(2)
バースデーケーキのプレゼント。園部さんは本当に嬉しかったんだと思う。でも、それに対する感謝の言葉は出なかった。涙でしか、それを表現できなかった。それくらい、野良猫として邪険に扱われていた間の傷が深いんだろう。
不信感。虚無感。絶望感。そういうものにがんじがらめになっていた自分を捨てて、一歩を踏み出すこと。僕もそうだけど、園部さんもまだ踏み切れていない。僕は、マグカップの氷をからから言わせながら、ぼんやりそれを考え込んでいた。その間に、横手さんがハイピッチでお酒を飲んでいたらしい。僕が我に返った時には、小野さんが心配するほどぐでんぐでんになっていた。
「おいおい、横ちゃん。弱いのに飲み過ぎだよ。そろそろ切り上げな」
「いっ。放っといてくれ」
あの時と同じだ。酒で赤く濁った目を小野さんに向けて、横手さんが愚痴りだす。
「あんたはさあ、毒だ」
「毒ぅ? おいおい聞き捨てならねえな」
「優しすぎんだよ」
「……」
「姉貴は、結局最後まであんたの泥沼を抜けられんかった。あんたはまじめだから、奥さん子供を裏切る真似は絶対にしない。姉貴はあんたの優しさだけもらい続けることが、苦しくて苦しくてしょうがなかったんだよ。あんたがなんも受け取りゃしないから」
え? 小野さんが黙って俯いてしまった。
「あの、横手さんのお姉さん……て?」
僕にぴっと指さして。
「三ツ矢さんの前の住人。
「あの、横手さんと姓が違いますよね。確かずっと独身だと……」
「あたしが結婚してたんだよ」
な! なにい!?
「別れたけど。仕事は結婚した時のダンナの姓でやってるからね。苗字は戻してないんだ」
そういうことだったのか。
「うちは。親父が早くに死んで、小料理屋やってるお袋が女手一つであたしら姉妹を育ててくれた。男のいない女所帯さ。だから、オトコとのやり取りがよく分かんない。姉貴はものすごく用心深くなっちまって、浮いた話一つ出て来なかった。あたしは逆さ。なんでも体当たりで、いろいろやらかした。ぷぅのことなんか言えないよ」
知らなかった……。
「勤め始めた新聞社の記者と出来ちゃった結婚して、自分でも落ち着いたかなあと思ったら。ダンナが逃げた」
「浮気ですか?」
「知らないね。追いかけるつもりもなかった」
うわ……。
「子供が独り立ちするまでは会社にしがみついてたけど、男連中の身勝手に振り回される生き方がやんなった。全部ぶん投げて独立した」
横手さんの声が小さくなった。
「姉貴はね。ずっとやんちゃなあたしの心配をしてくれたんだよ。独立した時は、あたしはほとんど無収入だ。家ぇ売っ払って、姉貴が住んでたここに転がり込んだ。姉貴は、仕事しながらあたしの面倒も見る、そういう感じだったのさ。それはしんどかったんだと思う。だから小野ちゃんに寄っかかった。泥沼に足突っ込んじまったんだ」
泥沼……って。なんかひどい言い方だけど。
横手さんが、小野さんをぎっと睨んだ。
「あんた、姉貴が酒好きだと思ってないか? 姉貴はあたしと同じで元々飲めないんだよ」
「えっ!?」
小野さんが、驚いて顔を上げる。
「やっぱ、気ぃ付いてなかったな。あんたの優しさぁ、ほんとに始末に負えん。半端でね」
「う……」
「あんたぁ、人が良くて誰でも自分の近くに寄せるけど、ほんとに中に入り込むのは許さない。姉貴の好意をまるっきり袖にした。でも、姉貴にはあんたと飲むしか一緒にいられる手段がないんだ。体ぁ壊すまで飲むしかなかったんだよ」
ふうっ。猛烈に酒臭い息を吐いて。横手さんが毒づいた。
「姉貴殺したのは、あんただ」
殺し……た? ぎょっとした僕の顔を見て、横手さんが寂しそうに笑った。
「アルコール性肝炎から、肝臓ガンへ。見つかった時には手遅れさ。姉貴が病院行くのも入院するのも最後まで嫌がったのは、あんたの側から離れたくなかったからだよ。ばかばかしいっ!」
だんっ! 横手さんが座卓の上を思いきり拳で叩く。フォークが飛んで、ちんと音を立てて床に転がった。横手さんは、そのまま俯いてしばらく黙りこくった。
「姉貴を看取った後。あたしはあんたの顔を見たくなかった。だからしんどいのは承知の上で海外の仕事を取った。でも、そいつが終わっても、あたしは帰りたくなかった。もうお帰りって言ってくれる人はいない。顔も見たくないあんたしか、ここには残ってないんだ。だから、あの日も潰れるまで飲んだんだよ」
そ……か。
「なあ、小野ちゃん。あんたは悪くない。誰にも、何もひどいことはしてない。でも、中途半端にかまうのは止してくれ。期待させといて何もくれないのは、最初から何もしないよりずっとたちが悪いんだよ」
ぷいっと顔を背けた横手さんが、そのまま横に倒れ込んで寝息を立て始めた。小野さんは……。
「邪魔したな。ごっそさん」
そう短く言い残して。引き上げた。僕は横手さんをベッドに抱え上げて。園部さんにちょっと手を振って。
……自分の部屋に戻った。
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