第2話 魔法使いとインクのしみ
教授のラボに行くと、知らない人がたくさんいた。老若男女。十人くらい。四脚しかない椅子は足りていず、ほとんどが狭そうに立っている。
ノックすらせず扉を開けてしまった私は硬直する。
「えっと……失礼しました」
思わずそのままドアを閉める。
横断歩道のアレをカビで撃退してもらい、契約書にサインしたあと。
帰ろうとする私に教授はこう言った。
「まずは三日後の午前十時に頼むよ」
というか、これだけしか言わなかった。
から、私一人に対して何か実験するのかと思ったけど。
なんかいっぱいいるぅ……。
ドアの外で立ち尽くしていると、廊下を早足で歩く音が近付いてきた。
「やあやあ・紫蓮君。じゃあ手順を説明するから教授室の方へ来てくれ」
「私は紫蓮じゃなくてマグノリアなんだけど」
紅茶色の髪と瞳の教授は、そのまま嵐のようにラボへ入っていった。集まってる人達に挨拶すらせず教授室に入る。
開けっ放しの入口を通し、人々の視線が私に注がれる。
思わず目を逸らすと、壁の鏡に映った自分が見えた。金髪に紫の目。高校の制服。これだけ人が居てもやっぱり異質な自分。
「し、失礼します……」
私は小声で言い、できるだけ部屋の隅を通った。
教授室の扉を少しだけ開け、隙間から滑りこむ。
「扉は閉めてくれ」
教授に言われ、後ろ手にドアを閉める。
教授室は図書館に似た匂いがしていた。
壁一面の本棚。それでも収まりきらず、床に積まれた分厚い本たち。
ガラス棚にしまわれた試薬瓶や試料箱のラベルは、知らない名前ばかり。
人形や仮面のカタチをしたものも。これらには近寄らない方がいいだろう。
最奥には立派なデスク。机の上はしっちゃかめっちゃかに物が散乱している。その隙間を縫うようにパソコンを操作し、教授はプリンタから何かをたくさん印刷していた。出てきた紙を一枚取り、私に差し出す。実験の承諾書だ。
「まず、これにサインしてもらって」
そしてリングで閉じられた冊子を渡す。
「これをやる」
表紙には『Rorschach Inkblot Test』と書かれていた。
「え? なにこれ」
「パレイドリアを記述させる検査だ」
欲しい説明はそうじゃないし、専門用語を使わないでほしい。
仕方なく携帯で検索をしてみる。
「ロールシャッハ検査……。これを受ければいいの?」
「いや。紫蓮君は試験官をやるんだよ」
は?
呆気に取られる私に、小さいながら分厚い冊子を渡す教授。
「プロトコルはこれ。僕は先に始めているから、隣のA23室を使ってくれ」
「プロトコルって何?」
「実験方法だよ。そんなことも知らないのかい?」
「私まだ高校生だから。あとそれならちゃんとprotocolって発音してよ」
教授はまるで聞こえてないかのように承諾書を数枚掴んだ。
目を落とすと、プロトコル冊子は英語だ。まぁ、バイリンガルだから、読めるっちゃ読めるけど……。
「難しくてあんまり意味がわかんない。何すればいいの? ちゃんと説明してよ」
ぶーぶー言う私を面倒くさそうに見下ろす教授。
「冊子に書かれた、インクのシミの画像を見せる。何に見えるか聞く。それで被験者の言ったことを記録する。一言一句漏らさず」
「……一言一句漏らさず? どうやって?」
「気合いで書きとってくれ」
そんな無茶苦茶な。私はブーイングする。
「ボイスレコーダーとかパソコンくらい貸してよ。というか、私、研究に協力するとは言ったけど、それは実験台になるって話で」
「『なんでもするわ』って言ったよね?」
性格悪いなこいつ。
性悪教授はデスクにあったカップを取り、濃い紅茶をぐいと飲み干した。
「来ているのは自称・霊能力者や自称・超能力者たちだ。もしかしたらこの中に、異能実験の被験者として使える人材がいるかもしれない。彼らは本物か。それを調べる試験のひとつだ」
「あのね。私が最初に聞きたかったのはそれよ」
「正直望み薄な方、被験者番号4~8は紫蓮君に任せた。僕はそれっぽい方をやる。じゃ」
「私は紫蓮じゃなくてマグノリアよ。あとこれって」
教授は皆まで言わせず部屋を出て行ってしまった。
