(3)
「中井さんから電話来たあ?」
ゆかりさんが、ノートを開いてボールペンで頭を掻いてる。
「いえ、来てないですけど」
「うー、困ったなー」
「どうしたんですか?」
「いや、立ち話で髪やってねって頼まれたんだけどさ。あのおばちゃん、何回言っても予約入れてくんないんだよなー」
ゆかりさんが、やれやれって顔でノートをぱたんと閉じた。
「中井さんかい? わたしが確かめてこようか?」
そう聞きながら、ママがゆっくり店に下りてくる。
「ママ、腰は?」
「今日はまだいいみたい」
「無理しないでよー。寝込まれたら困る」
「分かってるよ!」
ママが、ぷうっとむくれた。
わたしが一葉館からママの家に越してきて一週間。やっと少し慣れてきた。ゆかりさんは最初すごいきついことを言ったけど、わたしに辛く当たることはなかった。いや、辛く当たってる暇もないって言った方がいいかもしれない。
ママは腰を痛めてる。状態のいい時にはお客さんの髪を扱うこともあるけど、長い
時間は仕事場に立てない。家事もそうで、軽い短時間の作業はこなせるけど、重いものを持ったり何度も屈んだりっていうのが辛そうだ。その分の負担が、全部ゆかりさんにかぶってくる。
なぜこの店が予約制なのかもよく分かった。あらかじめ予定を立てておかないと、ゆかりさんが家事をこなせないからだ。だから、本当は完全に一人でお客さんの髪が扱える人が欲しかったんだ。
わたしは……まだ何もできない。ウイッグや友達の髪を扱うっていうのとはわけが違う。ごめん、失敗しちゃったなんて言えないんだ。わたしよりかはずっと長く髪を扱ってるゆかりさんでさえ、なじみの深いお客さんの髪を扱う時には必ずママが付く。小さい寂れた店なんて見てたわたしがどんなに甘かったか、思い知らされちゃった。それなら髪以外のことはできるだけがんばろう。そう思ってたんだけど。
わたしはまだ養親の追跡が怖くて、気軽に外に出られない。買い物とか、出て歩くのに抵抗がある。じゃあ家の中のことはてきぱきやろう、そう思ったんだけど。とんでもない。わたしはほとんど役立たずだったんだ。
養親のところにいる時に、わたしはほとんど家事をさせてもらえなかった。家政婦さんがいて、家事はその人が全部取り仕切る。わたしの出番はどこにもなかった。勉強と習い事がわたしの『仕事』。それ以外にわたしの出来ることはなかったんだ。ローリーで働いてる時も、ほとんど自分で炊事はしなかった。いや、出来なかった。掃除や洗濯もいやいややってた。
養親のところから独立するって思っていながら、それに向けた準備は全然出来てなかったんだ。わたしは生活するってことを、とことん甘く見てたんだろう。そのツケが……ここに来ていっぺんに出ちゃった。
たぶん。ママもゆかりさんも呆れてたんだと思う。役立たずのお嬢さんだって思ったんじゃないだろうか。でも、わたしをそんな風にこき下ろすことはなかった。毎日へまばかりするわたしに、根気強くいろいろ教えてくれた。
「知らないなら覚えればいい、出来ないなら出来るようになればいい。最初から何もかも出来る人はいないよ。神様じゃないんだから」
「そうそう。ちゃんとやる気があれば、家事なんかすぐこなせうようになるよ。それよりも、髪扱う感覚を鈍らせないようにしないと」
ママやゆかりさんはそう言って、髪を切る以外の作業は積極的にわたしにさせた。洗髪、ロット巻き、
「しんどいのは分かるけど、お客さんにそれを持たせたらだめだよ。お客さんは店で変身して帰るの。新しい自分にわくわくしてね。それを台無しにしちゃだめ!」
でも……。それはなかなか難しかった。わたしのふてくされた態度はなかなか直らなかったんだ。
◇ ◇ ◇
