(3)

 その夜は、今年一番の冷え込みになった。僕はセラミックヒーターの真ん前に陣取って、さっきの横手さんの話を思い返していた。


 あれは、横手さんがあの子をど突くために言ったこと。だけど、それは僕にも深々と突き刺さった。つまんない生き方の延長線上には、つまんない死に方しかない。僕よりはるかにまともな生き方をしてきた両親さえ、最後にあんな幕引きをしてる。じゃあ、僕は……? 言うまでもない。


 ああ、なんのことはない。僕はあの子を猫だって言った。あれは野良猫だ。でも、僕も猫じゃないか。家猫でもなく、野良猫でもなく。中途半端に家とその周りをうろついて、ぐだぐだと無駄な時を過ごしてる。同じだ。何も変わらない。


 横手さんが吐き捨てたコトバ。


『ゴキブリみたいに拾い食いしてるだけだ』


 ああ、そうだ。そうだった。僕は、両親の気遣いを拾い食いして生きて来たんだろう。そんなものは要らないというポーズだけ取って。実はべったりと寄りかかって。だから本当の野良猫になってしまった今、次に何を拾い食いできるかってきょろきょろしてる。


 あの写真の子。僕は、その子が今幸せになってるってことをものすごく期待してる。だから、これだけ執着するんだ。そんなの宝くじと同じで、当たる根拠なんか何もない。都合のいい幻想の前でよだれをたらしてる。他人の幸福のおこぼれを探し回ってる。ゴキブリ以下じゃないか。


 僕は落ち込む。どこまでも落ち込む。上昇志向もなく。破滅を望むでもなく。ただなんとなく生きてるってふりをして、ゴミを漁ってる甘ちゃんの猫。


「おう」


 ドア越しに声が掛かって、はっと我に返る。ドアを開けると、ビニール袋を下げた小野さんが寒そうに立っていた。


「あれ? 小野さん、どうしたんですか?」

「いや、ちょっと買い過ぎたから手伝ってくんねえかなあと思ってよ」


 ビニール袋の中を覗くと、柿がいっぱい入ってた。


「うわ、すごいですね」

「ははは、勢いで箱買いしちまってな。さすがにそんなに食えん。手伝ってくれ」

「うわ、嬉しいです! ありがとうございます」

「遠慮なく食ってくれ。ああ、それからな」

「はい?」

「横ちゃんのは特殊なんだ。あんま、自分に当てはめんなよ」


 小野さんに、見透かされてしまった。思わず俯いてしまう。


「俺は、あんたにどんな事情があるか知らねえけどよ。まずは生きることなんだよ。まずは、な」


 はあっと白い息を吐いた小野さんが、街灯を振り返る。


「まずは、な」


◇ ◇ ◇


 ずっしりと重い柿をぶら下げて、それを部屋の隅に置く。それからぼけーっと蛍光灯を見上げた。


 横手さんの激情。小野さんの温情。僕よりずっと長く生きて来た人の中から、自然に溢れるもの。その方向も、示唆の形も違う。でも、どちらもその人の生き様から出て来るものだ。

 二人とも、なぜ今ここにいるかって考えれば。それが順風満帆でなかったってことはすぐに分かる。でも、彼らはそれを言い訳してない。ちゃんと自分の生き方を作ってる。作ろうとしてる。


 足りないもの。自分に決定的に足りないもの。がむしゃらに前に進む決意、意欲、欲求。今まで自分に出来なかったことが、どうやったら可能になるんだろう?


「弁当……食うかあ」


 僕はのろのろと立ち上がって、冷蔵庫を開けた。悩んでいても、腹は減る。食べないと生きてけない。弁当を出して冷蔵庫の扉を閉める音と重なって、僕はその音がよく聞こえなかった。すぐ近くで何かの気配がして、振り返ってぎょっとする。


「あんた、なんでここに入ってきた!?」


 女の子が、パジャマ姿で僕の部屋の中にずかずか入ってきた。さっき小野さんから柿を受け取ったあと、部屋の鍵を閉めるのを忘れてた。しまった……。


「腹減った。なんか食わせてよ」


 こいつ。


「冗談じゃない。俺んとこには他に食いもんなんかないよ!」

「けっ。びんぼーったらしいんだね」


 むっとする。


「出てけ。もう充分ここで休めただろが。あとはあんたが何とかしろよ」


 僕の言うことなんかどこ吹く風って感じで、女の子がセラミックヒーターの前に陣取る。


「おー、さむさむ」


 手をあぶった女の子が、にやっと笑ってこっちを見る。


「アンタさ。あたしと援交しよーよ。いつでも抱き放題だよ。お金くれとは言わない。ご飯だけ食べさして。いいでしょ?」


 呆れてものが言えない。あれだけ横手さんに張り飛ばされたのに、何も堪えてない。腐ってる。芯から腐ってる。風呂に入って身なりは小ぎれいになっても、心が腐ってる。耐えられない。


「出て行けっ!」


 頭に血が上った。僕が全然興味を示さないことにじれたのか、女の子がパジャマを脱ぎ始めた。こいつ……。僕の部屋で、そういう状況のところを他の住人に見せれば、僕が逃れられないって計算したんだろう。どこまで腐ってんだ。


「あんた、家に帰れば親に殺されるって言ったよな」


 計画通りと思ってにやついてた女の子が、僕の顔を見て凍る。


「ひっ」

「服を着ろ。でなけりゃ、この場でぶっ殺してやる」


 僕が包丁を逆手に持っているのを見てさすがに慌てたらしい。わたわたとパジャマを着直した。僕は握ってた包丁をシンクに放り投げる。部屋の中に乾いた金属音が響いた。


 があん。


「いいか。俺はバイトしてるコンビニの賞味期限切れの弁当もらって食いつないでんだよ。ここの家賃と光熱費払ったら、もうすかんぴんなんだ。援交だあ!? こっちが援助してもらいたいわ! ぼけっ!」


 僕にもう少しガッツがあったら、殴り倒してただろう。でも、僕は自分が吐いた言葉で傷付いていた。惨め比べをできるほど、僕自身がだらしない。だからこの子には何もできない。出てけって言うことしかできない。腐ってるのは……僕もそうだってこと。へどが出そうになる。


 ぼーっとしゃがみこんでたその子が、床に突っ伏すようにして泣き出した。


「う……うぐっ、う、うぐっ。お、置いてくれよう。あたしを置いてくれよう」

「だめだ」


 非難を込めた恨みがましい顔で、女の子が僕の顔を睨みつける。


「俺は自分のことで手一杯なんだよ。あんたを引き受ける余裕なんかこれっぽっちもない。横手さんに相談すりゃいいだろ?」


 むっつり顔で女の子が俯いた。


「あのおばはん、コワいもん」

「じゃあ、小野さんは? オトコなら誰でもいいんだろ?」

「おっさんは臭いからやだ」


 自分のことを棚に上げて。よく言うよ。保浦さんや品田さんは、絶対拒絶だろうなあ。恩を仇で返してるから。常識派の仲根さんや大森さんはもっとだめだろう。やっぱり家出人として、警察で処理してもらうしかないか……。


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