第10話 アカデミアの正義と魔術師(前編)

「なんなのこれ……」

 大学の中は張り紙だらけだった。数メートル置き、街路樹も壁もフェンスも、何もかもに大小のプリントが貼られている。

 建物の中も同様だった。

 私はそのうちの一つを読み、戦慄する。以前、夢ならざるユメで教授が見せてくれた書きかけの英語論文だ。

 隣には稚拙ながら和訳された物も貼ってある。怪しい研究をしている怪しい奴だぞ、という悪意が見え見えだった。

 他の貼り紙も恐らく全て教授の論文や電子ラボノートだろう。教授室から持ち出された物に違いない。

 廊下の壁一面、攻撃的リークに塗れた研究棟は異様な雰囲気だった。夏休みで人気が無いせいもあり私たちの足音が鈍く響き渡っている。

 いつも通り二階へ上る。

 廊下の角を曲がろうとすると、与那嶺さんに腕で制止された。彼が何故止めたのかはすぐに分かった。

 騒がしい。

 角からそっと顔を出してみる。

 教授のラボの前に学生が集まっていた。十人や二十人は居るだろう。ラボの中にはもっと居るのかもしれない。

 それだけじゃない。

「なんで武器持ってるのよ」

 金属バッド。チェーン。角材。男子学生のほとんどが凶器を手にしていた。その他も手に手にプラカードを持っている。

『エセ科学者 桂馬真斗を 大学から追い出せ』

『オカルト学者 桂馬真斗の 医師免許取り消しを』

『桂馬は医者じゃない 魔術師だ』

 真っ赤な文字から目を逸らせない。

 そうか。

 魔法の研究がバレて学生の反感を買ってしまったんだ。これは学生運動だ。教授の追放を求めるための。

 与那嶺さんが手振りで引き返そうと提案する。

 私は頷き、二人で階段まで戻った。

 不運にも、丁度下からプラカードの小隊が上ってきた所だった。中の一人が私たちを指さして叫ぶ。

「魔術師の手下だ! 捕まえろ!」

 与那嶺さんが苦々しく舌打ちする。

「自警団ぶりやがってクソが」

 私の腕を掴み、廊下を走る。学生たちは目の色を変えて追ってきた。

 私はまだ山で捻挫した足が治りきっていなかった。その上履いているのは与那嶺さんに借りたサンダルだ。鈍い走りは易々と追いつかれ、吹き抜けのロビーで囲まれてしまう。

 怖かった。

 暗い瞳たちは、完全に狩猟する獣の目だった。

 吹き抜けの上階から見下ろせば、黒色モザイクの輪が赤と金の点にむけじわじわ狭まるように見えるだろう。

「俺が気を引くからあっちに逃げろ」

 与那嶺さんが囁いた。私は頷く。

 彼の身体能力なら別行動した方が上手く逃げ切れるはずだ。

 与那嶺さんは腕を広げ、まだ少し掠れた声を張る。

「さぁさぁお立会い、御用とお急ぎで無い方はゆっくりと聞いておいで、見ておいで」

 ぐるりと殺気の観衆を見渡し、白い歯を見せて笑う。トリックスターが笑う。

「さてお立合い、ご覧あれ、魔術師桂馬 自慢の愛弟子、与那嶺 海夢かいむの跳躍を!」

 悠々然の口上の後、膝を屈曲する与那嶺さん。

 樹木の精霊の遺伝子が猛る。白衣の下で全身の筋肉が怒張するのが見えた気がした。

 ダンと床を蹴る音が弾ける。

 与那嶺さんは吹き抜けを舞い上がった。

 二階、いや、三階まで届いているだろうか。両腕を広げ背筋を逸らし揚々と跳んでいる。

 追手はみな口を開けて与那嶺さんを見上げていた。

 私は走り、包囲網の隙間を抜けて、建物の外に飛び出した。




 建物や街路樹の陰でプラカード小隊をやり過ごしながら私は走る。このまま走れば教授に会える、そんな予感がしていた。

 大体の学生たちも何かを探しながら同じ方向に走っていく。叫んでいる内容からして教授を探しているのだろう。

 周囲に気を巡らせ走りながら、ふと悲しい気持ちになる。

 私の髪が金色でなければ、瞳がすみれ色でなければ、こんなに目立たずもっと楽に逃げられたかもしれない。私を見たことのある人間以外には気付かれず、むしろ堂々と歩いて教授を探せたかもしれない。

