第7話 魔法使いと山を登る

 これは夢じゃない。すぐに分かった。

 現実ではない。でも絶対に夢でもない。

『だからドーピングじゃないって言っているだろ!』

 目の前には会議室。席に着いている者のほとんどが男性だ。

 ある者は疑惑の視線を、またある者は嘲笑をこちらに投げかけている。

 私――いいえ。

 私を内に入れた誰かが、日に焼けた腕を振って叫ぶ。

『何なら今ここで跳んでみせてもいい。断じて不正じゃない!』

 記憶のそれより少し高いが、この声には聞き覚えがあった。手首に光る琉球ガラスのブレスレット。

「退室しなさい、与那嶺よなみね

 冷酷に命じる声に、腹の奥から湧き上がる怒り、悲しみ。

 少年は手に顔を埋めて慟哭する。

『どうして信じてくれないんだよ!』




「……沖縄、さん、だ」

 薄っすらと瞼を上げ、私は呟く。

 朝七時。窓から漏れ聞こえる蝉の歌。じわりと這い寄る蒸し暑さ。

 パジャマのまま階下におりる。

 食卓に投げ出された新聞の隅。昨日彼の飛び出して来た神社で、猫の惨殺体が見付かった記事。ほんの数行だけれど、私の注意を奪うには充分だった。

 胸の奥には、まるで自分が否定されたかのような痛みが残っていた。これが彼の一部なら噛み締めたいと思った。

 何をしているか分からない沖縄さん、いいえ、与那嶺さんに、心だけでも少しでも近付く為に。

 でも、少し、不安だ。

 早々に朝食を済ませ、ラボに向かった。足早にいつもの道を進んでいく。

 住宅街の道路はゆらゆら蜃気楼に揺れている。追えど届かぬ逃げ水が、不安な気持ちを加速させた。


 

 夢ならざるユメの話をすると、教授は黙ってしまった。

「ヒトじゃないモノが見えるのは日常茶飯事だったけど、こんな事は初めてなの。初めてなのに変な話だけど、あれは確実に沖縄さんの過去だった」

 ぐるぐるぐる、教授の手元で三つのティーパックが湯を泳ぐ。紅茶の脇にはサンドイッチ。今から朝食なのかもしれない。

「沖縄さんの名前は与那嶺よなみねさんであっているでしょ?」

「……そうだね」

 サンドイッチを片手で回しながら、やっぱり教授の歯切れは悪い。

「ねぇ教授、私どうしちゃったんだろう」

「……」

 一番心配なのはそこだった。

 どこが痛いとか苦しいとか、いつもより多くのアレらが見えるとか襲ってきそうとか、そういうのは無い。でも漠然と怖かった。喩えは変だけど何の知識もなしに初潮を迎えたら多分こんな気持ちになると思う。