扉の向こうから「被験者番号1番、こっちにきてくださいー」とやる気なさそうな声がする。
私は大きな溜め息のあと、携帯に録音アプリをインストールし始めた。
◇◇◇------
これでやっと三人目……。
何時間経っただろう。みんな説明が長くて、思ったより大変だ。いいかげん疲れてきた。
それに。
私はちらと壁の方を見やる。
壁には薄ぼんやりと――人の顔が浮かんでいる。しかも。
「……ボ……ボ……ボボ……」
こんな感じにずっと何かを呟いている。薄緑色に光りながら。ときどき手の平のカタチも壁に浮かぶ。
あの手がこちらに伸びて来やしないかと気が気じゃない。冷房はかかっているけれど、ずっと嫌な汗が出ている。
思わずため息を吐く。部屋の空気はなんだか生ごみ臭い。机と椅子以外何もないのに。
がちゃり。
さっき呼んだ被験者番号6番の人が部屋に入ってきた。
五十代くらいの男性だ。ずいぶんボロボロの服を着ている。どこか目の焦点もあっていない。待ちくたびれただけが理由じゃ、なさそうだ。
私は作り笑いで声をかける。
「よろしくお願いしますー。まずはこちらの承諾書にサインを」
男性は読みもせず名前を書いた。
「それじゃあ始めますね」
私は手元にメモを用意し、ボイスレコーダーのアプリを起動する。自分と男性の間に、冊子の一ページ目を広げて、置く。
「これ、何に見えますか?」
真っ黒なインクのしみ。インクを垂らしてから紙を折って作ったのだろう。左右対称なカタチをしている。
私にはこのシミ、蝶に見える。大きくハネを広げた蝶。
男性はしばらくシミをじっと見つめていた。
その間も壁の顔は呟き続ける。
「ボ……ボボ……」
あれ、この人には見えてないのかな。
そんなことを考えていたら、男性が口を開いた。
「天使」
私は慌ててペンを取り、メモに天使と書きなぐる。男性は続ける。
「天使。悪人を裁くために舞い降りたもので、今まさに力を振るおうとしている。両手に剣を持って、それを使って」
話に追いつけず、ミミズがのたくったような字になる。
「どのへんが天使でどの辺が剣に見えますか?」
プロトコルにあった通り、訪ねる。男性はシミを指でなぞった。それで天使のカタチになるのか、私にはよく分からない。でも仕方なくメモに記録する。
「ありがとうございましたー。次はこれで」
私は冊子のページをめくって見せた。
男性はすぐに呟く。
「赤いインク」
まぁ、確かに、そうね。
私はメモを取った。壁の顔が囁く。
「ボ……」
男性は振り向きもしない。
◇◇◇------
私が言われた通り四人の検査を終えると、教授はとっくに残り十人近い人の検査を終え、ラボの休憩スペースでお湯を沸かしていた。
ばりばりと三つのティーパックを剥く教授の前に、承諾書、冊子、聞き取りメモを置く。
「いちおう録音もしてあるよ。あとでパソコンから名刺のアドレスに送ればいい?」
教授はメモを読み始めた。
質問に答えろよ。
黙々とメモを読む教授。退屈した私はお湯の残りでココアを作る。
インスタント・ココアの粉をすくいながら、不意にお祖父ちゃんのことを思い出した。
私と同じ、金髪に紫色の瞳だったお祖父ちゃん。売れっ子エクソシストだったお祖父ちゃん。たまの休みに作ってくれた、練りココア。お祖父ちゃんが呪われて死んで、日本に来て、飲めなくなった懐かしい味。自販機やカフェにいくたびココアを飲んでみているけれど、あれと似た味にまだ出会えてない。
「ここまで
急に教授が話し始め、私はびっくりして顔を上げる。
「逸脱……なに?」
「たとえばこの『天使』に対する表現」
教授は私のメモ、被験者番号6番の記録をペンで叩く。
「『天使。悪人を裁くために舞い降りたもので、今まさに力を振るおうとしている』の部分。インクのしみが何に見えるか聞いているのに、物語を作ってしまっているだろう? これを作話反応という。次に『両手に剣を持って、それを使って』の部分。剣に見える部分を、天使に見える部分に結びつけて考えてしまっている。これは作話的結合反応という」
「は、はぁ……」
紅茶をぐいと飲む教授。
