2章 魔術と心とあなたの未来

第8話 あの日の翡翠と魔術師

 すぐ見なくなるって、言っていたのに。

 

 私じゃない誰かの、夢ならざるユメ。これは誰の過去だろう。

 誰かは、暗闇の中で青白い光を見ていた。薄ぼんやりと鈍く青く。液体を塗りたくったような形。

『生物だけしか壊せないなら生物と見紛うほどに、か。アイディアとしては悪くない』

 誰かが独りごちる。この声は、教授だ。

 教授は暗闇に手を伸ばす。

 カチ。

 指先が電灯のスイッチに触れ、研究室に色が満ちた。

『しかしね。誰だか気付かれたくなければ、 誰にも出来る方法でやるもんだよStudent君』

 教授が「Luminolルミノール」とラベルされた霧吹きを机に置く。

 目の前には、ノブがぐちゃぐちゃに歪んだ教授室の扉。尋常ならざる力で潰されたのが明白だ。血は綺麗に拭ったのだろう。赤色は何処にも無い。

 それでも化学は騙せなかった。

 教授が部屋に立ち入る。

 教授室の中は荒らされていた。

 壁一面の本棚から、本を眺めては投げ捨てた形跡が。試料棚も全てラベルをこちら向きにして品定めした様子が。ゴミ箱の中身までぶちまけて広げてある。

 そして最奥に置かれたデスク。収納という収納が引っ張り出され漁られている。机の上は残念ながら最初から汚かったような気もする。

 そしてその真ん中に、燦々と光るパソコンのモニター。

『さすがに電源を入れっぱなしで出掛けたのは迂闊だった』

 欠片の悔しさも滲ませず冷たく感想を述べる教授。彼の瞳がモニター隅の日付を見た。

 山登りのあとの、夜中零時。

 過去ですらない。現在ではないか。

『紫蓮君。そこに居るね?』

 教授が言う。

『波乱の幕開けだ。彼女も馬鹿じゃない。間もなく僕の目論見を知るだろう』

 語りかけながら、マウスを操作し、ひとつのファイルを開いた。書きかけの論文に見える。

『読めるかい? まぁ、応えてくれたところで聞こえないが』

 私は英文を斜め読みしていく。

 これは。いけない。これは。

『ヒトならざるモノの科学―― 僕の魔法で、世界を壊す計画だ』

 待って、どういうことなの。待って教授。

 動揺のあまりモニターが霞んで英字が読めなくなってきた。

『研究の成果はあとで詳しく教えてあげるよ』

 待って待ってと叫べば叫ぶほど、視界は霞んでいく。何もかもが靄の向こうに消えていく。



◆◆◆------



 これは夢じゃない。


 秋のベンチ、落葉の中で女性が本を読んでいる。プラチナブロンドよりは重い不思議な鋼色の巻き毛。彫の深い顔も長い手足もきっと日本人ではないだろう。

 私を内に入れた誰かは、彼女を横目に一度通り過ぎる。

 まだ少し温い木枯らしが白衣の裾をはためかせた。

 誰かは建物のトイレに入り鏡を覗き込む。裸眼ではあるが、白髪一つない漆黒の髪を整えるその顔は。

{嫌だ! 嫌だ! 見たくない!!!}

 私は叫び、必死に目を覚まそうとする。

{起きろ起きろ! 見ちゃダメだ、見たくない!}

 しかし足掻けば足掻くほど彼の、若かりし教授の過去に沈み込んでいく。泥沼で溺れるように私の意思が意志が希薄になる。

 教授は一度微笑むと鏡から離れた。

 軽い足取りで、しかし白衣のポケットに手を入れて物憂げを装う。

 先程のベンチの所に戻り、何気なく女性の隣に座った。

{嫌だ! 教授の過去なんて見たくないってば!}

 本に向けられた女性の瞳もまた不思議な色合いだった。まるで翡翠のように、白くも青くも淡く濁っている。

 教授はごほん、わざとらしく咳払いして、わざと低めの声で言った。

