(3)
小野さんの部屋はいかにも独身男性の部屋っぽくて、洗濯物やら紙ゴミやら新聞やらがあちこちに散らかってて、お世辞にもきれいだとは言えなかった。
「まあ、そこらへんに適当に座ってくれ」
小野さんが、コップと電気ポットを座卓の上に置いた。紙パックの焼酎をコップに注いで、それにポットのお湯を足す。すぐに湯気とアルコールの匂いがテーブルの上を満たした。
「あとは手酌でやってくれ。無理強いはしないよ」
そう言って、そのコップを僕に渡した。小野さんにとっては、一緒に飲むって言うより、誰かが一緒に居るってことの方が重要なのかもしれない。
「ありがとうございますー」
僕は、お湯割りを口に含む。酒なんて飲むのは久しぶりだ。がさがさとおつまみの袋を開けた小野さんが、黙ってそれを座卓に上げる。それから、ぼそっと僕に聞いた。
「慣れたかい?」
「ええ、まあ。ぼちぼち」
「ふうん……」
小野さんはそれ以上何も言わずに、飲みながらテレビの画面を見続けた。
僕は息苦しくなる。会話のきっかけを掴むのが、僕にはすっごい苦痛だ。誰かに話しかけられれば応答できるけど、自発的に話題を出すのが本当にしんどい。重たい沈黙に耐えられなくて、周りに散らばっていたチラシに目をやった。僕は新聞を取っていないから、こういうのは初めて見る。ピザ屋、スーパーの特売、車のディーラー、不動産屋……。近くにあるのに、僕には関わらない諸々のもの。
あ、こういうのもあるのか。僕が拾い上げたのは、美容室の宣伝の小さいチラシだった。住所を見る限り、この近くみたいだ。そんなに新しいところじゃなくて、おばさんがやってるって感じのところ。店員さんなんだろう。女性が三人、店の前に並んで微笑んでる。マリエ美容室、か。チラシを持ってご来店の方は、割引料金、ね。
小野さんは、僕がチラシに気を取られていることに気付いた。
「どした? なんか特売でも出てるか?」
「いえ……」
小野さんが、僕の手にしていたチラシを覗き込む。
「ほう」
「?」
「ここに勤めてたんか。知らんかったな」
えっ!? 思わず腰が浮いた。
「だ、誰がですか?」
「ん? 三ツ矢さんだよ」
唖然とする。ものすごく大変だと思っていた『辿る』っていう仕事が、あっと言う間にゴールに着いてしまった。小野さんが指差してる先を見る。チラシに写っている女性は三人。年輩の人が店長さんなんだろう。残りの二人のうち、一人はどう見ても三十を越してそうだ。と言うことは……。
「この細い人が三ツ矢さんてことですか?」
「ああ、そうだよ。あいつうまくやってんのかね。ほんとに愛想がねえからな」
小野さんの姿勢っていうのは、ここに住んでる他の住人たちとはちょっと違う。なんていうか、人なつこいっていうか。ただ、女性ばかりのところでそれを発揮しても迷惑になるからって、それを押さえ込んでる感じがする。
「どした?」
「いえ……」
僕は。この場では、三ツ矢さんを訪ねることを言わないことにした。大家さんのところでやった失敗を繰り返すわけにはいかない。
「そうか。こういう人だったんですね」
「ああ、あんたの部屋の前の住人だもんな。そら、気になるわな」
楽しそうに笑った小野さんが、酒をぐいっと飲み干した。
「あらあ生きてくのに苦労するタイプだよ。手負いのまんまだからな」
手負い?
「小野さん、三ツ矢さんのことをなんかご存じなんですか?」
「いやあ、何も知らねえよ。でも、あいつぁここで誰ともつるんでねえ。出入りの時だって一切挨拶なしだ。なんぼここが腰掛けだって言っても、いいオトナがする態度じゃねえよ。しかも客商売の美容師だってのによ。なんか嫌なことがあるか、あったか。そんなもん、詮索しなくたってすぐ分かるわ」
小野さんは、そう言ってふっと溜息をついた。
「しなくていい苦労してんなあと思うよ。俺が人のことを言えた義理じゃねえけどさ」
小野さんには家族がいる。テレビボードの上には奥さんとお子さんが並んで笑っている写真が立てられている。だけど、そこから離れて今ここにいること。それは小野さんにとって、本意ではないのかもしれない。単身赴任なのかなあと思ってたけど、どうなんだろう?
「あの……」
「ん?」
「このチラシ、もらっていいですか?」
「ああ、どうせゴミに出しちまうからそれはいいけどよ。どうすんだ?」
この時点で。意図を隠してもしょうがないと悟った。三ツ矢さんが写っているチラシを僕が欲しがる理由は、誰が考えても一つしかないから。
「三ツ矢さんに会ってこようと思って」
「写真のことでか?」
小野さんが一発で当てた。
「はい」
「ふん」
小野さんがチラシをぱんと指で弾いた。
「相手してくれりゃいいけどな」
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