 発令所に響く、緊迫した声が遠く聞こえる。一秒がひどく長く感じる。魚雷は直撃しなくとも、接近された状態で爆発すれば、衝撃波によりダメージを負う。回避するにはぎりぎりの距離だ。ファルスキーは、じりじりとしながらグロシェクの命令を待った。

「デコイ発射。」

「発射!」

 モゼドラクと同じ音紋を発しながら、囮魚雷(デコイ)が勢いよく撃ち出された。

「機関停止。」

「機関、停止します!」

 モゼドラクは機関を停止し、惰性と自重により沈降を続ける。

 デコイは一旦、敵魚雷に近づいた後急反転し、モゼドラク本体とは別の方向へと突き進んで行った。

「・・距離、千!」

 ファルスキーは身体を固くし身構えた。つかまる手すりが、ひしゃげるのではないかというくらい、思い切り握りしめた。

「・・・敵魚雷、逸れました! デコイに食いついたようです!」

 ソナー手の言葉に、ファルスキーは、ほっ、と息をついた。発令所全体が安堵の空気に包まれる中、グロシェクは言った。

「一番と二番は?」

「は。距離二千四百付近を推進中です。しかし・・・。」

 モニターに映る二本の魚雷は、Lost の表示を示している。アクティブモードにより、自ら音波を発しながら敵を追尾するわけだが、その対象を見失ったのだ。

「一番を上昇、二番を下降させろ。十秒後に一番、二十秒後に二番爆破。」

 有線で発した魚雷は爆発直前まで、艦からの指示で操作が可能だ。グロシェクの指示した通り、魚雷は上下、二手に別れる。

 セイゲンは、迫る魚雷に、全身の神経がびりびりと弾けるような感覚を味わっていた。

「一本、来るぞ。」

「頑張って、セイゲン!」

 水菜にはもはや、そうとしか言いようがない。デコイなど、防御用の装備は最初から持っていない。ここは、セイゲンの潜水能力に賭けるしかなかった。

 甲高い魚雷のスクリュー音が、迫ってきている。突然、頭上で激しい爆音が起こった。

「きゃああ!」

 凄まじい衝撃波がセイゲンと水菜を煽った。ポッド内のフレームがぎしぎしときしむ音が恐ろしかったが、

「耐えた・・!」

 水菜は頭上を仰ぎ見るが、セイゲンは深みへと潜るのをやめない。

「まだだ。もう一本来ている。」

 セイゲンは、海底に到達すると、岩陰にその身を叩き付けるようにして横たわった。

 次の瞬間、激しい爆音と衝撃が、頭上から降ってきた。さっきの魚雷より近い。

 水菜は自分の悲鳴が、爆音にかき消されるのを聞いていた。

 セイゲンの身体が激しく揺さぶられる。水菜の乗るポッドも、ハンマーで叩かれたかのような大音響の中、めりめりと金属のひしゃげる音を立てた。

「二番、爆破しました。」

 ファルスキーがグロシェクに報告する。グロシェクは、うなずいたきり黙っている。

 ソナー手は、耳から聞こえる音に全神経を集中していた。敵艦が沈没すれば、気泡音や金属の軋む音、あるいは残骸が着底する音が聞こえてくるはずだ。だが、いつまで待っても、魚雷の爆発によってかき乱された水音以外、聞こえてこない。

「どうだ。」

 ファルスキーがソナー手に近寄って聞いた。

「・・ノイズがまだ残っていますが、敵が沈没した気配はありません。」

「艦長。」

 ファルスキーは、グロシェクを見た。グロシェクは懐中時計を左手でもてあそびながら、じっと宙を見つめている。いや、発令所内の空間ではなく、艦の外殻のさらにその先、魚雷の爆発した付近を見ているのではないか、とファルスキーは思った。グロシェクの脳裏には、海中から海底にかけて、魚雷の爆発した付近の様子が、はっきりと映っているのではないか。ファルスキーは、そう考えずにはいられなかった。