「Hello,」

「ハロー。でも残念ながら私、英語は話せないの」

 女性は本から顔を上げずに応えた。本の表紙がアガサ・クリスティの原著であるのを、教授は二度見する。

「留学生なのに英語が話せないなんて珍しいですね」

 失礼は昔から健在だったようだ。女性は慣れている風情で返す。

「その代わり日本語が出来るから、ここに来ているのよ。英語が話せたら英語圏の大学に行っているわ」

「成程・しかし読みの方は堪能と見た」

 女性がちょっとこっちを見る。

 涼やかな視線。

 翡翠の両眼に見据えられ、教授の心臓は止まりそうだ。

 女性は本のカバーを取った。

 洋書の皮の下から出てきたのは、日本語ライトノベルだった。




 二人はどちらともなくベンチで会うのが習慣になっていた。他愛のない会話を交わしては、講義や研究に戻る。

「そういえば、まだお名前とご所属を伺っていませんでしたね」

 教授が腕を組んで空を見ながら言う。秋らしいイワシ雲の伸びる高い空だ。

 何気ない風を装って、医学部である事を早く自慢したいのが見え見えだった。教授は毎日白衣でここに来ていた。

 女性は相変わらずライトノベルに洋書のカバーをかけて読んでいる。彼女は表情も口調もあまり変わらない。そのクールな横顔を盗み見ながら話すのが教授の幸せだった。

「名前はエメリー・ドレイフュス」

「筋ジストロフィーみたいな名だ」

「よく知っているのね」

 エメリー・ドレイフュス型筋ジストロフィー症。そんな病気があるのを教授は知っていたし、彼女も知っていたのだろう。

 教授はここぞとばかりに胸を張る。

「そりゃあ、僕は医学部ですから」

「あらそうなの。こんな所を通るくらいだから理学部なのかと思っていたわ」

 すぐそこが理学部の実験棟であった。

 教授は、今度は聴診器も提げて来ようと決意した。

「私は日本語学部よ。改めてよろしく」

「僕の名前は桂馬・真斗。先程も申し上げたように医学部です。よろしくお願いします、エメリーさん」



 ある晩秋の日暮。

 教授はいつもの白衣のポケットを大切に押さえながら、いつものベンチに赴いた。

 エメリーさんはベンチには居ず、近くの地面にしゃがみ込んでいた。

 教授が後ろから近付く。

 子猫だ。野良の子猫がエメリーさんの指に頬を擦り付けて甘えている。

「こんにちは」

 教授が声を掛けて初めて気付いたらしい。

 エメリーさんは一瞬だけ恥ずかしそうな気色を見せ、すぐいつものポーカーフェイスに戻った。

 教授は教授で、今から言おうとすることに気を取られていて余裕がない。

「あー、エメリーさん。僕の父が。接待先からホテルのディナー券を貰ったんですよ」

 少し震えた指先がポケットの中から紙を引き抜く。有名ホテルの名が綴られた、二枚綴じのものを。

「もし良ければ、一緒に行きませんか?」

{待って。もうやめて}

 エメリーさんは翡翠の瞳を驚愕に丸くしている。しかしその視線はすぐ淡くなり「喜んで」と頷く。

{やだ。これ以上は嫌だ。}

 鋼色の髪に映えるネイビーブルーのイブニングドレス。

{ダメ。ダメだってば}

 グラスに映りこむ反転した夜景、ルビー色のワイン。磨かれた食器。

{やだやだ。終われ終われ}

 お酒が入って少しおぼつかない足取りと

{ダメダメダメダメ見たくない見たくない見たくない}

 背伸びして予約したスイートルームと

{起きろ起きろ起きろ起きろ、嫌だ嫌だ見たくないヤダ}

 薔薇色に上気した首に教授の指が這