 教授はハムサンドを上品に食べている。

 咀嚼しながら黙考しているように見えた。

 実際にそうだったのだろう。ハムサンドを飲み下すと、教授は言った。

「特に何と言う事はない。すぐに見なくなると思うよ。多分」

「なんで?」

「……ゲラリーニ現象という言葉がある」

 突っ込まれなければ言わないつもりだったと思う。

「昔、ユリ・ゲラーという自称超能力者が居た。彼の超能力はトリックであったが、彼のショーを見て超能力に目覚める人間が多発した」

 ゲラーの話は少しだけ知っていた。幼稚園の頃、スプーンを曲げようとする遊びが流行っていたから。

「このように異能に触れて異能に目覚めるのをゲラリーニ現象、目覚めた人間をゲラリーニという」

 あの中で本当に曲げられるようになってしまった子もいたというのか。

「ゲラリーニのほとんどはすぐに能力を失った。それは彼のショーがトリックだったからかもしれないし、ゲラリーニ現象自体の性質がそうなのかも分からない」

 一瞬だけ、察してくれとばかりの沈黙が通った。

 私は汲み切れずに惑って待ってしまう。

「……今の紫蓮君にも、この現象が起きていると思うよ」

「でも、私、他人の過去を見られるヒトやトリックになんて会っ」

 ハッとなって口を塞ぐ。

 だから教授は言いたくなかったのだ。

 教授は紅茶を飲んだ。まるでカップで表情を隠すように、ゆっくりと。

 ――教授には他人の過去が見えているのだ。

 過去を覗かれるなんて誰だって良い気持ちじゃない。言うと嫌われるから隠していたんだ。

 ここで忌避感を欠片でも表したら、二度と教授と話せない気がした。

 私は神経を張り詰め表情を硬くする。

 大丈夫だよ、教授。

 怖がったりしないよ。

 頭の中で語りかけてみた。教授に聞こえているかは知らないが、届けと祈った。生まれて初めてロザリオを握らずに祈った。

「……ところで」

 かつん。教授がカップを置く音で、話題の終わりを告げる。私は思わずほっとしてしまった。

「聖水の成分検査の結果が届いたんだよ」

 教授はふいと席を立って教授室に入った。戻ってきた教授の手にはメール便のパックが。

 パックは梵字の印刷されたガムテープで雁字搦めになっていた。

「お祖父ちゃんの聖水ってそんなヤバいものだったの……?」

「いや、これは二木先生なりの洒落だろう」 

 テープの一部はもうペーパーナイフで裂かれていた。無理矢理呪いを解いたようにしか見えない。

「はい」

 教授は私にパックを渡す。

 私は中身を引っ張り出した。書類。書類。書類。数字と専門用語だらけ。

 何も分からない。

「何も分からない」

 混乱気味の自分をなだめるように言い、教授を見上げた。

「だろうね」

 じゃあ渡すなよ。

「それは水に混ざっていた微量成分のリストだよ。似た成分の水を探すか合成すれば、聖水の代わりになるかもしれない」

「お祈りとかいらないの?」

 私の疑問に、教授は諭すように笑う。

「問題は単純化して、一つずつ解決していくものだ。水を作ってから考えるんだよ」

 教授が資料を捲るようにジェスチャーする。

「そして・そっちは日本の山の湧水を調べた成分リストだ。キミたちが頑張ったからご褒美にくれたようだよ。親切極まりない」

「つまり、この中から似た水を探せばいいの?」

「ご明察」

 教授はちょっとご機嫌だ。

「更に幸運な事に・一番近い山の水が最有力候補なんだ。明日にでも採集に行こうと思ってる。一緒においで」

「うん、行く!」

 そこの水が聖水になりうるなら、定期的に通って汲んで来ればいいのだ。

 残弾の数に怯えるガンナーのような気持ちをもう味わわなくていいかもしれない。頭の中はそれで一杯で、いつの間にか憂欝は吹き飛んでいた。



◇◇◇------



 翌日。

 バスに揺られて現地集合。

 初めてではあったが観光地だけあって案内が整備されている。辿り着くのに苦労はしなかった。

 山のロープウェイ乗り場で待つ教授と共に居たのは。

「与……、沖縄さん! おはようございます」

 赤い髪と焼けた肌の青年、与那嶺さんだった。

 そういえば昨晩は夢を見なかったと今更のように思い出す。

 与那嶺さんは少しだけぎこちない笑みを見せた。しかし笑みはすぐ疑問符溢れる表情に変わる。

「お嬢さん、その恰好は……」

「へ?」

 私は自分を見る。

 いつも通り、高校の制服を着ている。セミロングの金髪を肩に流して、胸には祖父のロザリオ、靴はローファー。どこがおかしいのだろう。

「紫蓮君、さては山に登った事がないね?」

「うん? 無いけれど?」

 教授が笑い、与那嶺さんは額に手を当てて苦笑した。 

 よく見ると今日の教授は背広ではなかった。動き易そうな、カジュアルなスラックス。意外と細めの腰にウエストポーチ。手には胸の高さまである杖。上に白衣を羽織っているから目立たなくて気付かなかった。眼鏡もご丁寧にサングラス仕様になっている。