「ピンガー・・・。」

 ぽつりとグロシェクが言った。

「了解。ピンガー打て。」

 こーん、というピンガーの甲高い音響が水中に響いたが、反響音はない。

「近辺に敵潜水艦はいないようです。」

「・・・・海底の地形に変化はないか。」

 グロシェクが問うのに対し、ソナー手は首を傾げながら言った。

「は。・・・ありません。・・あ。」

「どうした。」

 小さくつぶやいた声を、ファルスキーは聞き逃さなかった。

「いえ、海底の隆起に、わずかに違いがあるようですが・・・。しかし、ここからでは詳細が分かりません。先ほどの爆発の衝撃で、海底の岩が転がっただけかも知れませんが・・・。」

 自信なさげに言うソナー手の言葉を聞くと、グロシェクはすぐにファルスキーへ命じた。

「違いの発生した隆起物に魚雷を撃て。」

「隆起物に、ですか。」

 魚雷の弾数には制限がある。無駄に撃てる魚雷などあるはずもなく、海底地形を撃て、というグロシェクへ、思わず問い返したファルスキーだったが、すぐに復唱しなおした。

「了解、三番に注水。目標、地形変化のあった地点。」

 グロシェクの出す命令に対し、疑問を差し挟むことほど無意味なこともない。ファルスキーはそう思い直したのだ。

 激しく揺さぶられたポッドの中で、水菜は飛ぶ寸前だった意識をなんとかつなぎとめた。ぼやける視界の中、一瞬、状況を思い出すこともできず計器を見つめていたが、はっ、となってセイゲンの背中を見た。

 衝撃で傷を負ったのだろう。赤い血の筋が、サーチライトの照らす海中に漂っている。

「セイゲン! 怪我したの?」

「・・・ああ。たいした傷じゃないが・・・。」

「大丈夫? 動ける?」

「そう耳元で騒ぐな。ただでさえ、爆音で頭が痛いんだ。」

 今すぐ外に飛び出し、セイゲンの傷を見てあげたい。水菜はそう思ったが、この海底では傷の手当てもままならない。

「セイゲン。一旦浮上しよう。傷の具合も確認しなきゃいけないし・・、戦闘の継続は無理だよ。」

「いや、まだ、さっきの二発を撃った敵が近くにいるはずだ。魚雷を上下垂直方向に転進させるとはな。こっちが縦運動を得意としていることを、予測して、か・・・。油断のできない相手だ。」

「まだ、近くに・・。」

 水菜は必死に思考を回転させていた。このまま海底に留まり、やり過ごすのが最善とも思えたが、セイゲンは呼吸のために浮上しなければならない。怪我もしている。

 魚雷爆発によるノイズは消えかかっている。浮上しようとしたら、チャンスは今しかない。

「ここでやり過ごす時間は、もうないよ、セイゲン。やっぱり、すぐに上がろう。」

「・・待て。」

 セイゲンが、緊張した声を上げた。

「え?」

「来る。次の魚雷だ。」

 まさか、と水菜は思った。セイゲンは今、海底に張り付いている。ピンガーを打ったところで、海底地形とセイゲンを見分けることはできない。

「適当に撃ったんじゃ・・。」

「いや、この辺りの海底を目指して進んでいる。奴は俺を狙って撃ったんじゃない。海底の地形変化を狙って撃ったんだ。」

「地形変化を・・! 事前にスキャンして・・・。」

 だとしたら、まずい。海底に張り付いてやり過ごす方法はもう取れない。

「セイゲン! 上がろう!」

「だめだ。」

「何で! 次に至近弾を受けたら、君も怪我だけじゃ済まない!」

「分からないか。奴は今、俺達をあぶり出そうとしている。薮の中へ猟犬が吠え掛け、驚いて飛び出した獲物を狙い撃ちするようなものだ。今上がれば、確実に仕留められる。待つんだ。」

