一葉館春秋

水円 岳

第一章 カンバセーションピース

第一話 一葉館105号室

(1)

「どうぞー」


 背中を丸めた大家のおばちゃんが、くたびれたドアを引き開けた。ぎいっと大きな軋み音がして、中から少しかび臭い匂いが流れてくる。僕は無意識に顔をしかめた。その表情を見たのか、大家さんが済まなそうに弁解した。


「掃除はきれいにしてあるし、わたしも時々空気を入れ替えてたんだけど、どうしても人が住まないとねえ。ごめんなさいね」

「あ、いえ。この家賃でこんなきれいな部屋に住わせてもらえるんですから」


 それは、お世辞じゃない。確かに建物は古いし、備え付けの収納とか押し入れとかにガタの来てるところはあるんだろう。でもこれまでの住人が女性ばかりだったせいか、部屋はとても丁寧に使われていて、荒んだ感じは一切なかった。


 季節外れに部屋を探すと、確かに安い物件はある。あるけど、それは繁忙期に契約が決まらなかったいわく付きのところが多い。前住人が振り撒いていったトラブル。それが深刻なものであればあるほど、そこがどんなに新しいおしゃれなところであっても、次の契約が決まりにくくなる。知らないでうっかり契約すると、自分が火の粉を被りかねない。それに比べれば、古いからって敬遠される物件はその心配が少ない。特定の部屋だけでなくて、全体に空き部屋が目立つし。そういうもんだって割り切れば、特に文句を言うこともない。


 大家さんは、僕の顔が普通の表情に戻ったことに安心したんだろう。中に入って説明を始めた。


「ええと、ガス、電気、水道は家賃に入ってないので、それぞれで清算をお願いしますね」

「はい」

「電話は?」

「ああ、携帯があるので」

「そうよね。最近の若い方は、みんなそうよね」


 ユニットバスの使い方。故障やトラブルがあった時の連絡先。現在住んでいる他の住人の簡単な説明。そんなのがあって、最後に鍵が渡された。


「安い鍵だけど、住む方が替わられる度に鍵を新しくしているので合鍵はありません。もし必要ならそちらで作ってくださいね。わたしの方では何も申しませんので」

「分かりました」

「お引っ越しは?」

「明日、業者さんに荷物を持って来てもらう予定です」

「忙しいわね」

「はい。でも仕事をそんなに休めないので」

「それもそうね」


 大家さんは、人が良さそうな感じだ。僕は、なんとなくほっとする。


 手にした鍵をちゃりちゃりと揺らしながら、部屋をぐるりと見回す。前回下見で来た時は夜だったので、細部をよく見てない。確かに時代感があるけど、ただぼろになったって感じじゃない。なんと言うか、独特の雰囲気がある。


