第3話 魔法使いと保健師の弟子

 じーわじわじわじわ。

 外は蝉の大合唱。夏の盛り、炎天下、ここぞとばかりに恋をする。

  そんな五月蠅い世界から窓一枚隔てた室内で、私は課題を解いていた。

 冷房の効いた空気。自由にしていい飲み物。座り心地の良い椅子と広い机。静寂。

 夏休みの女子高生が勉強するに相応しい、この素晴らしい環境、何処だと思う?

 喫茶店? 図書館? 

 いいえ。

 桂馬教授のラボです。



 一週間ほど前、横断歩道のアレをカビで撃退した後。

 実験協力の契約書にサインした私を、教授はラボの一員として迎え入れた。

 いちいち約束を取り付けるのは面倒だからアポイント無しで好きな時に来て遊んでいて構わないと言う。互いに偶然ラボに居たら何か実験をしようと。そういうザックバランな契約であった。

 当初は流石に遠慮していた私だが。

 夏休みになると受験勉強できる場所を求め、結局このラボに流れ着いた。ほぼ毎日来てはお茶を飲みながら問題集を進めている。

 桂馬教授はほとんど不在。居ても忙しく何かしている。私には挨拶すらしない事が多い。

あ、でも何か用事はあるようだ。

 今朝九時頃に廊下をすごい早さで歩く教授とすれ違い「少しラボで待っていてくれ」と言われた。

 それから七時間ほどラボで待っている。時間を指定して来ないあたり迷惑きわまりない。

 どうせ一日中ここで勉強しているから、まぁいいんだけど。



◇◇◇------



 じーわじわじわじわじわ。

 蝉の求愛ライブは尚も激しく響き渡る。彼らに受験は無いとはいえ、嫁探しはそれ以上に大変だろう。

 私はいい加減、窓の外から問題集に注意を戻す。

 ちょっと分からない問題があって、しばらく筆を止めていた。

「こんにちわぁ。桂馬先生……」

 気弱そうにふるえる細い声。

 思わず振り向く。

 ラボの入口にナース服が立っていた。恐らく学生か病院職員なんだろう。しかし自信なさげで怯えたような所作と低身長、そして童顔。女性というより少女と呼びたい雰囲気だった。襟元に留めた猫のブローチが余計に幼さを強調している。

「呼ばれたのに、また居ないですかぁ」

 ナース服はうなだれる。

 勉強に飽き始めていた私は彼女に興味を持った。

「こんにちは。教授ならそのうち戻って来ると思うよ」

「ひゃああん?!」

 細い肩をビクリとさせ大仰に驚く。

「日本語喋れるんですね?!」

 またそれかよ。

 正直慣れた反応である。

 私は窓に薄く映った自分の姿を横目に見やる。長い金髪にハッキリした目鼻立ち、すみれ色の瞳。私はイギリス人と日本人のハーフだ。

 作り笑いを整えて答える。

「私は日本育ちのハーフだから喋れるよ。あんまり上手じゃないけどね。貴女はここの学生?」

「は、はい。桂馬ラボ所属の学生です」

 一瞬の沈黙。

 じーわじわじわ。

「うっそぉ! ここ学生居たの?!」

 思わず叫ぶ。私の驚愕に怯える女学生。

「は、はい。自分とあと一人だけですけど……。自分は講義が忙しくてあんまり来られてませんけれど……」

「びっくりした。てっきり教授一人でボソボソ研究してるんだと思ってた」

 本当に。

 このラボが大学の機関としてマトモに機能しているなど想像もしていなかった。だからこそこうも連日入り浸って勉強していたのだ。実際教授以外の人間を見かけた事はなかったのだが。