「でも・・!」

 セイゲンは身をくねらせるように動かすと、岩や砂地の狭間へさらに身体を潜り込ませた。

「ここでは慌てた方が負ける。耳を塞いでろ。」

「・・・分かった。」

 水菜は、インカムを外すと、固く耳を塞いだ。沈黙が、檻のように周囲を囲む。

 心臓の鼓動が早くなる。は、は、と続く自分の浅い息だけが、沈黙の中から聞こえてくる。長い。魚雷の接近する数十秒が、水菜には何時間にも感じられた。

 突然、轟音が海中に響いた。近くの海底に魚雷が達したのだ。激しくかき乱された海水がセイゲン達に奔流となって襲いかかる。飛散した岩石が、ばらばらと落ちてきては、ポッドの船体や耐圧ガラスに当たり、音を立て続けた。

「セイゲン、無事?」

「ああ、何とかな。上がるぞ。」

「うん!」

 ぐぅ、とセイゲンの身体が持ち上がった。身体にかかっていた土砂や小石がすべり落ちて行く。海底で魚雷が爆発したせいで、捲き上がった石や砂が大量のノイズを発生させていた。絶好の隠れ蓑だ。

 セイゲンは身体を垂直に立てると、一気に海面へと浮上を始めた。

「魚雷、目標地点へ命中しました。・・・飛散した砂や小石で、ノイズがひどいです。」

 ソナー手の報告に、グロシェクはうなずいただけだ。

「・・・・・。」

 来る。獲物をここで逃すわけには行かない。グロシェクの目には、熟練したハンターのそれに似た、鋭い光が浮かんでいる。今の爆発で仕留められればそれでよし。仕留められなくとも、今の一撃で獲物は動き出す。いや、動かざるを得ない状況を作った。海底に向けて魚雷を撃つという考えをこちらが行動で示した以上、このままやり過ごす、という選択肢を相手は取れなくなる。いや、そもそも、そうした判断以前に、恐怖に耐えきれず、動かずにはいられなくなるだろう。相手の得体が何なのかは分からない。分からないからこそ、矢継ぎ早に攻撃を仕掛けている。相手がどんな種類の人間であれ、窮地に追い込めば、必ずその本性が行動に出る。グロシェクは、そこを見極めたかった。

 ファルスキーがじれたようにソナー手へ言った。

「何か動きはないのか?」

「だめです。ノイズがひどくて、ほとんど何も聞こえません。」

「上だ。」

 と、グロシェクがかぶせるように言った。

「命中地点の上方に意識を集中しろ。」

「は・・・。」

 上・・。ソナー手、ミハイルは、海中からの音に集中した。高い音、低い音、割れた音、澄んだ音。ミハイルは軍に来る前、ピアノの調律師をしていた。元々、バイオリニストになりたくて勉強していたが、才能に限界を感じて諦めざるを得なかった。夢に破れ、みじめだと感じる夜もあったが、仕事は嫌いではなかった。調律は、荒々しくささくれ立った木の表面を、赤子の肌のような滑らかさへ仕上げるに似ていた。完璧に調整された楽器の奏でる和音は、凪いだ湖面に広がる波紋のように美しい。

 ミハイルは、まるで調律をするかのように、雑多に聞こえる音のひとつひとつを分解し、聞き分けて行く。気泡の上る音。小石が海底に当たる音。かき乱された水の音・・・。

 それらの中で、下から上へ向かって、移動して行く音がある。力強く、躍動感のあるそれは、だが、機械の出す音ではない。

「! 何かが・・上昇しています。」

「上昇? 気泡ではないのか。」

 ファルスキーが、怪訝な顔でミハイルに言った。

「魚か・・、いえ、鯨のようです。」

「鯨?」

 なぜ、こんなところに、鯨が。戦闘はすでに始まっている。大量の艦船が生み出すスクリュー音や爆雷、魚雷の爆発音で、この海域における水中の騒音は極めて大きい。鯨など、とっくにこの場を逃れているはずなのに、なぜ・・・?