{やだあああああああああああああああああ見たくないいいいいいいいいいいいいい!!}

 潤んだ翡翠色の、視線



◆◆◆------



「いいああああああああああっ! ゲゴボッ」

 咽こんでやっと夢ならざるユメから醒めた。

 何度か咳をした後、目を閉じたまま息を整える。

 まだ早朝なのだろう。夜に冷えた空気の残滓が私を取り巻いている。ぐっしょりと全身にかいた寝汗が少しずつながら蒸発していく。

 早く瞼を上げないとまた続きを見てしまいそうな、そんな不安に駆られた。

 とりあえず時間を確かめよう。

 私は寝返りし目覚まし時計の方を向く。

 まるで起きたら夢なのを恐れるかのように、ゆっくりと瞼を開ける。

 目の前にある、見慣れた目覚まし時計の、文字盤の上には。

 黒光りするGさんが居た。

 触覚を元気に回している。

「ぎああああああああああああああああああああ!!!!」



「大丈夫?」

 ママの問い掛けに辛うじて頷く。

 コンソメスープに反射した自分の顔はまだ血の気が引いている。

 寝起きのリアリスティックな衝撃のお蔭で、夢ならざるユメの粘っこい不快感は大分薄れていて、それだけが救いであった。

 八月中旬。熱を持つにも疲れが見えてきた太陽が、東の窓から光を落とす。スープの水面に乱反射するそれを眺めながら、今日はどう過ごそうかと思いめぐらす。

 教授の手伝いに行こうか。部屋が荒らされて片付けに困っているだろう。それに体を動かした方が色々思い出さないで済みそうだ。





 まだ冷房の効き切っていない大学。朝八時のラボの扉をそっと開ける。

 教授室は数枚の白衣を画鋲で留めて目隠しされていた。ドアは外して撤去したらしい。中からガサガサと紙を束ねる音がしている。

「教授」

 私は白衣の外から呼び掛けた。物音が止まる。

「片付け、手伝おうか?」

「准教授だけどね。お願いしようかな」

 私は白衣の暖簾をくぐる。

 部屋の中は、夢ならざるユメの中よりは多少片付いていた。本棚が空いたついでに積もった埃を落としているらしい。けっこう煙い。

 教授の今日の眼鏡は花粉症対策用、隙間が少ないやつだ。白衣とマスクと箒で大掃除スタイル。教授は本をキ×タオルで拭いていた。

「はい」

 教授が私にもマスクとキ×タオルを寄越す。

 キ×タオルは実験用の紙タオルだ。有名な実験用ティッシュ、キ×ワイプのタオル版。本来こういう用途の物ではないと思うが。

 まぁ、教授が良いって言うなら私に責任はない。

 私は本の山の上に座り、別な山から本を取って拭き始める。

 しばらくは二人で黙々と本を綺麗にしていた。

 ほとんどが英語かそれ以外で書かれた専門書だ。何の専門書かは分からない。そんな雰囲気がしただけだ。

 三枚のタオルが埃だらけになった頃。そろそろ良いかなぁと私は問い掛ける。

「ねぇ教授」

「准教授だけどね」

「茶々さんは、どうしてこの部屋に入ったのかな」

 教授はしばらく黙考していた。答を考えていたのか、あるいは、答えるかどうか考えていたのかは、分からない。

「僕を疑ったんだろう」

 シンプルではあるが答になっていない。

 答えたくないの意と解釈するのが妥当だろう。私は本磨きを続ける。

 追求しなくてもいずれ答は知れるだろうと感じていた。もう戻れないのだ。私は巻き込まれている。

 不意に手に持った本の間から紙が落ちた。赤黒い字で何か書き殴ってある、人型の。

「嗚呼・それは無事だったか」

 教授が自分の足元まで滑ってきた紙人間を拾い上げる。

「確実に効くと解っているだけに嬉しいな」

「それは何?」

 知りたいのか?

