最終話 河を渡る
のぞみさんは、弄んでいた私の右手を胸のところに抱え込んで、じっとしていた。私は、闇の中でぼんやりと考え込む。
時間……ってなんだろう? 考えてみれば、今までは携帯が示す電光掲示だけが、時間の流れを表していたな。何一つ変化がなくて、ひたすらたゆたう川の流れと対岸の花園を見つめるだけの毎日。それに疑問を持ったことも、辛いと思ったこともなかった。
待つこと。そして、来た人を舟に乗せて川を渡すこと。それだけが私に課せられた役割であり、それ以外の意義は私にはなかった。だから私は、時間を気にしたことは一切なかった。それが気の遠くなるような時間であろうが、一瞬のことであろうが、気にしたことはなかった。
今。時がゆらゆらと動いている。動いて、全てが少しずつ変化していく。
私は静かに体を起こす。のぞみさんも私の右手を解放して、同じように体を起こした。闇が少し褪せてくる。川が闇からゆっくりと剥がれて、視界に浮かんでくる。私は、いつものように水面を見た。その流れは以前と全く変わらず、滔々として穏やか。その流れがどこから来るのか、それがどこに辿り着くのか、分からない。
今までそれは、私にとってどうでもいいことだった。でも、私の仕事は終わったのだ。のぞみさんに言ったように、私は、私たちがここに在る意味を考えることができるんだろう。それが私にとって嬉しいのか、辛いのかは分からない。でも、渡す客を待つ意味がなくなった以上、私はここにいても退屈で仕方ない。
徐々に明るくなって来た空を見上げて、私は一つ深呼吸した。その音を聞きつけて、のぞみさんが私の方を向いた。
「だいぶ明るくなって来たね」
「そうですね」
「これが、朝よ」
「そうですか。気持ちいいですね」
「そうね。何かが始まるって感じがするものね」
「始まる……ですか」
「ねえ、わたるさん。これからどうするの?」
「のぞみさんは、何かリクエストがありますか?」
「ううん、何もない」
「そうですか」
私は携帯を取り出して、メールをチェックする。
『ご苦労様。私はもう眠ります。お休みなさい』
催促があった後、一時間後くらいの着信。これが、お母さんからの最後のメールだったのだろう。
私は携帯を畳んで立ち上がった。そして、携帯を向こう岸めがけて思い切り投げた。ひゅっと空気を切り裂く小さな音の後に、ぽちゃんと微かな水音が続いた。
「今、何を投げたの?」
「ボスと連絡を取るための携帯」
「え? 大丈夫なの?」
「だって、ボスはもういませんから」
のぞみさんは、目を大きく見開いて、私の顔を覗き込んだ。
「舟はもう操舵を止めて、コンピュータを完全に切ったはずです。舟を動かす意味がなくなりましたから。当然、神納さんのプログラムも完全に止まった。携帯には、それを知らせるお別れの言葉が入っていました」
「あ……」
「昨日、渡しを急かしたのもそのためでしょう。メインコンピュータが止まれば、神納さんのプログラムも同時に停止するから。ニンゲンで言えば、私たちはもう肉体を失って死んだはずです」
私は、目を細めて対岸を見やった。風が少し強くなっている。吹き散らかされた花弁が舞い上がって、水面にひらひらと落ちている。
「でもね、夢は消えてない。いや、もうここは夢の世界じゃない。私たちは、ここにいる。私たちの心がここに在るから、ここにいる」
「そうね」
これまでずっと塞ぎ込んでいたのぞみさんが、立ち上がってぐいっと思い切り伸びをした。
「わたるさんは、強いね」
「違いますよ」
「え?」
「私は何も知らないのです。自分が何者かすら。だから、それが知りたい」
「うん」
「私が、なぜ今在るのか。私に何ができるのか。そして、私がのぞみさんと一緒にいるのはなぜか」
ゆっくりとのぞみさんが微笑む。
「そうね。わたしが独りだったら、私はカラダだけでなくて、ココロも死んでいたでしょうね。だけど、わたしにはわたるさんがいる。現実の神納さんが、望んでも焦がれてもどうしても得られなかった心の拠り所が、わたしの隣に在る」
私もゆっくり立ち上がって、のぞみさんの隣に立った。のぞみさんが、ぐるりと川を見渡す。私もその視線を追って川向こうに目をやる。
「わたしは、それだけでいい。それ以上を望まない。だから、わたるさんが自分を探そうとするところに、わたしは付いていきます。その旅を通して、わたしはわたるさんと、わたし自身を理解すると思う。そして、それを幸福だと思うでしょう」
のぞみさんが、川面に向かって静かに両手を合わせた。
「それが、神納さんが私に託した祈り。全ての人が幸福であるようにと、その形を探すようにと、わたしに託した心」
のぞみさんは私に歩み寄ると、正面から抱きついた。……暖かい。
「わたるさんが渡し守から解放されたように、わたしももう
そう言って、私の顔を見上げた。大きな黒い瞳に、私の顔が映っている。そうか。私はこういう顔だったわけね。
「ねえ、ちょっと顔を下げて」
なんだろうと思って腰を屈めたら、いきなりのぞみさんが私の口を唇で塞いだ。んんー?