「逃げ遅れた奴でしょうか?」

 ファルスキーはグロシェクを振り返って見た。

「・・・・・敵だ。」

「は?」

「魚雷はその鯨から発射されたのだろう。前回の衝角も、鯨の突進によって突き刺された。それでつじつまが合う。」

「鯨が・・・?」

 ファルスキーは、グロシェクの言うことをにわかに飲み込むことができなかった。鯨を実戦投入するなど、古今、聞いたことがない。

 だが、確かに鯨であれば、スクリュー音を発せず泳ぐことができるし、一部の種類には、水深三千メートル近くまで潜るものもあると聞いたことがある。潜水艦よりもはるかに高い潜水能力を生かし、戦術を組み立てることは、軍事的に見て無意味なことではない。

 グロシェクの底光りする目は、海中の一点を見据えている。海面を目指して泳ぐ鯨の姿が、あたかも見えているかのようだ。

「沈めろ。奴を自由に泳ぎ回らせるな。」

「は!」

 もはや、音を立てず、得体の知れない新兵器を相手にしているわけではない。友軍の仇でもある。目標の正体が分かると、発令所内の指揮は一気に上がった。

 浮上しつつあるセイゲンの背中で、水菜は嫌な予感を振り払えずにいた。セイゲンにとって最大のアドバンテージは、相手に見つからずに攻撃できることだ。それが今、完全に崩れてしまっている。追われている、という実感に、背後から攻め立てられている気分だ。ハンターに追われる鹿も、こんな気分なのだろうかと水菜は思った。

 水深十二メートル。海面はすぐそこだ。

 セイゲンが、勢いよく海上へ飛び出した。大量の水しぶきを上げながら、ざぶんと水面へ身体を叩き付ける。

 水菜は水滴の流れ落ちる耐圧ガラスの向こう側に浮かぶ光景に、息を吞んだ。

 味方の戦艦二隻が共に、もうもうと黒煙を上げている。火災が発生しているのだ。その他、視界に入るだけで重巡一隻が艦体を傾かせながら退避中であり、軽巡一隻が、まさに沈もうとしている。圧倒的劣勢だった。

「負けてる・・・。」

 目の前の状況を見るだけでも、劣勢を覆すのはほぼ不可能に見えた。

「撤退命令は出ているのか。」

 セイゲンが水菜に言った。

「まだだけど・・、でも、これじゃあ、もう・・・。そうだ、セイゲン、傷!」

 傷の具合を見なければならない。

「待て、ここじゃあ、狙われる。」

 と、セイゲンが言う制止も耳に入らず、水菜は鯨用の応急セットが入った金属製の箱を抱えると、セイゲンの背中の上へ飛び出していた。

 ポッドの外に出ると、潮風に乗って、砲弾の発射薬の匂いがここまで漂ってきている。味方の駆逐艦がすぐ側を風のように航走して行くが、水菜達には目もくれずに通り過ぎるだけだ。くぐもった打ち上げ花火のような炸裂音が断続的に響いているが、水菜の耳には聞こえていなかった。

「ひどい・・・。」

 セイゲンの頭部付近に、二メートル近い裂傷ができている。海底の岩にひっかけたか、あるいは魚雷の破片にでも傷つけられたのだろう。流れ出る血が痛々しかった。平気だとセイゲンは言ったが、これはかなり痛んでいるはずだ。

「縫わないと。ちょっとしみるけど、我慢して。」

 水菜はそう言って、白布に消毒薬をつけ、傷口を拭いた。セイゲンの身体がびくりと動いた。傷口を拭きながら、水菜は傷の深さを確かめていた。

「かなり酷い裂傷だけど、臓器までは達してないわね。骨に傷もなさそうだし、これなら・・。」

 水菜はそれから、針、というより人差し指ほどの太さもある鉄釘の後ろにピアノ線を結びつけ、手早く傷口を縫っていった。百メートルほどの距離へ敵の撃った砲弾が着弾し、凄まじい水しぶきを上げるが、水菜の手は止まらない。

