(2)

 バイトが引けて、ホテルにチェックインする前にもう一度明日から住む部屋を見に行く。


 がちゃり。鍵だけが新しい古ぼけた扉を開けて。

 ぱち。灯りを点ける。


 裸電球が一つぽつんと灯っただけの、がらんどうの部屋。何もない。昼間見た時には、古いながらなんとなく風情があるように見えた部屋も、限られた光の下では全てを失う。単なる古ぼけた、かび臭い部屋だ。

 僕が最初にここを見た時の印象も、そんなものだった。僕はここには何も期待してない。安くて、トラブルがなければ、それ以上僕がここに望むものは何もない。


 膝を抱いて、壁際にうずくまる。そして……ぼんやりと考え込む。


「一人暮らし、かあ」


◇ ◇ ◇


 それ、は。最初から壊れていたのか。どこかで壊れたのか。分からない。分かっているのは、僕がどこかで壊れてしまったんだろうということ。


 僕が両親に不満を持っていることは何もない。父も母も、僕に出来ることはなんでもしてくれていたんだろう。でも、それがどこかで噛み合わなくなっていた。僕の不登校が始まったのは、ずいぶん前のことだ。そのきっかけが何だったかも、よく分からない。僕がガッコウに何も魅力を感じなくなって、そこへ行くことに強烈な嫌悪を示すようになってから。僕と親との関係は一変したと思う。


 ごくごく最初のうち。両親は、僕をどうやって学校に向かわせるかに腐心した。でも、僕は何か原因があってガッコウを嫌ったわけじゃない。イジメとか、嫌いな先生とか、何か具体的な阻害要因があったわけじゃない。ただガッコウの世界が嫌いだっただけだ。

 なぜいやだったのかを言葉で説明するのは難しい。強いて言えば。僕は個人の集まりが、意志を持った集団になるっていう幻想が大嫌いだった。そう言うしかない。雑多なものが汚らしく寄せ集まっていて、その中に自分がぷかぷか浮いてる。そんな感覚に耐えられなかった。そう言うしかない。


 でも両親にはそれが全く理解できなかったんだろう。僕を脅し、なだめ、おだて、そして……諦めた。僕が中学に上がった頃から、両親は僕に構わなくなった。僕らは同じ家にいながら、全く別個の存在としてあり続けた。ほとんど学校に行かなかった僕が、受験して高校に行けるはずなんかない。通信制の高校を少しやって、すぐ止めた。


 でも、僕は内心ヤバいと思ってた。このままなら、自分の居場所がなくなる。両親は僕を飼ってくれてるけど、いつ僕にエサをくれなくなるか分からない。その恐怖だけが僕を駆り立てた。僕の乏しいやる気を駆り集めて、大検で受験資格を得た。僕を突き放してる両親の経済援助はもらえないと考えて、アルバイトしながら通える夜間部のある大学を受験した。

 それは。フツーの人から見ると、ものすごい異常なことかもしれない。だって同じ家にいながら、僕と両親は丸っきり別々の生活をしてたから。僕の実家は、僕にとって住み慣れたアパートとなんら変わらなかった。違うのは、親が僕に家賃や生活費を請求しなかったこと。まるでそれが、親としての最後の義務であるかのように。


 大学を卒業した僕は、小さな食品会社に就職したけど。そこを半年で辞めた。そして、それから今まで。ずっと出来の悪いフリーターとして暮らしてきたんだ。実家と言う名のアパートに住み続けながら。


 立ち上がって、灯りを消す。ぱちっ。その直後、部屋は一瞬深い闇に沈み。それからカーテンのない窓からのかすかな光をおずおずと受け入れ始める。


 入って来る光は、他の家の灯りだ。遠く近くで、それぞれの家の暮らしを彩る灯り。住んでいる人たちが、夕飯を食べながら今日という日を振り返っているんだろう。その灯りを点すことを拒絶したのは僕だ。それは間違いない。僕が最初からそうするつもりだったわけじゃないけど。僕には、窓から見えている灯りが手の届かない星のように見える。それは望んでも、願っても、僕の上に点ることはない。


 そう。両親がそうしてくれることは二度と……もう二度とないのだから。


◇ ◇ ◇


 あれからもう三か月近く経っていた。それがずっと前のことなのか、まだ昨日のことのようなのか。僕には分からない。


 最初の徴候は、一枚の書き置きだった。強情なくらい僕には関わろうとしなかった両親が、テーブルの上の紙に走り書きを置いて家を出た。


『海外旅行に行きます』


 両親がたびたび二人で旅行に行ってることは知ってた。でも、それを僕に伝えて行ったことはない。おかしいな。そう思った。そして、違和感はすぐに現実になった。


 旅行会社から、ものすごく慌てた様子で電話がかかってきた。ツアー旅行で行った先のホテルで、集合時間になってもロビーに姿を見せない、と。ホテルの部屋はもぬけの空だった。二人でどこかに出かけたんだろうけど、そこからホテルに戻っていない。地元警察にも事情を話して行方を探してもらったが、足取りが掴めなかった。そして、ホテルの部屋には一枚の書き置きが残されていた。


 もう疲れた……と。


 警察は自殺と事件の両面から調べてくれたが、両親が見つかることはなかった。その上で、今まで両親が抱えていたトラブルが初めて分かった。


 父の事業が左前になって、倒産が避けられない事態になっていた。資金繰りをなんとかしようと父も母も奔走していたらしい。だけど万事窮していた。小さな会社の借金だ。莫大ってことはない。会社を畳んで債務整理すれば済む話だったと思う。でも、父にはそう思えなかったんだろう。全部を放り出して、命で清算するっていう選択肢を選んだ。母を巻き添えにして。


 僕は。アパートの住人である僕は。それを呆然と見ていた。そして僕は、全てを失ったことを覚った。親も、家も、財産も。何もかも失ったことを。残された債務を整理するために、実家は競売にかけられた。両親の名義の預貯金も全て差し押さえられた。僕に残されたのは。わずかな額の自分名義の貯金通帳が一つ。それと僕のアパートの部屋にあるがらくたが少し。


 僕は家を……寄る辺を失った。


◇ ◇ ◇


 もう一度、暗い室内を見回す。


 僕の生き方はこれまで実りが少なかった。それは僕が選んでしまった生き方だけど、僕は好きでそうしたわけじゃない。なんでこんなことに、そういう思いがないと言ったらウソになる。でも、明日から僕はここで暮らさないとならない。生きないとならない。これまでとは違ったやり方で。


「最後の一葉、かあ……」


 吹き散らかされて、ここに流れ込んだ僕一人。僕にはもう後がない。だけど、全部をぶん投げて世捨て人を気取るほどの度胸もない。


 もう一度、窓から入る灯りを眺める。


「さて。ホテルに行くか」


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