「大学生なんだよね。教授が来るまで勉強教えてよ」

「ええー……ちょっと問題見せてください……」

 またまた、自信無さげにしちゃって。入試抜けてきたんだし余裕でしょ。ここは有名な難関大学だもの。

 女学生は私の傍に来て、問題集を覗き込んだ。後頭部でまとめられた黒髪が、ナース服の中でたわわな胸が傾く。

「……」

「どう?」

「ち、中学生じゃないんですか?」

「高校三年。受験生よ」

「ごめんなさい無理です」

「えっちょっ」

 女学生は恥ずかしそうに顔を手で覆って呟いた。

「自分、推薦で入ってきたからロクに受験勉強してないんです……」

「じ、じゃあ数学と英語は? 推薦でもそれくらい試験あるよね?」

「そのぅ、推薦は推薦でも……桂馬先生に特技を買われて……試験とかなくて……」

 女学生はもじもじと小さな声で白状する。

 ああ、そうか、きっとこの人も同類なんだ。

 私は察して、可能な限り親しみを込めた笑みを作る。

「あなたもアレらが見えるのね。私もそうなの」

「……。違うんです。自分はちょっと違って……」

 煮え切らない語調。その迷いはとても良く分かる。

 信じてくれそうだけれど、信じてくれないかもしれない。

 私を知ってほしいけれど、変に思われたくはない。

 何度も何度も葛藤した。そしてここ数年はめっきり諦めて、考えすらしなくなっていた。もし仲間ができるならこんなに嬉しいことはない。

「私はマグノリア。マグノリア・ウィッティントン。普通の人には見えない、生きていないモノが見えるの。ソレに襲われている所を教授に救われて、ここに出入りし始めたんだ。よろしくね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 動揺からか変なお礼を挟み、一息入れてナース服は自己紹介した。

御所都ごせと 茶々ちゃちゃと申します。この大学の、看護学科の保健師コース、そして桂馬研究室の学生です」

 小さな頭と、その三分の一はあろうか大きなお団子ヘアが下げられた所で、私は興味津々問い詰める。

「で? 茶々さんは何が見えるの」

「見えるといいますか、出来るといいますか……」

 茶々さんはおずおずと腕を伸ばし、2メートルほど離れた所にある冷蔵庫を指さした。ピンと伸ばした人差し指の先をじっと見つめる。

 音になるかならないか。彼女の唇が軽く音を立てる。

「ぷ」

 と、冷蔵庫の壁面から何かが落ちた。

 虫の死体だ。

「……?」

 何が起こったか理解するのにけっこうかかった。

 空気が張り詰めたのはほんの一瞬だけだった。

 そして彼女はこの場所から一歩も動いてはいない。

 つまり。

「自分、ψサイなんです。あんまり好きな言い方じゃないですが、俗っぽく言うなら、超能力者。ちょっと生き物を壊せたりするんです」

 私は呆気に取られていた。

 つまり今のは、手を触れずに虫を殺したのか。何か不思議な力で。

 ……えーっと。

 考えに考え、やっと状況を掴んだ。

 遅れて出てきた感想はお粗末ながら。

「すごいね」

 見上げると、茶々さんは照れ笑いしていた。

「ありがとうございます」

 少なくとも、トリックを疑っていないことは伝わったと思う。

「そういえば、教授の推薦で入学したって」

「はい……。自分、勉強はほんとに苦手で、大学なんて行ける学力なかったんです。高校も学力的には底辺でしたし……。で、この力を使っている時に桂馬先生に話しかけられたあと、その、願書出してもないのに合格通知が届きまして」

 受験、勝ったな。

 私は問題集を閉じた。

 この異能に感謝したのは生まれて初めてかもしれない。

「ねぇ、教授が来るまでお話ししようよ。大学の事とか茶々さんの事、色々教えて」



◇◇◇------



「Student君も来ていたか、丁度良い。早速行こう」

 夕方七時。ラボに入って来るなり教授が言い放つ。Studentとは恐らく茶々さんの事だろう。

 私と茶々さんが振り向くと教授は『教授室』という扉の向こうに消え、出てきた時には白衣を羽織っていた。

 早速行こうと言いながら茶の準備を始める。

 私は改めて教授を眺めた。

 髪質も肌も若さがうかがえるながら、白髪交じりで猫背なせいか後ろ姿は老けて見える。背も高いのに勿体ない。

 広い背中、茶々さんの学生ナース服と違って中の服が透けていない。この白衣はきっと高級品なのだろう。

 カップにティーパックを三つ入れて掻き回す。その横顔は鼻筋が通り、なかなかのイケメンだ。

 今日の眼鏡は綺麗な緑がグラデーションしたプラスチックフレーム。眼鏡集めが趣味だという彼は、会う度に顔の印象が違う。これ、人の顔覚えるの苦手なかたには迷惑なんじゃなかろうか。