 教授の流し目がそう問うた気がした。

 私がビクリとすると、教授は答えなかった。

 教授が分からない。分かりたくない。

 私は話を逸らした。

「これだけ派手に家探しされて、何が無くなったか分かるの?」

「大切な物はね。どうでも良い物も消えているかもしれないが、それはいい」

 教授が人型を白衣の胸に仕舞う。

「パソコンの中のデータは消されずコピーされた形跡があったな」

「持ち帰ったのね」

「邪魔するだけが目的じゃない分、性質が悪いが」

 茶々さんは何をどうする気なんだろう。

 下らない話で笑い合ったのが遠い昔みたいだ。

 茶々さんも、教授も、遠い。私の知らぬところで薄暗い物が巡っていて、怖いし寂しくなった。

 今、私と近くあれそうなのは。

 山風に揺れる赤毛の残影を想う。

 与那嶺さんに逢いたい。

「ねぇ教授、与那嶺さんには何処へ行けば逢える?」

 正直に尋ねた。独りでは探せる気がしなかった。

「分からないな。メールしてみて」

「アドレス知らない」

「本人に聞くといいよ」

 問題が堂々巡りしているぞ。

「そうだ、思い出した。濾過装置を借りに行かせてる。化学科の棟へ行けば会えるかもしれない」

 お使いを命じながら一瞬忘れるその神経には脱帽すらしかねない。更に無神経を発揮して教授は私に仕事を投げる。

「行くならついでに、そこの台車に乗った塩を運んで行ってくれない? 化学の教授にあげる約束なんだ」

 教授が示す方を見ると、いつかの塩の一部が山積みされている。二、三種の特定のメーカーの物だ。

「いらないの?」

「うん。成分がイマイチでね。伯×の塩が一番よかった」

 塩にも成分とかあるのか。

 試してから沢山買えばいいのに、なんてきっと庶民の発想なんだろう。




 本の山をひとつ綺麗にしてから、私は台車を押してラボを出た。

 大学の中はいつもに増して静まり返っている。通る部屋のほとんどが灯りを消し、扉を閉ざしていた。

 そういえば世間はお盆休みだ。道理で人が少ない。


 案内図を頼りに、指示された部屋へ赴く。

 年配の女教授は塩の到来を喜んだ。料理に使うのか実験に使うのかは分からない。

 与那嶺さんの行方を尋ねる。

 離れの棟の実験室に居るから勝手に入って良いと言われた。



◆◆◆------



 実験室の扉の前で、私はロザリオを握っていた。

 何を祈るともなく祈っていた。私の思う本来の祈りとはそういう物だ。

 どうすればいいか分からない。何が苦痛か分からない。そんな時にそっと助けを乞うのが祈りだ。

 よく勘違いされるが、私は信者ではない。祈りの向かう先が、祈るための様式が欲しくてロザリオをかけているだけだ。

 神様に叶えて欲しくて祈るんじゃない。

 明確な望みが分かっているなら、自分の力で何とかできる。漠然と縋る気持ちを受け止めて欲しいから祈るんだ。

 私はゆっくりとロザリオから手を放し、顔を上げる。

 どこからともなくゴウンゴウンと低いモーター音が唸っている。

 金属の扉を押すと、案外軽かった。





「渓流の特徴なんだ。水の中にあまり生き物が居ない。だから有機性の不純物も少なくて濾過は簡単だった」

 大きな金属のタンクを前に、与那嶺さんが立っている。足元を短くした白衣のポケットに手を入れて。窓の無い実験室なのに、電気も点けずに。

 機械の何処からか漏れる温い空気の流れが、深い血色の髪を揺らしている。

「正直な所、濾過をするのには疑問があった。だって昔の聖水は濾過なんてしていないはずだろう? これが吉と出るか凶と出るか。mt-Keimaミト・ケイマは吉に賭けたらしいけどね」

 私の方を振り返るでもなく背中で語り続ける。私は黙って聞いていた。

「キミの聖水は軟水と硬水の中間たる性質を持っていた。普通にその辺で水を汲んだのでは作れないだろう。でももしかしたら、そうだね、軟水にイオン化傾向の低い金属を浸せば出来たかもしれない。手汗の染みた十字架とか」