 与那嶺さんもそうだ。赤い髪と黒い肌さえなければ。

 普通の人であれたなら、こんな目には遭わなかった。

「いたぞ! 魔女だ!」

 振り向くと男子学生数人がこっちに走って来ていた。その手には、登山ロープ。

 私は建物と建物の隙間に飛び込み、がむしゃらに走った。右へ左へ曲がり、生垣を突き抜け、逃げ惑う。



◆◆◆------



 走り疲れて、私はしゃがみ込む。

 光の差さない棟と棟の谷間。薄く砂と埃が積もり、吸い殻が散乱している。すぐそこの換気扇からは咽そうな酸の臭いがしていた。理系の実験室がある棟なんだろう。

 右手、明るい方に『中央広場』と書かれた案内板が見える。走るうち大学の真ん中まで来てしまったらしい。

 広場の方からメガホンで叫ぶ声が聞こえる。かなり人が集まっているみたいだ。

 茫然と吸い殻のひとつを眺めていると、足音が近づいてきた。広場のある方からだ。私は身を固くする。

 靴音が止み、路地裏がより暗くなる。

 こちらを向いて立ち止る逆光の影。

「教授?」

 呼びかけると、こちらに歩いてきた。

「やあ、紫蓮君。お疲れのようだね」

 裸眼に背広の、教授だった。のんびり歩いてきて、私の正面の壁にもたれ掛かる。

「教授、追われているんじゃないの? なんであんな人通りのある所から」

「准教授だけどね。勿論・追われているさ」

 眼鏡が無いせいかいつもより冷たい視線が私を見下ろす。

「多くの学生にとって僕は『眼鏡で白衣の桂馬』だ。講義には必ず白衣、毎日違う眼鏡だったせいもあって、顔の印象をきちんと覚えている学生なんてほとんど居ないんだよ」

 本当に冷たい気持ちでいるのかもしれない。切れ長の一重には嘲笑すら浮かんでいる。

「逆に僕をよく知り、真っ当な用事がある人間にはこうして声をかけられる」

 あの隠れ家に溢れた眼鏡は、素顔で仕事をせねばならぬ彼の精一杯の変装だったのか。しかしそれもまたパラノイアの杞憂ではなかった。

 磨かれた革靴が吸い殻を脇に寄せる。きちんとプレスされたスラックスが脚に沿ってしなやかに揺れた。

 私はそれを見ながら問う。

「……なんで私たちは追い掛けられているの」

 教授の研究を糾弾するだけならそこまでする必要はないと思う。

 教授は戯れに脚を組みながら答えた。

「僕を捕まえて学長のもとに突き出し『悪事』を白状させ辞職に追い込む気らしい。勿論・共犯の紫蓮君たちもまとめてね。誰が調べたのか知らないが、今日は会議で学長始め全役職が大学に揃っている」

 淡々と話しながらも『悪事』に思いっきりの皮肉が込められていた。

「学長の所に出されたら、教授はクビになっちゃうの?」

「ならないと思うよ。学長は僕の研究を理解した上でラボとポストを与えているからね」

 なら学生たちのしている事は全くの無駄ではないか。

「マトモな研究として必要な要素のひとつに再現性がある。いつ、だれが、どこで行っても同じ実験結果が出るということだ」

 教授は腕も組んで、壁に体重を預ける。高価そうな背広が汚れるのを気にする気配はない。

「僕の研究の半分はその性質上、アレらが見える者やψサイの人間にしか再現することができない。それでも残りの半分は誰にでも再現できるように出来ている。しかしあいつらにはそんなの関係ないんだろう。これだから素人は」

 捜索隊の駆け抜ける音がビルの谷間に反響して満ちる。

「彼らの殺気立ち様を見ていると、ただ突き出されるだけじゃ済まないのは明白だ。誰だろうね・こんな楽しい魔女狩りゲームを企画したのは」

 教授が横目に見やる先。

 いつの間にか通路の入口に来ていた、ナース服で仁王立ちするその女性は。

「茶々さん……」

「よく見付けてくれたね」

「あんなに堂々と歩いていれば嫌でも目に留まります」

 彼が茶々さんを真っ当な用事がある人間にカウントしていたかどうかは分からない。

 相変わらずの大きな胸が引き裂かんばかりにナース服を盛り上げている。長い黒髪はいつものネットに入れてはいず簡素に束ねられていた。

「こんなつもりではありませんでした。悪事の詳細を暴いたら、自分自身で先生を問い詰め、場合によっては葬り去ることも辞さない構えでした。資料の和訳を頼んだ友人が余計な事してくれまして」