 褐色より黒と呼びたい紅茶濃厚液を流し込み、教授は歩き出した。

 我々に声を掛けたり、行先を告げる気遣いを求めるのは無駄だろう。

 私と茶々さんは特に何とも思わず教授の後をついていった。教授と話すとイライラしそうなので茶々さんに話しかける。

「茶々さんって看護士になるの?」

「はい、でしょうか。いいえではないですね。自分は保健師になるのが夢なんです」

「保健師?」

 茶々さんは小さな顎に手を添えてちょっとだけ考え込んだ。

「うーん、簡単に言うなら、地域や大きな組織の健康を取り仕切る看護士、でしょうか」

「へぇ、すごいのね。大変そう」

「少なくとも普通の看護士でいるよりは沢山勉強がいりますね」

 茶々さんの声色がふっと曇る。

「人を救いたくて看護士の道を選びました。でも、看護士として目の前の一人二人を何とかするだけじゃ、人を救った事にならないんじゃないかって疑問になって。自分が劣等生なのは重々承知ですけれど、でも頑張ってみたいんです」

 夢とか、決意とか、そんな明るい色に染まった声じゃなかった。

 気まずい沈黙の背景は、いつの間にやらアブラゼミから舞台を譲り受けたヒグラシの歌。

 私は何も汲めずに困り、とりあえず自分を引き合いに出す。

「人を救いたいってすごいと思う。私そんなこと考えた事もないもの」

「でも最近……『人を救いたい者』って誰より弱いんじゃないかと思うんです。先生を見ていると」

 茶々さんにつられ私も前を見る。

 数メートル先をゆらゆら歩く教授。白衣の端が夕風にはためいている。何にも興味がないように、何かにしか興味がないように、脇目もふらず真っ直ぐ歩く。足取りは確固として、速い。