「あの、大家さん」

「なんですか?」

「一葉館って、僕は樋口一葉のことかと思ってたんですけど、この作りって洋風なんですね」


 おばちゃんは、にこっと笑った。


「ほほほ。気付いてもらって嬉しいわ。わたしが主人とこれを建てた時には、一応コンセプトをこさえたの」


 へえー。


「どんなコンセプトなんですか?」

「一つの葉は、オー・ヘンリーの方よ。最後の一葉」

「あ! なるほど」

「隣り合ってる建物があるわけじゃないから、葉っぱは描けないけどね」


 大家さんが、くすくす笑った。


「だから入居者は原則女性だけって考えてたんだけど。主人が死んだ後、家賃収入を考えるとそうも言ってられなくてね」


 今度は、ふーっと深い溜息をつくおばちゃん。


弓長ゆみながさんは、今はご実家でしたっけ?」


 あ、振られると思った。ヤだなあ……。でも、しゃあない。


「はい。今までずっと家にいたので、部屋を借りて住むのは初めてなんです。ご迷惑おかけするかもしれませんが」

「ほどほどにね」


 大家さんが、そう言ってウインクした。


「じゃあ、今日はご実家で過ごされるの?」


 来たな。


「いいえ。ホテルに泊まります」

「あら。どして?」

「僕の荷物出しと同時に、家を引き払ったので」

「え!? ご両親は?」

「いません」

「あら……」


 同情とも、好奇ともつかない視線が僕の上に点々と落ちた。さっさと退散しよう。


「あの、これから仕事に出るので、また」

「あ、はい。ごめんなさいね。引き止めて」

「いえ、お世話になります」

「よろしくね」


 大家さんが部屋を出て歩き去ったあと。僕は一つ大きく深呼吸した。


「あとでゆっくり見よう」


◇ ◇ ◇


 午後のコンビニは、お客さんが感じているほど暇じゃない。でも、体を動かしていた方がまだ暖かい。寒いバックヤードに行きたくないなあとぼんやり考えながら、手を動かしている。


「トシー」

「なんですかー、店長」

「納品入ってるの、品出ししてくれー」

「はーい」


 菓子の入ったダンボールを開けて、中の袋菓子を棚に並べていく。このコンビニは近くに小中高と学校が揃っているので、菓子と清涼飲料水のはけがいい。欠品を出さないよう、小まめに商品を補充していかないと、売り上げが下がる。もうすぐ下校時間が来る。店はこどもたちでごった返すから、それまでの間に補充を済ませないとならない。弁当をチェックしてた店長が戻って来て、レジに入った。


「早いなあ。もうあと一か月ちょっとで今年も終わりかあ」

「そうですよねえ」


 品出しが終わって、お菓子でぱんぱんになった棚の周りをフロアモップで拭きながら、店長の言葉を聞き流す。


 このコンビニでの仕事は、僕にしては続いてる方だ。今年の四月からだから、もう半年以上ここで働いてることになる。仕事を続けたいと思うところからはすぐにご苦労様って言われ、嫌だなあと思うところからは続けてくれって言われる。でもどっちにしても、僕に最低限の生活費を稼ぐって以外の熱意がない。


 フリーター。世間の人たちからは、お気楽な生活に見えるんだろう。自分を削ってお金にする生き方をバカにして、仕事をつまみ食いしながらひょいひょい生きる。そんな風に。

 でも、僕にはそんな自由人っぽい気質があるわけじゃない。なんて言うか、僕の周りは橋も道路もみんな壊れてしまってる。僕はここを出てどっかに脱出したいんだけど、その方法が分からなくて呆然としてる。自分の周りに何でもあるのに、自分は絶海の孤島にいる気分。それに近い。


「そういやトシは就活してるんか?」


 う。店長の突っ込みが始まった。店長にはすごいお世話になってるから、嫌な顔見せて逃げるわけにもいかない。はああ。


「いえ、ちょっと今身辺がばたばたしてて。それが落ち着いたら」

「何かあったんか?」

「大したことじゃないんですけどね。実家を畳んで、引っ越したんで」

「はあ?」


 店長の手が止まった。


「ご両親はどうしたんだ?」


 僕が黙り込んだのを見て、店長はそれ以上は突っ込んで来なかった。


「いらっしゃいませー」


 その代わりに、入ってきたお客さんに愛想笑いを見せる。これから店はどんどん混むだろう。僕に余計な詮索をする暇はなくなる。でも。


「はあ……」


 溜息が出る。


 店長のように、僕に無理にでも関わってくれる人がいるから僕は辛うじて社会の片隅で生きていられる。それには感謝したい。でも、それが嫌だなあ面倒臭いなあと思う自分もいて。


 海底から長く伸びて揺らめく海藻。僕はそれには巻き付かれたくない。でも、そこにいれば自分は隠れていられる。食べ物にもなんとかありつける。僕にはそこを出る勇気がない。そんな勇気は……どこにもない。


「いらっしゃいませー」


 僕は憂鬱な気分をコトバのハンコでごまかす。楽しそうにだべるこどもたちのやり取りに、少し苛立ちながら。


「いらっしゃいませー」


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