「インクのしみはインクのしみだ。本来なら、それ以外の何でもない。そこから物を連想するまではごく自然な反応だが、物語まで見出すとなるとあまりにインクのしみからかけ離れてしまっている。これを心的距離の増大と言ったりするが、つまり」
教授は私を流し目で見た。
「精神病の兆候だよ」
冷たく冴えわたる茶色の瞳。私は息を飲んだ。
「この人、病気なの?」
「霊能者を名乗っているのにそうじゃない時点である程度お察しだろう?」
「……」
教授は再びメモを目で追う。
「この記述も面白いな。『赤いインク』。これは逆に、インクのしみがインクのしみでしかなくなってしまっている。何も連想できない。しみと心との距離がなくなってしまっているんだ。反応産出困難状態とも取れる」
語る教授はなんだか楽しそうだ。もはや私に説明しているというより、独り言を楽しんでいるかのよう。
「こっちの被験者はAB反応がずいぶん出ているな。僕が診た1番もそうだった。霊能妄想と相関がみられるんだとしたら面白い」
次々と流れ出る専門用語。
人の心の姿を、歪みを、こうも楽しそうに話す教授……少し怖い。
話を聞き流しながら、冷凍庫から氷を出し、ココアを冷やした。
「で」
と、教授が顔を上げた。思わず手を止める。
教授は紅茶を飲み、私にたずねた。
「アレに反応した人は、いたかい?」
私は首を横に振る。
アレが何なのかはすぐにわかった。
実験部屋の壁に浮かんでいた顔。明らかに生きていない、昔は生きていたかもしれない何かの姿。
聞いてもないのに家の地縛霊について語り始めたお姉さんはいたけれど、その人だって壁の顔を横目に見もしなかった。
「やっぱりね」
教授はメモに視線を戻した。
「教授。アレ、なんだったの?」
「准教授だけどね。僕が大学病院で拾ってきて貼った」
そんなポスターみたいな言い方されても。しかも答えになってない。
「この手の研究っていうのは、
「私はマグノリアだけど」
「意外と地道な仕事なんだよ、研究っていうのは。ただ研究室にこもっていれば完成するようなものじゃない。足で探す力。人脈を辿る力。そういうものも問われてる。研究者に最も必要な才能は体力だとすら言うこともある。僕はそうじゃないとは思うけどね。そもそも研究は」
「……ねぇ」
教授のうんちくを聞き流しながら、私の胸にたまってきた澱み。
聞きたいような気もする。聞きたくないような気もする。
でも、結局、私はたずねた。
「病気のひとが、自分は霊能者だって主張することがあるなら……。逆に言えば、私、病気のひとに見えているのかな」
「当然そうだろう」
やっぱり。
そんな気がして、いつしか人前でアレらの話をしなくなった。
やっぱりそうなんだ……。
これからも一生隠し続けなきゃいけないのかな。そうじゃないと気味悪がられたり、無理やり入院させられたりするのかな。
私の家族や友達に精神病の人はいない。どんな症状が出て、どんな治療をするかも知らない。でも。なんとなく怖い。
「別に精神病で自分が霊能者だと勘違いしていても何ら問題はない」
教授が意外なことを言い、私はちょっと驚く。
「そうなの?」
「だって問題ないだろう?」
私は首を傾げる。
「そうかなぁ。でも、変に思われたり」
「そういうことだ」
「え?」
教授が長い脚を組む。
「社会生活に困難を生じたとき、それは病気になる」
確かにそうかもしれない。
この子は病気だからと本音で付き合ってもらえなくなる。言っていることが信じてもらえなくなる。それが怖いから、私は黙っているのかもしれない。
思わず俯いて考えこむ。
病気って、なんだろう?
「紫蓮君は幸福だ。祖父君をはじめ、キミの話を信じてくれる人がそばにいるんだから」
教授がぼそりと言った。
確かに、家族も
なんだか言い方に不穏なものを感じた。私は顔を上げる。
「教授は、信じてくれる人、いたの?」
あえて過去形で聞いた。
遠くから鐘の音が響く。大学のチャイムだろうか。午後の講義が始まるのかな。
教授は紅茶を一口すする。
「准教授だけどね」
それ以上、何も言わなかった。
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