 お祖父ちゃんが聖水を作るところを一度だけ見た事があった。お祖父ちゃんは確かに瓶の中に十字架を浸していた。

「教授は、この聖水をどうするつもりなの」

 私の声はモーター音に掻き消されそうだった。目の前の機械が処理しているのは、数リットルの単位ではない。

「さあね」

 与那嶺さんは後ろ姿で肩をすくめた。

 ゆっくりと振り向く。

「機械の動作も順調だから、俺は別の仕事に行くよ?」

「一緒に行く」

 与那嶺さんが手振りでついてくるように言う。

 機械の裏を周り、点検用通路に入る。

「ずっと聞きたかったんだけどさ」

 テノールボイスがコンクリの通路に反響する。薄暗く、彼の表情は読み取れない。

「なんで俺に優しくしてくれるのさ」

 私は黙っていた。

「俺が後輩に金握らせて猫の死体集めていること、時に自分で集めていること。とっくに気付いていただろう? 普通の反応はゴセット嬢みたいな感じだと思うんだけど。なんでマグノリアちゃん、キミは俺を毛嫌いしないのさ」

「……何か事情があると思ったから」

 嘘ではない。でも正直なところ、他の誰かだったら気味悪くて遠ざけたと思う。

 初めて逢った時から与那嶺さんのこと気になって、もっと知りたかった。与那嶺さんが何の理由もなく悪い事をしているなんて信じたくなかった。私は完全に盲目だった。

「優しいね。優しいよ」

 与那嶺さんが自嘲気味に言う。

「優しいついでにお願いだ。陸上部の後輩たちも憎まないでやってくれ。アイツらだって本当は可哀相なんだ。身体能力を買われ『陸上部員』と定められて大学に入ってきた。大学の名を上げるために毎朝毎晩、空き時間や昼休みすら練習、練習、練習……奴隷みたいな生活だよ」

 そうやって暮らしているのは、彼らの鍛え上げられた体を見れば分かる。

「アルバイトをする時間なんて取れるわけがない。成果を出さなければ存在価値が無い。陸上部を抜ければ凡百以下として価値を失う。そんな彼らをたぶらかかして、歩合制で好きな時に出来る仕事を与えたんだ。確かに前科持ちの荒くれだらけだけれど、みんな根は良い奴なんだ。彼らを悪役にしたのは俺で、アイツらは騙されただけ。どうか、恨まないでやってくれ」

「……うん。わかった」

「本当に優しい子だね」

 天井のヒビから下がっていた雫が光り、ぷつりと落ちた。床へ打ち付けられるその音が通路中に響き渡る。

 その残響が過ぎた頃、与那嶺さんは呟いた。

「もっと早く逢えていたら何か違ったのかもしれないな」

 私は呟き返す。

「今からでも変えられるかもしれないよ」

 整備用通路の終点が見える。

 与那嶺さんは手擦りもない無骨な階段を上って、ステンレスの扉を押し開けた。

 外は森だった。大学を囲む森の何処かだろう。

 与那嶺さんがポケットから鍵を取り出す。整備用通路を施錠しながら問う。

「mt-Keimaに何処まで聞いた?」

「世界を壊す魔法を作っている、って所まで」

「なんだ、ほとんど全部じゃないか」

 森の中を少し進むと、それは居た。 

 いつか月の森で与那嶺さんに消し飛ばしてもらった、茶色いアイツだ。

 あの時のより遥かに大きい。天を貫く靄の塔みたいに棒立ちしている。

 ソレの周りは石碑のようなもので丸く囲われていた。全てに赤い文字で『石敢當いしがんとう』と殴り書きされている。文字の下には盛り塩。ソレを閉じ込めてあるのだとすぐに理解できた。

「特定の『条件』下で生き物が死ぬと、特定の人間にしか見えない何かが、飛散せず残る。集めると大きくなる。僕がmt-Keimaに頼まれた研究は、効率の良い『条件』を見付ける事。心臓だけ潰してみたり、怖がらせてから殺してみたり、色々したさ」