 皮肉にも『悪事』という言葉を選んだ茶々さん。

 殺害を仄めかされたのに教授は冷静だ。

「類は友を呼ぶという奴だろう。正義感の強い友達だね」

「桂馬先生、アレを今すぐ処分してください。さもなくば」

 大きな目には白衣の天使の慈愛ではなく、潔癖なる威迫が。

 教授は相変わらず動じた素振りすらない。

 正直な所、この交渉は茶々さんに不利だと思う。

 たとえ処分を約束した所で、本当に始末したかどうか彼女には見えないのだから。だから殺す殺すと威圧して恐怖で縛ろうとしているのだろうけれど、多分教授はもう。

 自分の死なんて怖くない。

 茶々さんにもそれは分かっていたのだろう。彼女は私を指さした。

「さもなくば、マグノリアさんがどうなっても知りませんよ」

「茶々さん?!」

 私の声など聞こえないかのように教授を睨む茶々さん。

 教授が私の方を見やった。表情に変化は出ていない。

「Student君らしくもない手段だな。どうしてそこまでするんだい?」

 教授はゆっくりと壁から離れる。茶々さんに向き直り、両手を広げる。

「Student君もまた否定され、信じて貰えないまま悩んで生きてきただろう? 社会が憎くはないか? 世界が憎くはないか? 変えたいとは、思わないのかい?」

「思いますよ」

 教授の気迫に圧されたのか、茶々さんの声は震えていた。

「自分バカなんで喩え話は苦手ですけれど……重い知的障害や精神障害のある患者さんって結構、お風呂を嫌がる人が居るんです。入れると泣き叫んで喚いて全力で抵抗します。可哀想です。お風呂なんて入らなくても死なないし、放っておいてあげたくなります。でも自分たちは力づくで彼らをお風呂に入れるんです。それは」

 一度唾を飲み、震えを払って継ぐ。

「それは『病人は汚い』という偏見から他の患者さんを守るため! 桂馬先生、あなたという穢れは『違う能力を持つ者は怖い』という偏見をばら撒きます。大学のありさまを見てください。魔女狩りの再現が始まろうとしているではありませんか! 世界を変えるにしろ、もっと穏やかな方法があるはずです!」