「おい。ここは危険だ。移動するぞ。」

「だめ。縫合がまだよ。動かないで。」

 セイゲンは、水菜の断固とした口調に驚いたが、その口振りからは説得できそうな要素など微塵も感じられなかった。ここは、砲弾が直撃しないことを祈るしかない。

 先ほどの敵潜水艦が気になる。あれで攻撃の手を休めるほど、甘い相手ではないはずだ。

「水上艦艇の航走音多数。砲弾の着弾音に紛れて、奴の場所を特定できません。」

 モゼドラクの発令所内では、グロシェクが黙ったまま、ミハイルの報告を受けている。セイゲンを張り付いていた海底から追い出せたまではいいが、今度は、洋上の騒音に紛れて位置が特定しづらくなっている。

「・・・潜望鏡深度まで浮上。目視確認する。」

「了解。潜望鏡深度まで浮上します。」

 グロシェクの命令で艦は浮上を始めるが、ファルスキーは思わず胸中の不安を口にした。

「友軍の海上前線からかなり突出しています。今、頭を出すと、敵の駆逐艦に見つかるのでは。」

「分かっている。だが、追い込まれているのは奴の方だ。ここで沈める。」

 グロシェクは、やると言ったらやる男だ。ファルスキーにはそれが分かっているものだから、それ以上の口出しはしなかった。

「・・・分かりました。敵駆逐艦の挙動にも注意しろ。海上にはうようよいるはずだ。」

 ファルスキーの言葉に、発令所のクルーの顔が引き締まった。

 モゼドラクは海面近くまで浮上すると、潜望鏡を伸ばした。ファルスキーが潜望鏡をのぞくと、予想通り、敵艦艇がそこら中を走り回っている。だが、その動作には統制が欠けていた。単一の意志によって艦隊運動が行われていないようにも見える。指揮系統に混乱が生じるほどの損害が出始めているのだ。

「敵さん、かなり混乱しているようです。我が軍が優勢です。」

「奴は見えるか。」

「ええ、ちょっとお待ちを・・。」

 ファルスキーはそう言って、潜望鏡を旋回させ始めた。波がかなり荒い。時折、盛り上がった波で視界が遮られるものだから、スコープを限界まで高く伸ばしきって周囲を確認した。

 ・・・いた。洋上に、ぽっかりと小さな岩礁が頭を出しているだけのように見えるが、注意して見ると、魚雷のような形をした人工物がその上に乗っている。一般の海上艦艇と明らかに違うシルエットのそれへズームアップすると、上で人が作業しているようだ。

「距離約九百。不審な船影があります。船、というより、岩礁に見えますが、明らかに人工物です。上で人間が作業しているようです。」

 ぽん、と肩を叩かれ、ファルスキーはグロシェクに潜望鏡の覗き口を譲った。グロシェクは潜望鏡をのぞきながら言った。

「・・・魚雷発射用意。一番注水。ノンソナー、有線。目標、前方の浮遊物。」

「了解。一番注水。」

 クルーの復唱へかぶさるように、別の声が発令所に響いた。

「敵駆逐艦、接近してきます! 気づかれたようです!」

 駆逐艦が、波を切り裂きながら小型の高速モーターボートにも劣らぬスピードで近づいてきている。

 グロシェクは、間髪を入れずに次の命令を発した。

「メインタンク注水。潜望鏡しまえ。総員、対ショック姿勢。こちらの魚雷着弾まで耐えろ。」

 有線で魚雷を撃った後は、有線操作終了後のワイヤーカットまで、急激な艦体運動を取ることができない。魚雷と艦を結ぶワイヤーが切れてしまうからだ。注水されたタンクは浮力を失い、モゼドラクは深度を下げ始めた。