ママの店に居候させてもらって、二か月が過ぎた。わたしは家事には慣れた。まだママやゆかりさんがやるように手際良くは出来ないけど、二人が心配してわたしの様子を見に来ることはなくなった。店の手伝いも、それなりにこなせるようになった。ただゆかりさんは、わたしが鋏を持つことだけは許してくれなかった。それは、わたしの腕を信用してなかったからっていうより、わたしに心の余裕がないことを見抜いてたからだろう。
お客さんが望むイメージを会話を通して出来るだけ正確に引っ張り出し、それがどうすれば出来るか自分の中で手順を固めてから鋏を入れる。そうするには、お客さんの気持ちを敏感に感じ取れるアンテナをいつも張ってないとだめなんだ。自分のことしか考えられなかったわたしに、そんな芸当が出来るはずはなかった。
そして。わたしの頭の中ではママのところはあくまでも避難所。事態が良くなっても悪くなってもわたしはいずれそこを出ないとならない。わたしにとって、ママのところにはそれ以上の意味がなかったんだ。でも、ゆかりさんはそう考えてなかったんだろう。ある日突然、打って出た。
「ねえ、ママ。ちょっと相談があるんだけど」
三人で夕飯を食べてた時に、いきなりゆかりさんがそう切り出した。
「なによ、いきなり」
「わたしね。そろそろ宣伝を打ちたい」
「へっ!?」
ママが箸を止めた。
「ママが腰痛めてからは、あまりスケジュール詰めないようにしてたんだけどさ。たみちゃんもだいぶ慣れてきたし、もう少しお客さん増やしたい」
「大丈夫なの?」
ママが不安そうにわたしの顔を見た。
「宣伝打つって言ったって、うちはお金ないからそんな大したこと出来ないよ。たみちゃんの名前出すわけじゃないし、大丈夫でしょ」
「ふうん。何すんの?」
「チラシ作る。新聞折り込みの」
「いくらかかるの?」
「新聞店の梨田さんとこのおばさんに、ただで髪やったげるから折り込みチラシ入れさせてって頼んだ」
「あんたもちゃっかりしてるねえ」
「そりゃそうよ。うちはそんなに余裕があるわけじゃないし」
ううう、肩身が狭い。
「たみちゃんががんばってくれてるから、倍とは言わないけど、何人かは常連さん増やしたいんだ」
「ま、いずれはあんたの店になるんだから、それは分かるけど。ただのチラシじゃないんでしょ?」
「もちろん。期間限定で値引きするの。チラシご持参の方は特別価格ってことで」
「なるほどね。まあ、いいけど。チラシはどうすんの?」
「そんなん、自分で作るに決まってる。明日写真撮るからよろしくね」
ゆかりさんは、そう言って。わたしの顔を見てにこっと笑った。それは、わたしに対するプレッシャーだった。あんたの事情はあんたの事情。わたしらは自分の生活があるから、そのための手段についてはあんたに文句は付けさせない。そう言うはっきりした方針だ。厚意で置いてもらってるわたしに、それに文句が言えるはずがなかった。嫌だなあとは思いながらも。
その翌日、写真が趣味のマーブルのマスターがわたしたちの写真を撮りに来た。自分の撮った写真がチラシにそのまま使われるって知ったマスターの張り切りようはすごかった。たった一枚の写真を撮るのに、どれだけシャッターを押したか分からない。マスターの注文は、ほとんどわたしに集中した。
「たみちゃん。店の宣伝用なんだよ。そんなぶすくれた顔をしないでくれよ」
それでなくても愛想のないわたしは、自分のことが養親に知られたら困るっていう懸念もあって、もっと不機嫌そうになってしまった。だいぶマスターをてこずらせたと思う。なんとか作り笑いの顔で勘弁してもらって、宣伝のチラシは完成した。ゆかりさんは、わたしの心配を笑い飛ばした。
「全国版の新聞に何万枚も入れるわけじゃなし。うちの周辺の数百軒の範囲だけじゃないの。顔写真だって、遠目に写ってるだけだし。なにびくびくしてんの」
まあ、そうなんだけどさ。でも、チラシが配られて何日か後。その人が店に……やってきたんだ。
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