 与那嶺さんに至っては白衣も着ていない。この暑いのに上下長袖で、大きなリュックサックを背負っている。

 ふと周りを見渡すと、観光客はみんな与那嶺さんのような格好をしている。制服の私と白衣の教授は、正直な所、とても浮いている。

 私はようやく何かがマズいと気付いた。

「まぁ、レディには登山道から出ないでもらって、俺らで採集しましょうな」

「そうだねぇ」

 二人がロープウェイに向かって歩き出す。私は二人の後を追いながら尋ねた。

「そういえば茶々さんは?」

「体調悪いから来ないそうだよ」

 タテマエだと思う。茶々さんは与那嶺さんが嫌いだ。普段は気弱で優しい彼女が、与那嶺さんには射殺すような視線を向けている。一緒に行きたくなかったのかもしれない。

 教授が窓口で券を買う。ロープウェイの代金は研究費から賄ってくれるそうだ。

 赤い金属の箱に乗り込む。

 私はわくわくと斜面を見上げる。山頂に向かって真っ直ぐ、ロープが続いている。

 ロープウェイが動き出す。

「すごい、動いてる」

「乗り物だからね」

 淡々と言う教授。それでも私は楽しくて仕方がない。森の木々が両脇をどんどん流れていく。

 与那嶺さんが私に微笑み、振り向くよう促した。

 麓側の窓を振り返る。

「うわぁ、すごい!」

 背後に広がるのは薄水色の平野だった。

 甕覗きの色と言うのだろうか。清んだ青色の向こう、まるで水に満たされたように、霞んだ田畑が横たわっている。

 ゆっくりと流れる雲の影。その様も魚の影を映すようで、いつもの大地を湖底の箱庭に見せていた。

 足元では濃緑色の稜線が、湖岸のように横たわって少しずつ遠ざかる。

 日差しの熱など忘れた清涼感あるコントラストに私は夢中になった。

「本当に初めてなんだね、こういうの」

 与那嶺さんの声に、私は景色を見たまま頷く。

「アイツらに襲われて危ないからって、あんまり旅行とかした事ないの。エクソシストのお祖父ちゃんが死んでからは怖くて余計に」

 あんまりどころか、全くしていないかもしれない。

 遺品のロザリオも聖水も聖書も持ち歩いてはいたけれど、知らない場所でアイツらに会うのはとても怖くて、遠足は全部仮病した。

「友達と出掛けた事もなかったのかい?」

「うん。だって私、友達いないもの」

 一人だけしか。

 病弱のお嬢様、のんびり屋の硝子だけが私の友達だ。彼女は外国人の見た目した私を怖がらなかった。そして私の話を全部信じてくれた。彼女は私を、変だと言わない。

 逆に言えばほとんどの子は、金色の髪と紫の瞳を恐れ、見えぬモノを恐れる私を恐れ、変な奴だと後ろ指をさしたのだ。

「頑張って普通のふりする程、友達を作ることにメリットを感じられなかったわ。楽しいものは家の中にだって沢山あるし、独りだって遊べる。それに彼らどうせ、騒ぎたい時だけ都合よく一緒にいて、私がピンチになっても助けてくれないもの。話すら聞いてくれない」

 吐き捨てる私の後ろで、与那嶺さんも教授も黙っていた。

 彼らも同じ経験で育って、同じ想いをしたに違いない。

 背中でそう感じた。

「……俺もそう思うよ。仲間なんて作るもんじゃないさ」

 与那嶺さんがぽつりと小さな声で呟いた。

 じゃあ教授たちは貴方にとって何なの?