「一番発射。」

「一番、発射します。」

 魚雷の推進機(モーター)が高速回転を始め、獲物を狩る猟犬のように、発射口から猛然と魚雷が飛び出した。

 水菜が最後の一針を縫い終えた時、セイゲンの緊迫した声が、インカムから聞こえてきた。

「魚雷が来る。」

 水菜は、傷の手当てを終えて息をつく間もなく、周囲を見回した。

「どこ?」

「近い。早く中に入れ。近い。」

 水菜はポッドへ飛び込むようにして入ると、ハッチを閉め、セイゲンに言った。

「行けるよ、セイゲン!」

 だめだ。魚雷が近過ぎる、とセイゲンは直感した。甲高い魚雷の航走音が、恐ろしい速さでこちらへ向かって来る。深みへ潜り込むには時間が足りなすぎた。

 今度こそ、直撃する。セイゲンが水中へ逃れようとしているとき、突然、聞き慣れない音が海中に響いた。

 セイゲンの背後から航走してきた別の魚雷の弾頭が、ばかり、と二つに大きく割れた。中から飛び出した、魚を捉える網のようなものが、急速に展開して行く。端に小型の推進機が付いた網は、蜘蛛の巣状にその面積を広げ、セイゲンに向かっていた魚雷を捉えてしまった。網は柔らかなナイロンででもできているのだろうか。魚雷は爆発することなく、包み込むように覆いかぶさる網にスクリューがからみつかれ、気絶したマグロのように、進む意志を失った鉄塊が海底に沈んで行った。

「た、助かった・・・? 何、あれ・・・。網・・?」

 水菜が放心したままつぶやいた。

 セイゲンが、後ろを振り返りながら言った。

「あいつが撃ったんだ。」

「あいつ?」

「鷲水だ。」

「鷲水が?」

 水菜は、水中へ目をこらすが、肉眼では見えない。だが、確かに網魚雷はその方向から進んできた。飯島や国岡の顔が水菜の脳裏に浮かんだ。戦場は緊迫しているが、援護してくれる味方が、この青暗い水の向こう側にいる。緊張と焦燥でつぶれそうな水菜の心に、むくむくと勇気が湧いてきた。

「私達だけじゃないんだ、戦っているのは・・。」

 鷲水の発令所では、命令と復唱が矢継ぎ早に繰り返されていた。

「手前にいたのは、垂木の嬢ちゃんと鯨だったか?」

 飯島が振り返りながら、国岡に言った。

「はい。先ほど潜望鏡で確認した限り、あれは垂木少尉とセイゲンでした。」

「そうか。海上の艦隊を狙ったものとばかり思っていたが、敵が沈めようとしていたのは、あいつらだったのかも知れんな。あいつらが無事なら、なお上々。」

 飯島は、髭もじゃの顔を崩しながら、にやりと笑った。

「網はうまく展開したようだな。」

「ええ。デコイやかく乱魚雷と同等の効果が期待できそうです。最初、配備された時には、役に立つのか疑問でしたが・・・。」

「単純だがそれ故、効果が高いというのはよくある話だ。魚雷を網で搦め捕ってしまおうなんざ、まるで漁師だな。」

 魚雷を魚雷で撃ち落とすには、非常に高度、かつ繊細な誘導技術が求められる。高速で航走する敵魚雷を狙っても、すれ違ってしまう可能性があるし、飽和攻撃的に複数同時発射された場合、撃ち漏らしが出てくる。その点、海中に巨大な網を展開し、魚雷を防ぐというアイデアは一見原始的とも思えるが、効果は確かにあったのだ。

