(5)

「今年に入って。予想もしなかったことになっちゃったんだ」

「……どんな?」

「夫婦がね。離婚することになったの」


 げっ!


「あの夫婦は外面はいいけど、裏ではなんでもありの仮面夫婦だったの。二人とも愛人囲って好き放題やって。あたしはずっと一緒にいたから分かる。あたしを隠れ蓑にしてた間は、それは表に出なかったの。わたしにいい顔したかったんでしょ。でも、あたしが家を出た途端に裏の顔が吹き出した。お互いの秘密を暴露して、罵り合って」


 修羅場だな……。


「まあ、あたしはもう独立してるし、あとは二人で勝手にやって。そう言えればどんなに楽かなあと思う」

「言えないの?」

「あの二人。会社の経営権を巡って裁判起こしたの。そしたら、それまであたしには何もしてくれなかったくせに、急に猫なで声を出してあたしを味方に取り込もうとし始めたの。おまえを育ててやったのはわたしだよなって、ね」


 うわ。たみを巻き込もうとしたのか。それは……。


「ねえ、トシなら耐えられる? 毎日のように、あたしの働いてる店やアパートに来て、ぐだぐだと恩を着せるセリフを吐き散らかすんだよ。あたしがどんなに、どっちの味方もしない、知らない、関わりたくないって言っても、聞く耳持たないの。何不自由なく育ててやったのにこの恩知らずって、逆にあたしを罵って帰ってく。毎日、毎日」

「それで一葉館に?」

「そう」


 泣きそうな顔で、たみが俯いた。


「働いてたサロンの先輩に鳥羽さんとこを紹介してもらって、こっそり前のとこを引き払ったの。店も辞めて。鳥羽さんには最初から全部事情を話した。緊急避難だって言って」


 そっか。僕より先に、大家さんが事情を知ってたってことか。


「なんで……なんで、あたしばっかこんな目にあうのかって。引っ越した日に、部屋の中で一人でぶち切れて荒れた。飲んでたワインのグラスを壁に投げつけて、染み作っちゃった。慌ててコルクボード買って隠したけど」


 色だけでなくて、壁そのものも傷付けちゃったんだろなあ。あの細かい大家さんがそれに激怒しなかったのは、たみの窮状を知ってたからっていうだけじゃない。たみの精神こころが限界に近かったのを察して、心配したからだろう。


「次に働く店探してる時に。あの写真……貼ろうと思ったの」


 俯いたまま。たみがぽつんぽつんと悲しい心情を付け足していく。それは、僕の心の底に落ちて青い染みになっていく。次々に。途切れることなく。


「あの写真は、わたしがあの夫婦に買われた日に撮られたの。きれいな服を着せられて。でも、かわいいとも、笑ってとも何にも言わないで。あの夫婦は、あの角度が一番あたしがきれいに見えるからってそうしたらしい。まるで売り物の犬の写真撮るみたいに。あんなひどい顔に写して……」


 僕や小野さんが写真から感じ取ってた印象は、外れてなかったってことだ。決して、角度や見間違いのせいじゃない。撮った人がたみに何も気を遣ってなかったってことが、あの写真からいやでも見えてきてしまう。


「でも、あたしには選択肢がなかった。買われるまま行くしかなかった」


 たみは写真を手にして、ぼんやりと見遣る。


「こんな写真。さっさと捨ててしまえばよかった。でもね。さっきトシが言ったのと同じことを、あたしもずっと考えてたの。この写真の中のわたしがサイテーの時。きっと、あたしはこれよりよくなる。希望も何もないこんな状態には、二度と戻らないって。だからあたしはこの写真をずっと持ってたの」


 そうだったのか……。


「あたしはさ」

「うん」

「決められないんだよ」

「え? 何を?」


 たみは、横を向いてぼそぼそと話す。


「なんだかんだ言っても、十年以上あたしを育ててくれたのはあの夫婦なんだよね。あたしの本当に欲しいものはくれなかったけど、お袋みたいにあたしから取り上げることはしなかった。だから、何か恩返しできるならそうしたい。でも、あたしを取り崩すつもりはないの。やっと。やっと自分を手に入れたんだもん」

「うん」

「あたしはどっちの味方もできない。どっちかに付いたら、あたしが倍憎まれて、壊されちゃう。でも、突き放しても突き放しても、あの夫婦は追っかけて来る」


 たみが、僕の前に握りこぶしをぽんぽんと並べた。


「いつかほとぼりが冷めるまで、逃げ続けた方がいいのか」

「うん」

「きちんと片を付けちゃった方がいいのか」

「親子の縁を切るってこと?」

「そう。あたしにもう二度と関わんなって」


 たみが、塞ぎ込んじゃった僕の顔を見て寂しそうに笑った。


「ふふ。やっぱ、なかなか言えないよね。そんなこと。だから、悩んで。悩んで、悩んで。そのことしか頭になかった」


 そりゃあ、無愛想にもなる。他のこと考える余裕なんか、これっぽっちもなかったんだ。切羽詰まったたみの思いに押し潰されて、僕の口からふーっと細く長く息が漏れた。


「あの夫婦は、あたしが一葉館にいることを嗅ぎ付けたら必ずまたちょっかいを出してくる。鳥羽さんに迷惑はかけられない。あたしの中でどうするか決まらないまま、あたしは次の職を決めたの」

「それが今のところ?」

「うん。あそこは親子で美容室やってて、ママもゆかりさんもすっごいいい人なの。ほっとする」


 ああ、そうか。ママってのはそういうことか。


「事情を話して、住み込ませてくれって頼んで。いいよって言ってくれた。本当に助かる。でも。結局、一葉館を出るまでに結論は出せなかったの。決められない。どうしても決められない。それで、あの写真で賭けをすることにしたの。そうしないと踏ん切りが付かないから」

「うん。賭け、か」

「そう。もし、あの写真があたしの後の人に捨てられたら。あたしのところに戻って来なかったら。それが縁の切れ目。あたしは、夫婦と対決しよう。もう、あんた方のことは知らない。二度と顔も見たくないって。その後でどんな攻撃をされようと、あたしは戦う」


 たみが、握っていた二つの拳を一つ開いた。


「でも、もし写真があたしのところに戻ってきたら」


 たみが写真に目を落として黙った。それから残った一つの拳をゆっくり開いて、その手のひらをじっと見つめた。


「あたしは。あたしは我慢しよう。いつか嵐が過ぎ去るまで」


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