 尋ねようか迷っている間にアナウンスが到着を告げた。慣性と共にロープウェイが減速する。

 教授がポケットから地図を出して広げた。

「件の渓流はここから山頂を挟んで反対側だ。少し歩くからね」

「はーい」

「はーい」



◇◇◇------



「何なのよこれ……」

 私は足元を見下ろす。

 道なんて生易しい呼び名は似合わない。

 岩場だ。

 見た事もないような大きな岩がゴロゴロと積み重なっている。その岩肌にペンキで道標が描かれ、時に鎖が打ち付けてあり、登山客はそれらを頼りによじ登ったり下りたりしていくのだ。

 山頂まではアスレチック気分で乗り越えたが、降りるとなると、なかなか怖い。

「だから服装を心配したんだけどね」

 立ち止った私を追い抜き、教授が杖に縋って岩塊を降りる。白衣が防護服の役割を果たし、ちょっとやそっとの岩は平気らしい。滑った足を登山靴の底が食い止める。

 与那嶺さんに至っては鼻歌しながらトントン拍子に下って行く。いつか月の夜に見せた人間離れの跳躍力は伊達でないらしい。

 途方に暮れていると与那嶺さんが振り向いた。もう数メートルも違う高さから私を見上げ、指さす。

「パンツ見えてる」

 私はスカートを押さえた。

「うそぴょん」

 焼けた肌に白い歯が光り、再び岩から岩へ跳ねるように降り始めた。 

 今のはちょっと殴りたかったぞ。




 やがて岩場を過ぎ、少し湿った土の斜面となった。

 多くの人が踏み固め、苔も生えずツルツルになっている道。両脇は大振りの笹に縁取られている。

 山頂近くの岩場よりは俄然歩きやすいが、気を抜くと転んでしまいそうだ。

「岩じゃなくても舗装はされていないのね」

「これだけ綺麗に道の形をしているのだって有り難いくらいだよ」

 教授は若干息が上がり始めている。

 雑木林は見通しが悪い。水辺を目指しているとはいえ上も下も緑色に阻まれて簡単には見つからなそうだ。

 そう思っていた矢先に与那嶺さんが立ち止る。

「渓流の匂いがするね」

 私も鼻をヒクつかせてみた。

 慣れない苔や草や土の匂いに溢れていて全く分からない。言われてみれば少し水音がしているような気もする。

 与那嶺さんが道から外れ、笹を掻き分けて進んでいく。教授もそれに倣う。

 私も続こうとしたが教授に止められた。

「熊笹はけっこう鋭いよ」

 薄く鋭利な葉をスラックスで蹴散らしながら進む教授。

 私は制服のスカートから出た生脚を見て歯噛みする。だからこの真夏に二人とも長袖なのか。

 水場は意外と近かったらしい。何処からか二人の話し声が聞こえてくる。

 うーん、参加したい。

 私は笹の茂みにそっと足を踏み入れてみた。

 よし、擦らないように気を付けて進めば行けそうだ。

 葉を手で避けながら進む。けっこう急な坂だ。道理で近そうなのに二人の姿が見えない。

 笹をそっと押しのけ木を避ける。

 数メートル先に急な流れを見とめた。細いが勢いのある川だ。水は澄んでいる。

 あれが聖水の候補か。

「お嬢さん危ないよ!」

「へ?」

 その意味が分かった時にはもう、小さな崖を滑り落ちていた

「――!」。

 石や木の根が肌を掻き、大きな水音と共に視界に飛沫が満ちる。

 水音。全身を打つ痛み。

「お嬢さん! 大丈夫?!」

 下流から岩々を跳んで与那嶺さんが駆け付ける。

 自分は川に転落したのだ。気付くのにかなり時間がかかった。

 私は濡鼠で立ち上がろうとする。

 右足に激痛。

 濡れた服の重みもあってバランスを崩し、私はまた水に倒れ込む。

 小さな岩の上から与那嶺さんが私を覗き込んでいる。

「立てないかい?」

「ダメかも」

「そうか。では失礼~」

「え? ひゃん?!」

 与那嶺さんは川に腕を入れ、私を抱き上げた。

 俗に言うお姫様抱っこである。

 冷たい水に居たはずの全身が一瞬で火を噴いた。

「よよよ与那嶺さん! 濡れちゃいますよ!」

「どうして俺の名前を?」

 しまった。

 混乱の余り口走ってしまった。

mt-Keimaミト・ケイマに聞いたのか。彼にしては珍しいね。mt-Keimaは人を本名で呼ぶのが嫌いなのに」

 与那嶺さんは教授から教わったと勝手に納得したらしい。教授の夢見が伝染した訳だし、そうとも言えなくもないけれど。どうにも不正を働いた気分になり余計居心地が悪くなる。