「鯨が海底へ向かっています。」

 と、ソナー手が飯島へ言った。

「よぉし。垂木と連携する。さっきの魚雷の発射点を特定できたか。」

「は。距離およそ二千。機関を停止している模様・・・、あ、爆雷攻撃が始まっています! 味方の駆逐艦が敵、直上に到達したようです。」

「垂木を追い詰めたつもりが、逆にはまったな。このまま前進する。腹側には垂木がいる。前と上のみに集中しろ。」

 鷲水は、モゼドラクに向かってじりじりと距離を詰め始めた。

「第三区画、浸水! 対応可能範囲です!」

「第一区画で乗員に怪我人が出ています!」

 モゼドラクでは、爆雷の爆発が発生するたびに、艦体が激しく揺さぶられている。

「発射した一番はどうなった。」

 グロシェクは、爆雷攻撃の音など耳の入っていないのではないかと、ファルスキーが疑いたくなるほど冷静な声で言った。

「ワイヤーの伸び率が急速に落ちました。推進機の故障のようです。目標まで届きません。」

「そこでいい。爆破しろ。」

「了解。」

 クルーの操作した直後、有線で発射された魚雷が爆発したことを示すアラートが、モニターに映し出された。

「ワイヤーカット。」

「ワイヤー、カットします。」

 グロシェクが命令を出す間にも、爆雷の爆発音が、あらゆる方向から聞こえてくる。ファルスキーがたまらずグロシェクに言った。

「凄まじいですな。一旦引きますか。」

「・・・いや、もう止む。五十まで浮上しろ。起爆タイミングから逃れる。」

 止む、とはどういうことだろうか。ファルスキーはグロシェクを見つめた。しかし、根拠のない推測や楽観的展望を、グロシェクが口にすることはない。グロシェクが止むと言ったからには、止むのだ。

 ファルスキーは、ごくりと唾を飲み込んでからうなずくと、命令を下した。

「メインタンク、ブロー。水深五十まで浮上する。」

 モゼドラクがゆっくりと浮上を始める。浮上開始から間もなく、グロシェクの言ったことが、ぴたりと当たった。何の前触れもなく、爆雷攻撃が止まったのだ。

「止まった・・・。」

 ファルスキー始め、発令所のクルー達は冷たい脂汗(あぶらあせ)をぬぐいもせずに、上を見つめている。

「味方の海上艦艇が圧倒し始めていた。攻撃中の敵駆逐艦も追い散らされたのだろう。」

 グロシェクは、晴れたのだから傘をさす必要はない、とでも言わんばかりの、ごく当たり前の出来事が起こったにすぎないといった風だ。セイゲン達を潜望鏡で確認した際、味方艦隊の動きも見ながら、戦況の変化を予測していたのだ。

 頭上を味方の艦船が次々に通過して行く。海峡の制海権を取ったのは、グロシェクの側だった。

「追いますか?」

 雑巾と紙一重まで薄汚れているハンカチで額を拭いながら、ファルスキーはグロシェクに言った。

「いや、この海域での戦局は決した。ジルアナまで撤収する。」

「了解です。鯨の奴を仕留められなかったのは、なんとも悔しいですな。」

「ああ・・。」

「相手はしょせん生物ですから、推進速度はたいしたこともないようでしたが、潜航能力はかなりあるようです。」

「・・・・・。」

「我々よりはるか深みにまで潜れるという一点で、脅威になってくるでしょう。」

 グロシェクはうなずいた。ファルスキーの言う通りだった。この近辺の海域もそうだが、深さが千メートルを越える深海域が多数存在する。縦の深みを生かした、三次元的な戦術を組み立てられると、かなりやっかいだ。こちらには、その深度まで潜れる潜水艦がない。つまり、無防備な腹側へ、常に槍を突き付けられながら戦わなければならない。

「・・・対策を練る必要があるな。」

 グロシェクがつぶやくように言ったのへ、ファルスキーが応えた。

「ええ。下方からの攻撃に対し、特に警戒する必要があるでしょう。しかし、鯨と戦う日が来ようとは・・・。敵も、ずいぶん大胆な新兵器開発をしたもんです。どうやって調教したんでしょうね。」

「会話でもしてるんだろう・・。」

 珍しくグロシェクが冗談を言ったのかと思い、ファルスキーは笑った。鯨を仕留められなかったのは惜しいが、海峡の制海権を掌握するという軍事的目的は達せられたのだ。表情には出さないが、グロシェクも内心、嬉しいのだろうとファルスキーは思った。

「ははっ。鯨に命じて、思うがままに操ると。我々潜水艦乗りの立場がなくなりますよ。海は奴らの世界ですから。」

「ああ、そうだ。だが、同時に我々の世界でもある。次は逃さん。」

 グロシェクの目を見て、ファルスキーはぎくりと笑いを止めた。グロシェクは、決して喜んでなどいなかった。獲物を逃したハンターが、次の機会を淡々と狙っている。そんな目をしているからだ。