 茶々さんが呟いた。

「救いたい人より壊したい人のほうが強いんです」

「え?」

 急に教授が右に曲がった。

 私たちもそれに倣って角を行く。『陸上競技場』と看板が出ている。

 目の前には、ゴムチップと芝生のグラウンドが広がっていた。

「高校のグラウンドよりずっと大きい」

 私は感心する。

 てっきり茶々さんがコメントをくれるかと思えば黙っている。

 茶々さんの顔色は悪かった。

「茶々、さん?」

 呼びかけに気付かなかったかのように、茶々さんは教授を追って競技場に入った。

 近くの木に居るのだろうか、ヒグラシの声が一際高い。空はグラデーションをかけて夜の支度をしている。

 教授はトラックが見える位置に立って、陸上の練習を眺めていた。

 茶々さんは教授からも少し離れて、ずっと自らの靴先を見ている。 

 やがてバッとナイター用ライト、スタジアムライトと言うのだろうか、が灯った。白色光がトラックを浮かび上がらせる。昼のようになった競技場。

 茶々さんの沈黙に耐えられなくなり、私は教授の方へそっと寄って行った。

「ねぇ教授」

「准教授だけどね」

「ここには何しに来たの?」

「最近、陸上競技部の負傷が不自然に多発しててね」

 珍しく会話が通じた。調査という事だろうか。

 私はトラックを見渡す。

 特に何か不穏なモノ、人に認知の外から危害を加えそうなモノの姿は見当たらなかった。

 そう、茶々さんとは違う、私の特技。それはヒトならざるモノが見えること。

「何も居ないわね」

「だよね。確認のために紫蓮しれん君を連れて来たわけだ・が」

「私はマグノリアよ」

 私の苦言に男の悲鳴が重なった。

 視線が吸い寄せられる。

 トラックでは短距離走ユニフォーム姿の男が地面に倒れていた。のたうつ事も出来ず呻き声を上げながら横たわっている。身動みじろぎも許さぬ激痛に襲われているのだろう。

 仲間たちは遠巻きに見ている。誰も介抱に行かない。

 教授は負傷が不自然に多発していると言っていた。まるで構えばその怪異がうつってしまうかのような振る舞いだ。

「ははっ、いやぁ見事に切れたねぇ」

 教授が可笑しそうに言う。

「何が」

「アキレス腱を始めとした脚の腱という腱」

 笑いごとではない。

「まぁ・見えたからこれでいい」

「何が」

 教授は見事に私を無視して踵を返した。

 向かう先は、相変わらず靴先を凝視したままの茶々さん。

「Student君」

 茶々の肩がびくりと震える。ライトの下、はっきり分かるほど青ざめていた。

「陸上競技部の素行の悪さは折り紙つきだが、程々にしてあげなさい。彼らは素晴らしい成果を残している。この大学の名を上げる財産だ」

「……すみません」

 消え入りそうな声。辛うじて掻き消されなかったのは、差し迫る夜に蝉が黙ったからだろう。

「初めて逢った時もそうだったね」

 それだけ言い残し、教授は白衣を翻した。

 勝手に帰路についたらしい。

 私は教授と茶々さんを交互に見比べ迷っていた。茶々さんは私を見、力なく微笑む。

「先生と初めて逢った時、自分は、暴走中の暴走族に『して』いました。彼らが少年に暴力を振るう所を見てしまって、我を忘れていて」

 隠していてもいずれ知れてしまう事だから。

 そんな諦念を滲ませながら茶々さんは独白する。黒曜石色の瞳は宙を見ていた。

「感情が高ぶると力を制御できないんです。その方法のヒントが見つかればと先生に……」

 ふと茶々さんが顔を上げる。

 教授は随分遠くまで進んでしまっていた。

「帰りましょう。ごめんなさい」

 茶々さんは悲しそうに微笑んだ。疲弊しきった正義感。困惑する慈愛。

 私は首を横に振る。

「誰にも相談できないよね、そういうの。分かるよ。きっと対処法みつかるから頑張ろう」

「……ありがとうございます」

 彼女は頭を下げたが、私の励ましは自分自身に向けたものでもあった。

 今は何よりも、彼女を試すような事をした教授に怒っていた。

 彼にとっては本当に試験や実験だったのだろうが。



◇◇◇------



 ラボに帰る途中。

 少し元気を取り戻した茶々さんと私は談笑しながら歩いていた。

 ふと気付けば数メートル前方で教授が立ち止り、生垣の中を凝視していた。

 教授はポケットから何故か綿棒と口のしまるビニールバック、何か液体の小瓶を出す。

 間もなく生垣の中から男子学生が飛び出してきた。

 引きしまった立派な体格だ。まるで、陸上競技でもしているかのような。

 男子学生は教授を一瞥だけしてこちらに走り、私に軽くぶつかった。

「おっと」

 謝りもせず体勢を立て直す。

 男子学生の頬には変なひっかき傷があった。私が不審の目で見詰めると、男子学生は歯を見せて笑った。

 直観が嫌悪した。これは、だめな、笑顔だ。

 学生は肩をすくめて走り去った。それを目で追う茶々さん。

「ぷ」

 確かに唇が動くのを見た。

 あの男子学生は今夜、どうなるのだろう――。

 茶々さんは相変わらず走り去る学生を見ている。

「……野良猫に限定するよう指示させたんだがな。お仕置きか」

 教授の小声が聞こえた。ごくごく小声。茶々さんには聞こえていないだろう。

 教授は改めて声をはりあげた。

「Student君。手伝ってくれ」

「はい」

 我に返り、小走りで教授の方へ向かう茶々さん。そして振り向きざま私を牽制した。

「見に来ちゃダメです。先にラボに帰っていて」

 そんな事言われても。目の前は四辻で、どっちがラボかなんて分からない。

 そうこうしている間に茶々さんは生垣に手を掛けた。

 闇すら吹き払うような悲鳴が聞こえてくる。人間のものではない。獣の、悲鳴。

「こらこらじっとしなさい。いったった。Student君そっち押さえて」

「タマ! タマに何するんですか?!」

 見知らぬ女性の声が訴える。タマ。再び聞こえた獣の悲鳴が猫のものだとやっと分かった。

「ごめんなさいお姉さん。大丈夫ですよ。この人はお医者さんです。警察に渡すのに、タマちゃんの爪から犯人の遺伝子取るだけですからね。すぐに終わりますよ。お姉さんにケガはないですか?」

 知らない女性の声は正気を失いかけているように思えた。

「あああ。お医者さん……! わたし、わたし、タマにごはんをあげていたら、急に男の人に殴られて。そしたらタマを押さえつけて、こんな酷いこと……!」

「あいたた。クソッこれだから素人は」

「猫にそんなこと言っても仕方ないですよ、教授。大丈夫ですよ、タマちゃん。怖かったですね。少し綿棒で擦るだけですよ」

 深緑の葉の裏、ぬばたまの闇の中で、何が起こっているのか。

 解らないけど何となく判って、私は固まっていた。

 五感以外の全てがただただ硬直していた。



◇◇◇------



「本当ならば一刻も早く家に帰してあげたかったです。でもそれじゃ犯人は捕まりません。次の犠牲者を出さない為にはタマちゃんのトラウマを深くするしかありませんでした。人に対するトラウマを」