 与那嶺さんは教授の居る方に向け大声で呼びかけた。

「mt-Keima! 聞こえるー?」

「聞こえてるよー」

「お嬢さん怪我して歩けないわー。俺が抱いていくから荷物もって先行っててー」

「えー、採集した試料の僕が運ぶのー?」

「じゃあ濡れてるお嬢さん運ぶー?」

「そっちの方が重そうだからいい」

 教授は相変わらず失礼フルスロットルである。

「川の水が血と泥で濁る前に採集済んでよかったよー。じゃああっちのケーブルカー乗り場でねー」

 失礼語彙を追撃した後、草を掻き分ける音が遠ざかって行った。

 私にはあっちがどっちだか分からないが、与那嶺さんには分かっているらしい。少し伸びあがったり傾いたりして道を模索、諦めたように川の中に足を入れた。

「うっ冷た」

「ごめんなさい……」

「まぁ初めてに失敗はつきものさ。可愛いお嬢さんを抱っこできて俺は嬉しいよ」

 改めて顔が熱くなる。

 思わず俯くと、濡れたセーラーが透けてロザリオも下着も丸見えだった。

 全方向の恥ずかしさを散らすように、私は強めの語調で言う。

「私はお嬢さんじゃなくてマグノリアよ。マグノリア・ウィッティントン」

「知ってるよ。本名で呼ばない方が良いかと思ってさ」

「どうして?」

「うーん、どうしてだろうな。mt-Keimaがそうしているから、かな」

 流れを掻き分け川底の砂利を踏む感触が、腕を通じて伝わってくる。

「多分だけど、古今東西で他人を呪う時って相手の一部、血肉や良く使う物や本名が鍵になるパターン多いじゃん? だから避けてるんじゃないかな。……よっと」

 高めに脚をあげて水から上がる。

 ぐらり体が傾いて、私は思わず固い胸にしがみ付いた。

「失礼。……mt-Keimaはね、パラノイアなんだよ。可哀想にさ」

 パラノイアの意味はぼんやりとしか知らなかったけれど、それ以上聞きたくなかった。

 教授の闇にはあまり踏み込みたくない。日々の生活で見せている鱗片ですら、深すぎる。

「与那嶺さんの事も、沖縄さんって呼んだ方がいい?」

「いや。俺は気にしないよ」

「じゃあ与那嶺さんって呼ばせて」

「どうぞ」

 承諾した後で彼は少し、はにかんだ。

 そんな表情が見れたのが嬉しくて私は質問を重ねる。

「与那嶺さんってきっと沖縄出身なのよね」

「そうだよ。高校までずっと沖縄の小さな島に住んでいたさ」

「ずっと陸上やっていたの? きっと強かったよね」

「そうだな……」

 表情と声色に影が落ちる。沈黙を満たす、草分けの足音。

「でも俺の大会記録はないよ」

「どうして?」

「不正を疑われて消された」

 感情を押し殺して淡々と。

 夢ならざる夢を思い出し、私は口を噤む。

「優れたコーチも居ない無名の中学から、初出場の地区大会で全国記録に肉薄した一年坊主の成果など、誰も信じなかった。俺が出場した形跡すらないよ」

「……」

「俺は確かに強かったさ。でも。いや、『だから』だな。誰も庇ってくれなかった」

 木々の間を弱い風が抜ける。濡れた体が冷えてきた。

 笹の葉擦れを背景に、与那嶺さんの目は遠くを見ている。

「仲間は俺を妬んでいたんだ。練習で嫉妬を募らせていた。俺だけが仲間だと信じていた。ドーピング疑惑が出てからは、まあ、お察しの通りさ」

 私を抱いてさえいなければ、おどけて肩をすくめていただろう。ピエロになれない体勢のせいか、距離が近すぎるせいか、ぽろりぽろりと本音が落ちる。

「俺の先祖が優れた身体能力を持ちながら隠れて暮らしてきた理由。やっと解ったんだ」

「先祖?」

「俺はキジムナーの末裔でね」

 焼けた肌、血色の赤髪、小柄な体躯。そして驚異的な身体能力。樹木の精は自嘲する。

「正確にはキジムナーとヒトの混血の末裔、かな。随分血が薄まってほとんどヒトになっている。だからと言っては言い訳だけど、自分がヒトのような気がしていたよ。ちょっと得意な事のあるだけのヒトのような、さ」