「なんのまねですか? それは?」
ぷーっと頬を膨らませたのぞみさんが、渋々解説をする。
「キスよ。人間の愛情表現」
「うーん、私はいろいろとのぞみさんに教えてもらうことが多そうですね」
苦笑いしたのぞみさんが、溜息混じりにこぼした。
「ちょー鈍そうだもんなあ、わたるさん」
だって、知らないものはしょうがない。まあ、それはそれだ。さてと。
「のぞみさん」
「なに?」
「のぞみさんとここにいる間に、私とその周りにはいくつか変化が訪れました」
私はとんとんと、足元を踏み鳴らした。
「探検をした。お弁当を食べた。お茶を飲んだ。青空が見えた。風が吹いた。夜が来て、朝が来た。それは、のぞみさんがもたらした変化。私の望んだ変化。だから私は向こう岸に行こうと思います。ここにいても、もう何も変わらないでしょう。つまらない。向こう岸がどんな世界であっても、たとえそれが終末だったとしても、私は変化を探したい」
「うん。そうね」
「私は、川を渡って舟を捨てます。もう渡し守でいる必要はないんだから。のぞみさん、付いて来てくれますか?」
「うん!」
のぞみさんは、最初に会った時みたいに、いっぱいの笑顔を見せて頷いた。
空を覆っていた薄雲はぬぐわれたように消え去って、青空にいくつか白い綿雲が浮かんでいる。
舟にのぞみさんを乗せてもやい綱を解き、竿で川床を突いて舟を出した。これが、渡し守としての最後の仕事だ。舟は、滑るように水面を進んでいく。私は、初めて川面を渡る暖かい風を頬に感じた。水面には青空が映り、散った光が私の目を射る。竿を動かすたびに、水の匂いがする。ぱしゃっ、ぱしゃっ。竿が水を掻く音が軽快に響く。舟から身を乗り出したのぞみさんが、川の水を手に取っている。
「不思議ね。今度はちゃんと手も袖も濡れる。冷たいの。この水、飲めるのかなあ」
「お腹壊しますよ?」
のぞみさんが、くすりと笑った。
どこか。それがどこからかは分からないけれど。遠く遠くから、鳥のさえずりが耳に飛び込んで来た。ふと足元を見ると、川面に小さな虫が浮かんで跳ね回っている。そうか。これが私の望み。命に焦がれた私の望んだこと。
命。私がそれを手に入れることが出来るのか、出来たのか、それは分からない。でも、私はそれを確かめようと思う。自分にとって命とは、幸福とはなにか、それを知るために。のぞみさんと一緒に歩いていこうと思う。どこまでも。
対岸には、まばゆいほどの花園が広がっていた。蜜を集める蜂の甲高い羽音が、時々響いてくる。
舟着き場に舟を寄せて、真っ先に自分が下りる。今まで、一度も下りることを許されなかった対岸に。そして、のぞみさんを抱き上げて舟から下ろした。
私は竿を静かに川に流し、舟のもやい綱を緩めて舳先を川に向かって押した。舟はゆっくりと横向きになり、流れを下っていった。私とのぞみさんは、舟が見えなくなるまで川縁に並んで佇んでいた。
「さあ、行きましょうか」
私がのぞみさんを促すと、のぞみさんは恥ずかしそうに手を差し出して来た。私は、自然に笑顔になった。そうして、その手を握って。
花園に足を踏み入れた。
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