(4)
一葉館で暮らし始めて一週間。なんとも言えない寂しさは、自分の部屋を自分の気配で埋めることに馴れたからか、少し解消された。
僕の出勤、退勤の時間は他の住人とずれているから、アパートの出入りの時に、住んでいる誰かと出くわすってことはとても少なかった。それでも201号の
二人にもあの写真を見せたけど、やはり何も知らないらしい。それと、三ツ矢さんとの接点は全くなかったようだ。常識派らしい仲根さんが何も挨拶がなかったって呆れてたから、本当にここに長居するつもりがなかったのかもしれない。
そして、さっき。203号の
二人は同じ大学に通う学生さんで、一葉館では一番若い。二人ともエネルギッシュで、会話のテンポが早い。付いて行くのが大変だ。学生さんならもっと小ぎれいなところの方がいいんじゃないんですかって聞いたら、旅行費用捻出するのにできるだけ生活費切り詰めたいってことみたいだ。バイトもぎっちりやってるみたいだし、若いんだけど生活感覚は僕なんかよりかずっと現実的でしっかりしてる。なんか……めげる。気を取り直して、あの写真と三ツ矢さんのことを聞いた。どちらも知らないって返事が来た。ただ……。
写真を眺めてた保浦さんが、ぽろりと言った。
「
「え? 横手さんて?」
「あ? いなかった? そっかー。またどっか撮影の仕事で出てるんかも」
「そういや、しばらく見てないね」
このアパートの住人で、まだ僕が会ってないのは206号の人だけだ。それが横手さんって言う人なんだろう。
「すみません。ありがとうございます」
「へえー」
僕の手元の写真をもう一度覗き込むようにして、品田さんが顔を突っ込んで来る。おっと。
「ねえ、弓長さん。なんで、その写真にこだわんの?」
ぐ。直球の突っ込みが来た。
「うーん……。なんか、ねえ。越して来た部屋の中にぽつんと一枚だけ写真が残ってるって、あれじゃないですか」
「さっさと捨てればいいのに」
容赦ない。
「うん。確かにそうなんですけどね。なんか気になるっていうか」
「ふうん……」
保浦さんが、写真ではなくて、僕の顔をじろじろと見る。どうにも、こういう雰囲気には慣れない。コンビニでバイトをしてる時、お客さんにとって僕は店員以外の何者でもない。誰も僕のことは気にしない。だから、僕も一々お客さんの様子を気にしない。僕にとって、今人と接する機会っていうのはそれくらいしかない。すごく割り切りやすいんだ。
でも。お菓子を返しに来た梅田さんもそうだったけど、ここに住んでる女の人にとっては、僕や小野さんは異端者だ。もともと女性専用だったはずのアパートに入り込んできた侵入者。大家さんが面通しして入居者を決めてるっていう防波堤があるにしても、彼女たちに取ってはあまり好ましくないことなんだろう。
「あの、これからよろしくお願いします」
二人の視線を背中に受けながら、僕はそそくさと自分の部屋に戻った。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
外から派手な音が聞こえてきた。誰かが陽気に歌いながら歩いて来るって感じだ。酔っぱらってるのかなあ。何か重そうなものを引きずってる音が、それに重なってる。歌声は、アパートの入り口のところで一度大人しくなって。その後、とんでもなく大きな騒音に化けた。
がちゃーん、がらがらっ! どおん!
何事だあっ!? 僕だけでなく、アパートの住人が一斉に部屋を飛び出した。それから……目の前の光景を見て、頭を抱えた。二階に上がる階段を踏み外したんだろう。中年のおばさんが、階段の一番下のところにひっくり返ってのびていた。
もしかして、この人が横手さん?
横手さんが引きずってきたんだろう。傷だらけのスーツケースが全開になって、中身があっちこっちにぶちまけられてる。スーツケースの中身が整理されてた形跡はない。洗濯物やら、小物やら、プラ製の食器やら、年季の入ったブラシやら、ぎゅうぎゅうに詰め込まれてたのが弾け飛んだって感じだ。様子を見に来た一同で、しばらく絶句してその様子を見てた。
おっと、容態を確認しないと。僕が近寄って、大丈夫ですかって声を掛けようと思ったら……。
「ぐおーっ!」
いびき。
寝てるし。
酒臭いし。
梅田さんは、付き合ってられんって感じでさっさと引き上げちゃった。小野さんが、僕を見てる。部屋に運んでやれってことなんだろう。小野さん自身が動かないってことは、小野さんには手に負えないってことなのかもしれない。
しゃあない。僕は溜息混じりにおばさんを抱きかかえて、部屋に連れて行ったんだけど。
「あ、鍵が……」
付き添ってくれた仲根さんも、あっと声を上げた。
「そうよねえ。横手さんがこの状態じゃ、どこにあるか分かんないよね」
仕方ないって感じで、仲根さんが僕に言った。
「わたしの部屋に運んで。目が覚めるまでは面倒見るしかないよね。全くぅ」
階下では、大学生コンビと大森さんがせっせと散らばった中身を拾って、それをスーツケースに押し込んでいた。あーあ。あれも、僕が上げないとならないんだろうなあ。
僕は仲根さんの部屋に横手さんを運ぶと、今度はスーツケースを二階に上げた。僕をずっと見上げていた小野さんが、一階に降りた僕に弁解した。
「済まねえな。俺が出来ればいいんだけど、俺はヘルニア持ちでよ。重いもんは持てないんだわ」
やっぱりかー。
「いえ、大丈夫ですよ。なんとかなります」
それにしても、おばさんが夜中にこんなクソ重いスーツケース持って、酔っぱらってうろうろするってのもどうかと思う。スーツケースの中身の回収漏れがないか、もう一度階段の周りを確かめた。
「あ……」
それは。まるで、粗雑なおばさんの魔の手を避けるかのように、階段の足場の下に隠されるように置いてあった。四角いジュラルミンのケース。たぶん、カメラが入ってるんだろう。スーツケースに何があっても構わないけど、これだけは守らないとならない。酔っぱらっていても、本能的にそういう心遣いをしたんだと思う。僕は、そのケースを仲根さんの部屋に運んだ。スーツケースは戸口に出しっ放しでも支障ないんだろうけど、カメラはそうはいかないだろうから。
はあ。とりあえず、これで住人全員の顔と名前は覚えた。最初のハードルはなんとかクリアできたってことかな。
自分の部屋に戻って、お弁当を温めてる間。僕は少しほっとした気分になる。まだここでの暮らしは始まったばかりだけど、僕を露骨に嫌がる人はいなさそうだ。それに、横手さんのレスキューには一応全員が関わった。梅田さんがちょっとあれだったけど、最初から無視したって感じでもない。みんな、他の人のことは知らぬ存ぜぬってことではなさそうだ。
僕は。そのことにほっとする。今まで、自分のことは誰にも構って欲しくなかったのに。なぜか。
……ほっとする。
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