「与那嶺さんはヒトだよ」

 私は毅然と言い放った。

 それだけは肯定しなければならない。

「人間だよ。違って生まれてしまったから意地悪されちゃっただけで、私や教授や茶々さんと同じだよ。私だってイギリス人とのハーフだもん。そこは気にする事じゃないよ」

「キジムナーとイギリス人とは根本的に違う気もするけど」

 困ったように言う顔は、笑っていた。

「ありがとね、マグノリアちゃん」

 いつの間にか登山道に戻っていた。ケーブルカー乗り場まで数百メートルと看板が告げている。

「もうすぐだね。応急処置できなくてごめんよ。早く着いてmt-Keimaに何とかしてもらおう。痛いよね」

 緊張していて気付かなかったが、言われてみれば脚に大きな擦り傷があった。けっこうな量の血が出ている。

「医療系なのにできないの?」

「俺は臨床検査技師だから専門外」

 別に恥じるでもなく、正直に言う。

「ずっと聞きたかったんだけど、なぁにそれ?」

「病院で尿検査とか血液検査とかさせられるだろ?」

 採血したり尿を預かるのは看護士さんやお医者さんだった気もするけれど。

「で、その後、預かった血や尿で病気を検査してるのが俺ら」

「そうなんだ……。お医者さんが調べてるんだと思ってた」

「実は違うんだな~」

 他愛ない会話と山林の向こうにケーブルカー乗り場がチラつく。

 気持ちも身体もゼロ距離の今が終わってしまう。

 怪我なんていいから、どうでもいいから、もう少し遠回りしてくれればいいのに。



◇◇◇------



 教授はチケット売り場のベンチで缶の紅茶を飲んでいた。あまり美味しく無さそうな顔をしている。薄いらしい。

 与那嶺さんは私を教授の隣に座らせてくれた。彼の体温から離れ、気化熱が肌寒く切ない。

「あー・盛大に擦りむいているね」

 教授は大きなリュックからテーピングテープとガーゼを取り出した。ミネラルウォーターでガーゼを軽く湿らせながらボヤく。

「泥だらけだ。落とさないとね」

 ぞりっ。

 なんの予告も遠慮もなく、ガーゼが傷を擦った。

「痛いぃぃぃぃぃいぃ!」

 抵抗する私を片手で押さえつけ、なおも傷をこする教授。

 私は必死に遺憾の意を示す。

「泥落とすにしろ! 水で優しく流すとかあるじゃない!」

「水の節約は災害医療の基本」

 ここは災害現場じゃない。

 再びの容赦ないガーゼが私の傷を拭う。

「痛いーーーーいっ! 患者に優しくしてよ!」

「治療がさき。患者があと」

「なんで某詩人風なのよ!」

 与那嶺さんが腹を抱えてひーひー笑っている。

 彼とは別の涙を浮かべながら、私は痛みに呻く。

「足も挫いてるんだっけ?」

「あぎゃああああ! 無許可で曲げないでよぉぉおお!」

 ぐりぐりと縦横無尽に弄ばれる足首。

「骨は大丈夫だから捻挫だろう。こっちかな」

「痛いっつってんだよ! バカ馬鹿ばーーーか!!!」

「騒ぐんじゃない。動かしてみないとどの筋肉が傷んでいるか分からないだろう。これだから素人は」

 言葉にならない叫びと笑い声が山に吸い込まれて消えていく。

 家に帰る頃にはきっとヘトヘトで、よく眠れるだろう。



 よく眠れるはずだった。

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