「成程。Student君、君は正しい。全くもってその通りだ」

 教授は頷き、言い放つ。

「しかし同様に僕も正しいんだよ」

 茶々さんの小さな手がぐっと握られる。その手は包帯でぐるぐる巻きだった。教授室に押し入る時に自分の血を使ったのだろう。

 茶々さんもまた教授と同じように、もう手段を選ばない。

「……先生。自分はあなたを許すわけには、いきません!」

 ばつっ。

 火花のような音が鼓膜を貫いた。頬を掠める見えない熱波。立ち竦んでいる私の首元から、解れ足元に散って行く金糸。

 胸下まであった私の髪が肩の高さで焼き切られていた。

 悪い冗談ではないかと、私は焦げた毛先に触れる。

「うそ、茶々さ」

 次の瞬間、赤黒い影が落ちてきた。

 私と茶々さんの間に妖怪じみて着地する。

 目を眩ます白い背中。埃と吸い殻の臭いを舞い上げた、その姿は。

「与那嶺 海夢……!」

「美人に殺意丸出しの呼び捨てされるなんて、人生も悪くないね」

 与那嶺さんは体勢を立て直し、手の平の埃を払う。

「しかしレディの髪を切るなんてやり口は感心しな」

 皆まで言わせず左頬に真一文字の傷が入った。焼けた頬に髪と同じ血色が滴る。

 そうだ。茶々さんはまだ与那嶺さんの心変わりを知らない。彼女の中で与那嶺さんはまだ教授の右腕、実働部隊だ。

「まぁ、そんなもんだよなぁ……」

 与那嶺さんは諦念にうなだれた。茶々さんとの和解は望めないと踏んだのだろう。

 ならばまずは。

 教授に向き直る与那嶺さん。翻る裾の短い白衣が陣羽織のようだ。

「何の話してたか知らないけどさ、mt-Keima、ちょっと相談が」

「後にしよう」

 教授は間髪入れずに即答。微笑んでこそいるが明確な拒絶だった。

 与那嶺さんは笑顔のまま食い下がる。

「つれないなぁ、俺、今話したいんだけど」

 教授は黙って踵を返した。路地の奥、広場から離れる方へ歩いていく。

 皆呆気に取られていると怒鳴り声が降ってきた。

「おーい! 全員居たぞ!」

 遂に見つかってしまったらしい。

 建物の間に駆け込んできた男二人がまず茶々さんを捕える。

「待ってください、自分は違います!」

「とぼけるな! お前も桂馬ラボの卒研生だろ!」

「そうじゃない! そうじゃないんです!」

 訴えは退けられ、ベルトが腕と胴を縛り付ける。薄桃色のナース服に容赦なく食い込む革のベルト。茶々さんが痛みに呻きを上げる。

 与那嶺さんはトントンと靴先で地面を打つ。

「マグノリアちゃん、mt-Keimaを追い掛けて。俺は後から行く」

 私は頷き、教授の後を追う。

 背後で増援の来た気配がした。



◆◆◆------



 教授は一見のんびり悠長に、建物の裏手を歩いていた。

 私はすぐ彼に追いつく。

 しかし何と声を掛けて良いか分からない。しばらくただ斜め後ろをついて歩いた。

 教授は大学を囲う森の縁を進んでいく。革靴が下草や枯れ枝で傷だらけになるのを気にする様子もない。

「紫蓮君。危ないからもう帰りなさい。この森を突き抜ければ市街に出られる」

 振り向きもせず、教授が言った。

「実験はもう終わりだ」

 忘れていたけれど、私と教授の関係は実験協力者だった。彼が終わりと言ったからにはもう契約はお終いなのだろう。

 しかし突然別れを切り出されたって納得いくものじゃない。

「ねぇ、与那嶺さんの話を聞いてあげて」

「どうしてだい?」

 どうしてと言われても。

「僕を止めたいなら紫蓮君がそうすればいい。そうじゃないなら帰りなさい」

 そう突き放されてやっと気付いた。

 私は別に教授を止めたいと思っていないんだ。

 勿論人が沢山死ぬのはいけない事だと思う。

 でもだからって理由で教授の魔法を止めさせようなんて考えもしなかった。

 でもでもこのまま教授を放っておく気にもなれなくて。それは与那嶺さんの為でもあるけれど、そうじゃなくて。

「止める止めないとか、そんなんじゃないの。上手く言えないけれどこの魔法を使ったら。ちょっと待って」

 私はなんとか自分の気持ちを読み解こうとする。

「教授が世界の悪者になって色んな人に憎まれるのも嫌だし、もし私の大切な人が教授のせいで死んじゃったら、ただ亡くすよりずっと辛い。そうなったらもう二度と会えない気がしたの。教授に。だから与那嶺さんが止めるなら協力しようと思ったんだと、思う」

 私はうんうん唸る。

「その辺自分でもよく分からないけど、でも、つまり、えーっと」

 もうよく分からないや。

 説明しようとすればするほど訳が分からなくなっていく。こういうの、向いていないんだろうな。呪文みたいに私を言いくるめる教授の真似は出来そうにない。

 私らしいやり方ないかな。複雑な呪文を唱えるなんて無理だから。聖水をぶっかけるみたいな、聖書で殴るみたいな魔法。

 考えた末、私は呟く。

 精一杯シンプルに。

「……私は、教授に会えなくなったら嫌だな」

 私は教授のこと好きなんだと思う。

 会話噛みあわないし、何考えてるか分からないし、身勝手だ。でも私に色々教えてくれたし、助けてくれたし、教授と居ると楽しい。もっと沢山一緒に居たい。茶々さんや与那嶺さんと皆で一緒に色んな事をしたいんだ。