 外は夜の帳に包まれている。窓ガラスに映る、二つのマグカップと浮かない顔の二人。

「犯人逮捕の為に二度嫌な思いをしたタマちゃんや、人間だからという理由でタマちゃんに嫌われるであろう彼女を想うと……『救う』ってなんだろうって、思います」

 私はインスタントココアを、茶々さんはカフェオレを飲むでもなく眺めている。

「私と違って、先生はそれを迷わずにできます。『救おう』なんて思っていないから。私は先生に呼ばれなければ、もしかしたらできなかったかもしれません」

 茶々さんの胸元で猫のブローチが静かに光っている。

 本当に、人間と同じに扱えるくらい、この人は猫が好きなんだな。

 こつん、こつん。

 軽いノックに顔をあげる。

 窓の方。ここは二階だ。

 アレ特有の嫌な気配はしない。小さな甲虫が体当たりでもしているのだろう。

「勉強すればするほど分からなくなります。自分の中の正義が、救済が、命の価値が、揺らいで揺らいで……。沢山の人を救うのは、もしかして個人を無碍にしていく事に繋がるなんじゃないかと、今日みたいな日は悩みます」

 茶々さんの唇が小さく「ぷ」と唇が動く。

 甲虫のノックが消えた。

「自分の最終最後の目標は、ψさいとしての力を人助けに生かすことです。でも、自分はまた感情のままに男子学生を……。あの男子学生が傷付けば、タマちゃんと飼い主さんは救われるのかもしれません。でも、それでいいのかな……」

 彼女の言葉無き呪詛を私も聞いていた。

 沈黙が横たわる。

 私は戸惑いながら尋ねた。

「あの男には、何をしたの?」

「わかりません。自分でもわからないんです。桂馬先生は、私の能力はタンパク質の構造を変えるものではないかと推察しています。何が変わったのかは分かりません。ああも怒り心頭になっていると……」

「……。あと、気になったのはさ」

 私は迷いなく歩く教授の姿を回想する。

 お医者さんや看護士さんはみんな、茶々さんのように人を救いたくてこの仕事を選んでいるのだと思っていた。

 一週間前に聞いた教授の話も、魔法と科学について述べた言葉も、意味は解らないけれどきっとどこかに誰かを救いたいという望みが隠れていると。そう勝手に思い込んで。

「教授の目標が『人を救う』じゃないとしたら、彼の、」

「いやいやぁ大変だったね」

 私の言葉を遮るような呑気ボイス。

 教授がゆらゆらと舞い戻ってきた。その手には大きな紙袋が握られている。

「いつもありがとうございますってお菓子貰ったよ、警察に」

 いつも。

 その意味を追及する気力は私には残っていなかった。

 教授は紙袋の中の箱を机に置く。パウンドケーキだ。

 時計を見ると夕食の時間をとうに過ぎている。この陰鬱な気分は空腹のせいもあるだろう。お腹に何か入れてから帰った方がいいかもしれない。

 私がケーキの袋に手を伸ばすと教授に制止された。

「紫蓮君は止めた方がよくないか? キミもお母さんも酒に弱いだろう」

 よく見ると確かにケーキはウイスキー入りだが。

「……なんで教授が知ってるのよ」

「准教授だけどね。キミの遺伝子読んだから」

「え? い、いつ? 私の遺伝子なんてあげた覚え……」

 教授はポケットから綿棒を取り出しゆらゆら揺らした。そしてちょいちょい、とマグカップを指さす。

 私がこの部屋で触れた物、そのすべてに付着した私の欠片――。そこから遺伝子を採取したというのか。

「そんなこっそり取らなくてもいいじゃない」

「契約違反ではない」

 そうなのか。

 私は口をつぐむ。

 正直な所、私はあの契約書の内容を半分も理解していない。

「紫蓮君はStudent君と仲良くしてね。遺伝子も広義のタンパク質だ。Student君が本気を出せば、お祖父さん譲りの遺伝子を壊して異能を失くすくらいできるかもしれない。それじゃあ研究ができなくなってしまうからね。頼んだよ」

 口調は明るいし頬は笑っているのだが、蛍光灯の反射したレンズの奥の目が。

 笑っている気がしなかった。

 今更のように不安が襲ってくる。

 私、とんでもない契約を交わしてしまったのでは。

 私、とんでもない人物と関わってしまったのでは。

 そして、とんでもない世界に足を踏み入れたのでは、と。

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