 ファルスキーはもう一度、汚れたハンカチで顔を拭うと、補給港ジルアナへと向かう指示を出した。


「しっかし、ひどい砲撃やったなぁ。撃ち込まれ過ぎて、海が泡立ってたやん。魚がぷかぷか浮きよるもんやから、食べ放できるかとも思っとったが、そんなんしてる暇、あらへんかったわ。あんさんも無事でよかったっちゅーとこやな。」

 水菜はセイゲンの背中のポッドで、延々と続く一方通行の会話を聞いていた。ようやく訪れた言葉の継ぎ目を見つけると、水菜はすかさず言った。

「君もね、ニライ。君が来てくれなかったら、退避が遅れていたかも知れないわ。あれだけの攻撃の中、来てくれてありがとう。」

「いや、水菜はん。同じ釜の飯を食う間柄やもん。お礼なんてそんな。あ、まぁ、釜言うても、あてら、白飯(しろめし)は食わんけども。」

 伝令用ハンドウイルカのニライは、ぴょん、と海面に身を踊らせ、それからセイゲンの周りを泳ぎ始めた。

 鷲水と連携してモゼドラクへの反撃を試みていたとき、水菜達はまだ、海上の異変に気づいていなかった。それまで敵との攻防においてぎりぎりの均衡を保っていた味方艦隊が、総崩れを始めたのだ。二隻いた戦艦の内、一隻は大破炎上し、もう一隻がすべてのスクリューを破壊され、航行不能となったことが、戦線崩壊の主因だった。攻撃にして防御の要を失った味方は敵艦船によって蹴散らされるように、分散してしまったのだ。艦隊単位で行動の取れなくなった各艦船はもはや、烏合の衆でしかなかった。個別に砲撃と魚雷の集中を受け、瞬く間に被害が増大したのだ。

 セイゲンと鷲水は、気づく間もなく敵艦隊に頭を抑えられるところだったのだが、そこへ、伝令としてニライがやって来たのだ。アベリア海峡の封鎖作戦は、敵艦隊に押し切られるようにして、失敗。戦艦二、重巡一、軽巡三、その他艦艇多数を失い、大敗北を喫した。

 ニライは、セイゲンの周りをぐるぐると回るようにして泳ぎながら言った。

「条件的には、うちらの方が有利やったんやけどなぁ。機雷原もあちこちに設置しておったし、海底地形や潮流の情報も豊富に持ってたのに、なんで負けたんやろ。」

 うろうろと泳ぎ回るニライを鬱陶しそうに目で追いながら、セイゲンは言った。

「単純な話だ。物量上、圧倒されたんだ。敵の艦船はこちらの三倍近い数がいた。後詰めが参加して以降、それを押し切る力が味方にはなかった。」

「物量・・・。」

 水菜はつぶやいた。アデリア海峡の封鎖に失敗したことで、海上輸送路が分断されるのはほぼ間違いないだろう。これまで、警戒海域の巡回を行うことでどうにか保ってきた海上の輸送路が使えなくなる。根を切られた植物のごとく、枯れるのは時間の問題だった。

 ニライは、深刻な表情でうつむく水菜の気持ちなどまったく頓着せず、気楽な口調で言った。

「ま、どちらが勝とうが負けようが、あてらにはあんまり関係ないねんけどな。餌出せなくなった時点で、あてらを使う資格も失うっちゅーことやし。そしたら海へ帰るだけのことやねん。水菜はんらには薄情思われるかも知らんけど、そういうもんやろ。関係が元に戻るだけや。お互いに存在するだけ。干渉はしない、ちゅう関係にな。」

「それは・・・そうかも知れないけれど・・。」

 水菜はニライに言い返すことができなかった。今後、戦局が悪化して行くと、研究所の予算も大幅に削られることだろう。セイゲン達を維持することができなければ、研究も破綻する。水平線上に見えてきた補給基地を見つめながら、水菜の気持ちは沈むばかりだった。

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