 ソレの足元には肉塊がごろごろしていた。いや、肉片と言った方が正しいだろうか。全て掌くらいの大きさになって腐臭を放っている。

「皮肉な事だよ。ゴセット嬢の爆散四散させた猫の死体の傍には、すぐにコイツが現れた。元々入っていた器を壊すことが重要だったみたいだね。大きなヒントを貰った」

「どうして猫なの」

「それは分からない。教授のご指定さ。その辺にゴロゴロ居るし捕まえやすいからじゃないの。お蔭でそこのソレももう六匹飼えてるよ」

 この大きさが六匹。一体猫何匹分なのだろう。

 与那嶺さんは石碑の傍に屈みこむ。

 ポケットから折られた薬包紙を取り出した。中身は塩のようだ。盛り塩を交換していく。

「コイツが何なのか、誰も知らない。コイツを検知できる機械はない。でもいつか、放射線におけるガイガーミュラーカウンターのような物が、ニュートリノにおけるカミオカンデのような物が、出て来れば誰もがその存在を信じるようになるだろうね」

 石敢當がきちんと地面に刺さっているのを確認しながら、与那嶺さんが小さな小さな声で零す。

「そんな時代に生まれたかった」

 与那嶺さんも子供の頃からアレらに怖い思いをさせられてきたのだろうか。誰にも相談できずに怯える夜を過ごしたのだろうか。対処法を祖父に教わっていた自分はまだ幸せだったのかもしれない。

「教授はこれを使って何をするつもりなの」

「そうだな。どこから説明すればいいかな。CRISPR/Casクリスパー・キャスという遺伝子編集システムがある。ちょっと難しいんだけど。うーん。どこまで噛み砕けば高校生にも分かるかねぇ」

 石敢當に腰掛け、腕を組んで樹冠を見上げる与那嶺さん。隠し立てるす気は欠片も窺えなかった。本当に簡単に説明する言葉を探しているように見える。

「要はタンパク質で出来た、遺伝子を書き換える小さなマシンだ。科学者はこれを使って実験動物の遺伝子を変えてみたりするんだが……」

「それって、人の遺伝子も変えられるの?」

「そう。で、コイツはCRISPR/Casを運び、生きた人の中に入れるよう、mt-Keimaに訓練されている。つまり」

 つまり、どういう事だろう。

 私が答を待っていると、与那嶺さんはお手上げとばかりに両手を挙げた。

「ごめん。まだここから先は俺も分からない。色々できるけどmt-Keimaがどこまで出来て、どういう風に使うつもりか知らないから何とも言えない」

 彼も惑うくらいだ。遺伝子という物が、遺伝子を変える意味が、よく分かってない私に分かるはずもないだろう。

 澱んだ死臭を吸い続けたのも相まって、急に沢山の事実を打ち明けられ、目眩がしていた。知恵熱すら出しかねない。 

「ねぇ、どうして全部話してくれたの」

 私は混乱気味だった。

 今まで隠れて躱していた彼がお喋りだ。

 与那嶺さんは立ち上がり、白衣の埃を払って言った。

「『今からでも変えられるかもしれない』から」

 そして私を見て微笑んだ。安心したように、悲しそうに。

「昨日気付いたんだけどさ。俺の腕輪、持っててくれたんだな」

「あ、うん、そうなのよ。ずっと返そうと思っていて」

 会う度有頂天になってすっかり忘れていた。私の手首にはいまだ琉球ガラスのブレスレットが光っている。

「それ、やるよ」

「え?」

「そこのコイツ、直射日光は平気なんだけど、キラキラと散乱する光が苦手みたいなんだ。それ付けてると安全だよ。持っておきな」

「でも、大切な物なんでしょ」

 彼は夢ならざるユメの中で、中学生の頃からこれを付けていた。きっと何か言われのある物に違いない。

 与那嶺さんは聞こえなかったかのように点検用通路に戻ろうとした。

 私の隣を通り過ぎる時、何かを小さく囁いた。

 よく聞き取れなくて、散々考えた。

 薄暗い点検用通路を戻りながら、不意にパズルのピースが嵌るように音と唇のかたち、そして言葉が噛み合った。

 頬がぼっと熱くなる。




 多分彼はこう言ったと思う。

 「大切な物は大切な人にやるもんさ」と。

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