(6)
僕は、最初にあの美容室を訪ねた時のたみの反応を思い出す。単に、知らない男が訪ねてきたことへの警戒じゃない。あれは……僕が、自分を追いつめようとしてる夫婦からの回し者じゃないのかっていう疑いの現れだったんだ。でも、僕は写真のことは何も知らなかった。写っているのがたみかどうかすら。それが分かって、安心したんだろう。僕が無関係だってことが分かったから。
ただ。たみは、その場で写真の持ち主が自分だとは言えなかった。そうすれば、写真は自分のところに戻ってきてしまう。せっかく今の店で落ち着いた暮らしが始まったのに、もうそこを出ることを考えないとならない。たみは、きっと休息が……猶予が欲しかったんだろう。ほんとにそれが得られるのかどうかは分からないけれど。僕が写真をどう扱ったのかを大家さんにすぐ確かめなかったのも、怖かったからだ。僕がどうしたかを聞いてしまえば、それがたみの出すべき結論になるのだから。
僕がじっと考え込んでしまったことで、たみは不安になったようだ。
「どうしたの?」
「いや……」
僕が考え込んでいるのはたみのことじゃない。この後僕に投げかけられるだろう、たみの問い。それに僕がどう答えるか。答えないとならないのか。大家さんが言ったみたいに、僕はたみの生き方に関わる覚悟でこの写真のことを聞きに来た。でも僕はその方法を。関わる方法を知らない。
たみの身の上話に感想を言うことは簡単だ。辛かったね、大変だったねって。でもたみが今求めているのはそんなことじゃない。決断だ。僕はそれに口を挟めるだろうか? それが僕の関わる方法として、本当にベストの方法なんだろうか? 僕の中で答えが出ないうちに。たみの口が動いた。動いてしまった。
「ねえ。あたし、どうしたらいいと思う?」
たみの言葉が、目の前で激しくスパークする。
僕は今まで誰とも関わってこなかった。家でも、大学でも、職場でも、バイト先でも。僕が自分の部屋にいなくても。僕がいる場所が僕の部屋だった。僕には、生きて行くための最低限の関わりさえあればそれでよかった。それ以上は要らなかった。極端に言えば、はいかいいえか、それだけの言葉で全部事足りた。だけどそれが、今僕を崖っぷちに立たせてる。
僕の目の前で、写真とたみの問い掛けが火花を散らして僕を照らしてる。もう逃げられない。逃げちゃいけない。
「ふうううっ」
僕は大きく一つ息を吐いた。
「たみ。さっき喫茶店で言ったけど、僕は今まで誰とも本気で関わろうと思ったことがない。引きこもりっていうのは、だてじゃないんだ。僕はほとんど壊れてる。他人が僕を見てすぐにはそう見えないってことが、もっと事態をひどくしてる」
自分の口から出した言葉が、鋭い刃となって自分自身を切り刻む。でも、それを乗り越えないと僕の明日は来ない。
「お金だけじゃなくて、僕は何も持ってないんだよ。人との関わり合い方もよく分かんない。喜怒哀楽だって、僕のは歪んでる。今、こんな状態になって一番僕が辛いのは、僕に真正面から人と関わった経験がないってことなんだ。挨拶とか日常会話のことじゃないよ。今話してるみたいな、生き方に関わること。僕は自分自身のそれすらまじめに見なかったんだ。考えたことがなかったんだ」
辛いけど。嘘はつけない。
「そんな僕は、たみの大事な決断には口を出せないよ。いや、たみにだけじゃなくて、僕は誰の生き方にも口は挟めないんだ。言えるような何も持ってないから」
たみは、がっくりと項垂れてしまった。
「でもね。僕が、一つだけたみに言ってあげられることがある」
たみが、すがるような目で僕を見上げる。
「なに?」
「僕のこの体たらくは、全部僕自身が招いたことさ。他の誰のせいにも出来ない。僕自身の失敗。だから、僕が自分でなんとかしないとなんない。だけど、たみのは違う」
僕は、しっかりたみの目を見つめた。
「たみは、これまで自分で自分の生き方を考えてきた。周りがたみをどんなに振り回そうとも、たみ自身がそれに負けずに生き方を決めてきた。たみはどこも悪くない。そこが僕と違う」
吸い込まれるように、たみが僕の口元を見ている。
「だからね。たみがどんな決断をしても、それは正しい。だって、たみはそうやって生きてきたんだろ?」
僕には。それ以上の言葉は見つからなかった。それは。小さいけれど、僕の口から出た初めての火花。溜息や弱音しか吐き出せなかった僕が、初めて人に投げかけた信号弾。それがたみにどう見えたのか、僕には分からない。
僕に見えたのは、たみの頬を伝う涙……それだけだった。
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