 教授には聞こえていたと思う。

 教授は動揺していたと思う。

 だってほら、准教授だけどねって直さない。

「ところで」

 不意に教授が足を止め、振り向いた。何事もなかったかのような無表情だ。

「ところで、沖縄君が危ない目に遭っているようだよ。お別れを言っておいで」

「お別れ?!」

 教授の大きな手が私の顔の前に翳される。

 フラッシュ。

 明転した視界には大学中央広場の石畳。そこに流れる血、血、血。与那嶺さんが倒れている。

 教授の手が退くと私は弾かれたように走り出していた。

「これを持っていきなさい」

 立ち止ると何か銀色の物が放り投げられた。とっさに掴む。

 先の曲がったハサミのようにも見えるが、これは何だろう。

「ケリー鉗子かんしだ」

 意味が分からないけれど私に説明を聞く余裕はなかった。

 与那嶺さんのもとへ、走る。



◆◆◆------



 教授の手の中でみたフラッシュと同じ光景があった。

 遠巻きにする若い群衆。棒立ちの茶々さん。

 そして、白衣を血に染めた与那嶺さんが横倒しになっていた。苦悶に歪んだ表情。左肩の辺りから血が溢れ、赤い水たまりを作っている。

「与那嶺さぁん!」

 私は声を裏返して叫び、近寄る。

 与那嶺さんが目を開ける。

「マグノリアちゃん」

 疲弊しきった声。そうしている間にも肩の染みは広がり、胸を赤くしていく。

 どうすればいいか分からない。

「誰なの? この人に酷い事したのは誰?!」

 パニックになった私は群衆に向け叫ぶ。無力感を憤りにすり替えても何の解決にもならないと知りながら。

「何もこんな事しなくたっていいじゃない! 人でなし! 私たちが何をしたの? 何をしたって言うのよ!! 誰? 誰がやったのよ出て来なさい! 与那嶺さんと同じケガさせてやる!」

 私は教授の鉗子かんしを振り上げる。

 離れて立っていた茶々さんがこちらに歩いてきた。真っ青に血の気が引いた顔で。

「茶々さんなの? 与那嶺さんに怪我させたのはあなたなの?!」

「そうです。そうですけど、断罪は少しだけ待ってください。それを貸してください」

 茶々さんは私が逆手に握った鉗子を示した。

 鉗子を受け取ると、彼女は与那嶺さんの傍らに屈んだ。震える手で白衣の肩を破る。

 ぱっくりと割れた傷口が剥き出しになった。今この瞬間にも止めどなく赤黒い血が湧き出ている。

 茶々さんは傷口に右手の指を入れた。

 与那嶺さんが痛みに身じろぐ。それでも傷口を掻き回すように探る。間もなく指が止まった。

 指の傍に、左手で持った鉗子が差し込まれる。持ち手が開いて、閉じ、止まった。

「これはケリー鉗子と言って手術に使う道具です。ハサミの様に見えますが、本来の仕事のひとつは、止血です」

 茶々さんが切れた血管を探しだし鉗子で挟んで止めたのだと、やっと理解した。

 よく見ると茶々さんのナース服は返り血だらけだった。群衆に怪我人が散見される。

 捕えられ、ヒステリックに混乱し、手当たりしだい傷付けてしまったのだろう。彼女はψサイ、触れずとも生物に危害を加える力を持って生まれた。

 群衆は相変わらず寄っても来ないし逃げもしない。畏怖の視線だけがこちらに降り注いでいる。

 魔女裁判の再来を危惧した彼女は、魔女狩りを引き起こし、そして本物の魔女になってしまったのだろう。

 止血したものの与那嶺さんは相変わらずぐったりと横たわっていた。

 茶々さんが泣きそうな声を上げる。

「茫然としていないで早く止血すればよかったです。自分はなんてことを……もう間に合いません……」

 間に合わない?

 私は茶々さんの肩を掴む。

「何言ってるの茶々さんやめてよ! ただ血が出てるだけじゃない。輸血すればいいんでしょ? それで間に合うんでしょ」

「それが、そうも、いかないんだなぁ」

 途切れ途切れの声で与那嶺さんが言う。

 この期に及んでピエロの笑みを浮かべながら。

「俺のRhは|―D―(バーディーバー)なんよ。ついでにルイス陰性だ」

「ど、どういう意味?」

「すごく珍しい血液型って意味です」

 茶々さんは打ちひしがれて今にも倒れそうだった。

「最悪一回だけなら違う型入れても大丈夫なんだけどさ、ガキの頃に劇症肝炎やって、もう輸血しちゃったんだよなぁ」

 お別れを言っておいで。

 教授の声がリフレインする。それを振り払うように私は、不必要なまでの大声で訴えかける。

「そんなのまだ分からないじゃない! 同じ血液型の人だって偶然居るかもしれないでしょ? 諦めないでよ! ねえ諦めないでよ!」

「マグノリアちゃん」

 消え入りそうな呼び掛けにはたと声を止める。

「ばいばい」

 私は言葉にならない訴えをただただ叫び続けた。

 救急車のサイレンが近づいてくる。



◆◆◆------

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